20.零れた傍白
ハンス視点
目の前にいる女性のことを俺はよく知らない。
光の加減で少し赤みが出るベージュの髪に白い法衣。多くの教徒を付き従えた聖女が何故か俺の前にいる。この国の宗教である神聖教では身分差はないとされているが、実際は違う。王族や貴族といった上流階級にはそれなりの特権があるし、平民だって貧富の差はある。
つまり何が言いたいかというと、彼女は俺よりも上位の存在なわけだ。教会に住んでいるはずの聖女、マリアベル嬢が何故ここに、という疑問はあるものの一先ず道を開ける。
抱えていた書簡が崩れないように持ち直せば彼女が付き従えていた教徒たちを先に行かせてにこりと笑った。書庫に行く途中だったのだが、何かあるのだろうか。
マリアベル嬢に付いて知っていると言えば、王都から少し南下した先の商業都市にある教会に住んでいて、教会に選ばれた聖女であるということ。
それとシャルロット嬢と交友があるらしいといったくらいだ。シャルロット嬢は否定していたが時々話をされているし仲が良いのだと思う。
ああ、後は俺にはよくわからないが、同僚が美人だと熱を上げていたとか。色々と彼女にまつわる噂はいくつかある。彼女が今日、城に来ているのもその話の一つが理由だろうか。だとしても、俺に直接関係がある話ではないのだが何故わざわざ俺の前で立ち止まったのか。
「こんにちは、ハンス様」
「ええ、どうも」
マリアベル嬢は、人当たりのいい笑顔をしていて愛想が良いと感じる。
自分はよく威圧している様に見えると言われるのだが、マリアベル嬢の様に笑顔を振りまけばそう言われるのも減るのだろうか。今のところはっきりと言われてはないのだが、もしかしたらシャルロット嬢にも威圧的だと思われているかもしれない。
出来ればそれは避けたいのだが、生憎笑顔を意識して作るという工程が苦手なので別の手段を講じるべきか。これ以上は悪い印象を与えたくないのだがな。
「一昨日、シャルロット様にお会いしたんですよ」
やっぱり仲が良いのか。
シャルロット嬢が特定の方と懇意にしているとは聞かないが、気の置けない友人がいるのならよかった。あの人は色々抱えている。少しでもシャルロット嬢の心が軽くなるのなら喜ぶべきだ。俺意外にも心の内を話せる人がいるのはいいことのはずなんだ。
だた、よりにもよってマリアベル嬢か。悪い人では無いのだろうが、もしあの話が本当なら彼女は。
「ねぇハンス様。ハンス様はシャルロット様を愛していらっしゃるのよね?」
相変わらず柔らかい表情でマリアベル嬢が笑う。
思わず周囲を確認したが幸い辺りには自分たちしかいなかった。あまり人に聞かれるのは良くない話だ。直ぐに首の挿げ替えられる俺だけならともかく、今はまだオスカー様の婚約者であるシャルロット嬢に噂の的が向くのは避けたい。
本来なら俺があの人に向ける感情はあってはならないものなのだから。
この感情が漏れ出ていなくとも、シャルロット嬢はオスカー様の婚約者になられた一件で未だにあれやこれやと揶揄されている。十年も前の出来事によくもまぁそこまでと思わないでもないが、案外貴族というのは暇な生き物なのかもしれない。
それに、だ。シャルロット嬢の心は、俺には向かない。あの人は、俺を愛さない。同情や、友情を感じることはあっても、愛すことはない。
それについてはシャルロット嬢からもきちんと言葉にされている。それでもいい。あの人の笑顔を見たいと、力になりたいと申し出ただけだ。あの人が幸せになってくれるのであればそれ以上は何も望まない。
マリアベル嬢の言葉に倣うわけじゃないが、あの人を愛しているのか? と問われたら、そうだと答える他ない。だが、それをシャルロット嬢は望んでいない。ならば俺が再びこの言葉を吐き出すなんて出来ない。
諦めるのは得意だった。何もかも呑み込んで、仕舞い込んで、口を噤んでしまえばだれにも気付かれずにシャルロット嬢の幸せだけを密かに願っていられた。
あの人に幸せになってほしい。幼い頃から抱えてきた感情は今も変わらない。あの時はつい我慢ならず欲しいなどと言ってしまったが、あの人が笑ってくれるなら、その隣にいるのは俺でなくてもいいんだ。これは嘘偽りのない本当の気持ちだ。
オスカー様の隣で、第三王子の婚約者として幸せに暮らしてくれるなら、この感情は死出の山まで抱えていくつもりであった。でもシャルロット嬢が苦しいと泣くのなら、望んでくれるのなら、その手を取りたいと思ってしまった。
許されないと知りながらそんなことを考えてしまった。
あのとき泣いているシャルロット嬢に手を差し伸べたのは、ただの自己満足だ。あの人の涙を見たくないと、シャルロット嬢の苦しみを否定して。自分の息苦しさを和らげるために、自分が楽になるために、あの人を慰めた。
俺の目の前で泣きじゃくる姿に、胸が痛くなった。俺よりもずっと小さくて華奢なのに、背負っているものはあまりにも重い。それが分かったとき、苦しくて堪らなかった。
