24.洋墨と余白
マリアベルさんが出国したらしい。
夜会終え二日経った今日、そんな話を耳にした。元々そこまで親しいわけでもなかったしこれといった別れの挨拶もなくマリアベルさんはいなくなった。
結局あの人は最後までよくわからない人だったわ。
何を考え、何を感じていたのかをなんとなく察することは出来たけど、ただそれだけ。そう言う人だったと知れたけど理解は出来なかったし、今後もないでしょう。
多分もう、マリアベルさんに会うことはないと思う。だからあの人との話はこれでおしまい。
私はというと、ゆっくり体を休めた後、つい先ほどアニーによって届けられた一枚のメッセージカードを受け取ったばかり。
カードを収めた小さな封筒は王家の意匠の蝋印で封がなされている。中を改めずともわかる。差出人はオスカー様だわ。
私を気遣う文面のあとに、明日時間があればお茶をしませんかと書かれている。オスカー様からの誘いなんて珍しいわね。一つため息を付き、引き出しの奥にカードを仕舞い込む。
「明日会いたい、か……」
オスカー様にこういったお誘いをされるのは何年ぶりだろう。
皇族教育の一環で城に足を運び、顔を見せて帰宅するのが毎日のルーティンだったけど、わざわざカードを寄越してというのは今までも数えるほどしかない気がする。最後に来たのは二年前だったかしら。まあ、今更どうこう言う気もないんだけど。
仕舞い込んだカードの代わりに、新しいカードと封筒を取り出して了承の旨を綴る。ああ、もう少しでインクが切れそうね。今日はもう予定もないし買いに行こうかしら。
カードを中に収め封をする。アニーに渡して置けば届けてくれるでしょう。メッセージカードを預けると同時に街に出ると伝えて馬車を回してもらうようアニーに声をかけた。相変わらずよく笑う子ね、メイドの中でも一番メイドらしくない思う。
他のメイドたちは仕事と割り切っているだろうにこの子ときたら。なんの時にもならないだろうに私のことで心を痛めたり、まるで自分のことのように喜んだり。少し心配になるくらい感情表現豊かだと思う。バカな子よね、早くこの家を出てどこかに輿入れしてしまえばいいのに。
椅子から立ち上がり少しだけ伸びをする。簡単に身支度をして開け放ったままの窓を閉めるために手を伸ばした。窓の外にはいくつかの雲と青い空が広がっている。ふいに風が入り込みカーテンが躍った。外では木々の葉が揺れている。木漏れ日に目を細めながらそっと目を閉じる。
ゆっくりと呼吸をして窓を閉めた。特に何かが入っている訳でもない小さな鞄を一つ指にかけ部屋を出た。見慣れた廊下はいつも通り静まり返っていて相変わらず活気のない屋敷だと思う。
玄関ホールに向かう途中、反対側から怖い顔をしたお父様が歩いて来た。多分きっと、わたしの顔を見て眉間のシワが深くなったんだろうと思う。立ち止まり頭を下げる。お父様はわたしの前で足を止めて腕を組んだ。
「どこへ行く」
「街の方へ。いつも使っているインクがもうすぐ無くなりそうなので」
この人とも、話をするべきなんだろうとは思う。でもオスカー様以上に話を聞いてくれないんじゃないかとも思うのよ。だってこの人、あれ以来ずっとそうだもの。私がオスカー様の婚約者になり、私たちが男爵家から伯爵家になって以来ずっと。
「彼と、会うのではないな?」
「さぁ。どう思われます?」
毎回外に出る度に会っているわけじゃないわ。でもお父様にはどう見えているのかしら、なんて考えて口を開いた。もう少し言い方があった気もするけど、一度出てしまった言葉はなかったことには出来ない。
私はこの人たちを諦めないといけないのね。眉間のシワと厳めしい物言いでずっと私たちを守ろうとしてくれているのはわかる。でももう、そういうのはいらないのよ。お父様。
酷いことを考えている自覚はある。今まで皆でずっと守り続けてきたものを勝手に壊そうとしているんですもの。恨まれたって仕方がないわ。お父様は小さくため息をつき、それからゆっくりと口を開く。
その声に、どこまでも穏やかでまるで春の陽射しのような優しさを感じさせたあの頃の面影はない。感じるのは理解を拒むような嫌悪と困惑。自ら破滅に身を晒すような真似をしている私が信じられないのでしょうね。そしてそれに、自分たちが巻き込まれる位置にいるならなおのこと。それでも私はこの選択を変えられない。
「わかっているのか? 彼は子爵だ」
「私たちは男爵でした」
お父様には、何が見えているんだろう。結局、爵位って何なんだろう。何がどう違うんだろう。お父様が険しい顔で私を見下ろしている。
どうして何も言ってくれなのよ。伯爵だろうが男爵だろうがあなたは私のお父様に変わりはないはずなのに、どうしてあの頃の様に笑いかけてくれないの?
「お話がそれだけなら、失礼します」
お父様の隣を通り過ぎる。
出来るだけいつもよりもゆっくりとした歩調で、しっかりと前を向いて。一歩、また一歩。進んで行く。最後の一歩。あと少しで廊下の角を曲がってしまう。息を飲む。足を前へ。最後まで、声はかからなかった。
一瞬で重くなった体を引きずる様にさっきとは違う心情でのろのろと玄関に辿り着く。ホールには既にアニーが待機していた。
「え、シャルロットお嬢様? 顔色が悪いですよ? お休みになった方が……」
「気にしないで、何でもないから」
心配するアニーを制して外へ出る。扉を開けると眩しさに目がくらむ。空は青く澄み渡り白い雲がゆっくりと流れている。ああでも、雨季が近いせいか最近はなんとなく雲が多い気がするわ。
お父様は何もおっしゃってはくれなかった。私も、ちゃんと聞かなかったけど。でもせめて一言、あの頃の様に名前を読んでくれたら話ができるんじゃないかって希望が持てた。
ダメね、先に諦めたのは私の方なのに。自分は何もしなかったのに人に期待して、勝手にがっかりして。バカみたいだわ。
御者の手を借りて馬車に乗り込む。扉が閉じ、アニーが手綱を握る御者に指示を出すとゆっくりと馬車が進み始めた。窓の外では、ただただ代わり映えしない景色が流れている。背もたれに体を預ければ少しだけ沈み込んだ。
私は、どうしたいのかしら。どうなりたいのかしら。もうすぐ来るはずの未来が少しだけこわい。私がオスカー様との婚約を破棄したら、お父様とお母様は。借り物の爵位は。
流れる雲と同じ様に私の気分もなんとなく重い。街についてインクを買って、それから……どうしようかしら。しばらくは家に帰りたくない。帰ったところで気にもされていないかもしれないのだけれど。
窓の外で強い風が吹いたらしく。木々が大きく揺れている。枝から落ちた葉がガラスの向こうで舞っていた。
ぼんやりとそんな様子を眺めていたら、どういうわけかハンス様のことを思い出した。困ったわ、これではお父様をどうこうと言えないじゃない。そう。思い出してしまったのよ、彼を。
あの人は今頃何をしているんだろう。城で文官としての業務に追われている頃かしら。それとも同僚たちと休憩時間を楽しんでいる頃? 別に会いたいとかそういうのじゃない。あの人ならこんな時何をして時間を過ごすのか気になっただけ。
だからこれは、ちょっとした好奇心よ。多分きっとそう。そういうことにしておきましょう。
お父様の前で、あんな態度をとっておきながら自分の心ひとつ整理できない。私は一体どうすればいいのかしら。わからない。だって私は、ずっとこのままの生活が続くものだと思っていたの。でも、それも出来ないとわかってしまった。
ああ、そうだわ。出来ないとわかってしまったから、どうしたらいいのかわからなくなってしまったから。私はハンス様にその答えを求めようとしているのかもしれない。
ハンス様は、私を好きだと。幸せにしたいと言ってくれた。そしてその上で隣にいるのが自分でなくともいいんだとも。それは、私にはとても残酷な言葉に聞こえた。
だってその言葉は、その言い方は私なんて何にも見えていないじゃない。自分の感情しか見えていなくて、私がどう思っているかなんて関係がないというような言い方。そんな風に言われてしまったら、私はもう何も言えなくなってしまう。そんなの、酷いわ。
でも、彼はそうやって諦めて生きてきたのでしょう。誰かを愛することを。誰かを大切にすることを。それが彼なのだわ。
もし、私が貴方の隣にいたいと言ったなら、貴方はどんな顔をするのだろうか。困る? 驚く? 喜ぶ? どれにしても、あまり見たくはないわね。その表情を見てしまえば、私はきっとこの先一生後悔すると思う。
そして何より、その彼が私に返す言葉が想像できてしまいそうな自分が嫌だった。もし本当にそう思ってくれるなら、どれだけ嬉しいだろう。もしそれを言葉にしてくれるなら、きっと私はこの先ずっとそれを忘れずに生きていくでしょうね。でも、それでは誰も幸せになれない。
結局、幸せって何なのかしら。好きな人と想い合って、結婚して、一緒に暮らしていくこと? 愛し合う二人が寄り添う姿は美しいと思うけれど、私はそれを幸福と呼ぶのはなんだか違う気がした。
マリアベルさんなら、その答えを知っていたかしら? あの人なら、それが正しいかどうかは別としてマリアベルさん自身が信じるもの言葉に出来たのでしょうね。私には出来ないわ。
だって私は今もずっと悩んでいる。ずっと自分の気持ちもわからないでいる。ただ一つ言えるのはこのままだと私も、ハンス様も。そしてオスカー様も不幸せなままだろうということだけ。
あえて勝敗を決めるならマリアベルさんの一人勝ちね。だってあの人は全部この街に残して綺麗な思い出にする気でいるんだもの。きっと今頃、馬車の中で微笑んでいるに違いないわ。
なんとなく陰鬱になった胸の内を大きく息を吐き出すことで振り払う。まだ、これからのことは上手く考えられない。どうしたいのかも、どうして欲しいのかも。
私はまだ、ハンス様の言葉にこたえられない。