情けない話、俺があの人を幸せにできるとは言い切れない。あの人はとても強い。自分で立ち上がれる人だ。俺の助けなんて必要ないのは分かっていた。だけど、どうしても放っておけなかった。
「私、あなたのことお応援しているんです」
マリアベル嬢の甘い声が城の廊下に静かに響く。
誰よりも優しい笑顔で、決して許されないことを言う。辺りに人の気配がなくてよかった。こんな話を誰かに聞かれていたらどうなっていたかわからない。俺を試しているのか、それとも。
自分が本当に望んでいるものとシャルロット嬢が望むものはきっと違う。だからあの人が笑ってくれるまで、その間だけでいい。あの人の傍で支えようと、聞き分けのいいフリをしていようと思っていた。
なのに、この人は。
「頑張ってくださいね」
楽しそうに笑ってマリアベル嬢が去っていく。その足取りは軽く、すぐに柱の陰に消えて見えなくなってしまう。
残された俺はというと崩れそうになった書簡を抱え直して肩を落とす。書庫に行くだけだったはずなのだが、一体何だったんだ。まさかあんな話をされるだなんて思いもしなかった。ありがたいことに城の廊下は相変わらず落ち着き払っている。
彼女は確かに俺のシャルロット嬢への感情を知っている。ただそれを表に出せばどうなるかも知っているはずだ。にもかかわらずマリアベル嬢は俺に告げた。
笑えない冗談だ。だがきっと彼女は善意の上での行動の様な気もする。
俺がシャルロット嬢へ向ける感情はあってはならないものなのに。マリアベル嬢の言葉が頭の中で何度も響く。
ああ、そうだ。俺はあの人が好きだ。叶うなら、この手で幸せにしたいと思った。あの人ともっと話したい。どんな内容であってもシャルロット嬢との話を聞くのは楽しい。待ち合わせをして短時間でも一緒にいられるのは嬉しい。
知らない一面を見るともっと知りたくなる。俺を見て時々呆れたように笑う姿も好ましい。苦しんでいるのなら力になりたい。泣かないで欲しい。笑ってくれればいい。
今の関係でも十分だというのに、一度でもあの人と言葉を交わす機会が増えてからというものどんどん欲深くなってしまう。
シャルロット嬢は俺を友人と呼んでくれた。それで十分なはずだった。それすら俺には過ぎたものだった。あの人が俺を選んでくれればどれほど幸せなのだろうか。
いや、駄目だ。俺はあの人の友人でなければならない。シャルロット嬢の心を乱してはならない。俺のこの感情は捨てなければならないものだ。いつの間にか足を向けていた書庫の中は静まり返っていた。人の気配はない。誰もいないことに少しだけほっとする。
棚に並ぶ本の中から目的の本を見つけて手に取る。借りる本を胸に抱えたまま近くの椅子に腰かけ、背もたれに体重をかける。
先日、シャルロット嬢に何かしてほしいことはないかと言われた。その時は自分が勝手に好きでいるだけだと答えてしまったけれど、本当は一つある。あの人の笑顔を欲しかった。
あの人が幸せになる姿を近くで見ていたい。あの人に恋をする資格なんてハナからなかったけれど。それでも、あの人が幸せになるまで見守りたかった。シャルロット嬢が笑ってくれるならそれでよかった。
今、あの人が望んでいること、それはオスカー様との婚約破棄。オスカー様は相変わらず応接室に女性を連れ込んでいるし、シャルロット嬢も身辺の整理をされている。
あの人は、婚約破棄と同時に王家から貸与された爵位を返還する気でいるんだろう。その後は、どうされるつもりなんだろうか。
シャルロット嬢を唆したのは俺だ。あの人の背中を押した責任がある。もしあの人が王都を出て行くなら、俺もついて行こうと思っている。あの人の幸せのためならなんだってするつもりだ。そのためなら何もかも投げ出したっていい。あの人は優しい人だから、そういうことは望まれないだろうが。
結局のところ、俺はあの人がして本当に欲しいことがわからないんだ。シャルロット嬢は話を聞いてくれるだけでいいと言ってくれているが、だからこそシャルロット嬢の望むことをしたい。でも決して、俺の願いがあの人のためになるとは思えない。
自分の願いなんて、一番わからない。シャルロット嬢は自分には何もないと、唯一自分の意志で抱え込んだものがオスカー様を好きだという感情だけだったと言っていた。俺もそうだった。シャルロット嬢が好きだった。それしかなかった。それだけで良かった。
あの人がやっとの思いで吐き出した思いを聞いて、俺に出来ることなんてきっと自己満足でしかないと思い知らされた。同時に強く、あの人に笑っていてほしいと思った。シャルロット嬢の大切な物にだけでいい、俺に向けて欲しいなんてそんな浅ましい願いを口にするつもりはない。
埃っぽい書庫の空気の中に、ドロドロとした感情が混じった息を吐き出した。
どうすればいいかなんて、答えは出ない。




