2.感情の言明
「ええ、見えていますよ。シャルロット嬢」
ため息と共にそう吐き出した男の顔はなんとなく見覚えがあった。
別に付き合いがあったとかそういうわけではないから、多分どこかのパーティーで挨拶したとかそんなところ。確か、そう。宰相の親戚筋の方で名前はハンス様、だったかしら。
まぁそんなことどうでもいいわよね。今、確認すべきは誰にも見えていないはずの幽霊になった私を、なぜかこの文官の男だけが見えているということなんだから。
だからどうした、とでも言いたげな顔で眉にシワを寄せる男に、私の方がため息を付きたくなる。
本当にこの男、どうして返事したのかしら。面倒だったなら見えていないふりをして無視すればよかったというのに。わざわざ人のいない辺りに来るまで待ってから声をかけた私の気遣いを返してほしいくらいだわ。とはいえ、それについて文句を言うつもりはない。
「そう、ならいいわ。確認したかっただけだから」
つい衝動的に声をかけたけど、声をかけたところで特に何かあるわけでもないのよね。
彼と何かあるわけでもないし、彼も見えているからと言って特に私が話しかけるまで何かする様子もなかったし。用という用があったわけではないのよ。
私は暫定幽霊で、ほとんどの人には見えない。そして稀に見える人もいるというのが分かったのは収穫があったと言っていいわね。何もわからないよりはずっといいもの。
相変わらず眼鏡の奥で煩わしそうな顔を作っているハンス様に背を向ける。私の用は済んでしまったし、これ以上の話題もない。
何で幽霊になっているのかとか、ハンス様以外にも私が見えている人がいるのかとか。そんなことを考えるよりも苛々はするけどあの浮気男を如何にして呪うかを考えていた方がずっと面倒臭くない。
「どちらへ行くんです?」
「どこって、あの男の所よ」
「また頭を叩きに?」
「よくわかっているじゃない」
わかっているのなら止めないで欲しいわ。
別になにか特別な力があるわけでもなく、また物体に干渉出来るわけでもないから実際に呪い殺す、なんてことが私に出来るかどうかもわからない。
でも取り敢えず、色々とあの男のせいで不愉快極まりない事態だから呪うだけ呪ってすっきりしたいわけよ。
「わかりました。取り敢えずこちらへ」
良くため息を吐く男ね。ずれてもいない眼鏡を押し上げる男に付いて廊下をふわふわと浮きながら移動する。
案内されたのはなんともまぁ、埃っぽい小部屋だった。
「何よここ」
「ただの物置ですよ。備品だとかが置いてあるだけの」
「ふーん」
あまり興味の惹かれる物はないわね。幽霊をこんなところに連れ込んで何を聞き出そうって言うのかしら。
埃っぽいし人なんて碌に訪れていないみたいだから、見えない何か相手に話していてもここなら誰かに見られることもないのはわかる。でもだからって幽霊とは言え、女性をこんなところに連れ込むなんていかがなものかしら。
「それで。何かご用?」
「あなたそれ、どうなっているんですか?」
「あら。そんなことが気になっていたの?」
至って普通の幽霊よ。
服装は昨日ベッドに飛び込んだ時のままのドレスを着ているけど、体はちゃんと透けているし浮いてもいる。幽霊以外の何者でもないわよねぇ?
それなのにハンス様ったら何を言っているのかしら。じっくり観察するように上から下まで眺められても何も面白いことはないはずよ。
それとも幽霊を見たことがないとか? まぁ私も初めて見たし、しかもそれが自分自身っていうのはちょっと特殊な状況よね。
でも初めて見るのなら、もっと驚いて悲鳴を上げたり、腰を抜かしたりしないのかしら? そう言うこともせず、質問をぶつけてくるあたりこの人も大概変な人だと思うわ。
そんなことを考えていたせいで反応が遅れた。それは一瞬のことだった。あろう事か、彼は私に向かって手を伸ばす。それをあえて避けようとは思わなかった。
伸ばされた手が、私の腕をすり抜けるのを妙な心地で眺める。一瞬、触れられたような感覚の後にぞわぞわという寒気に近い感覚が微かにする。多分、この感覚に慣れることはないだろう。
「すり抜けますね」
「幽霊だからね」
空を掻いただけの手のひらをまじまじと見つめるハンス様に少し呆れてしまう。触れた感触が気持ち悪かったとかならまだ分かる。でもそこで残念そうにする理由がよくわからないわ。
確かに珍しいかもしれないけど、そんなに驚くことでもないと思うのよね。そもそも幽霊が触れるわけがないじゃないし、こうなるって予想できるはずよ。
「それで、どうしてそんなことになっているんです?」
「死んだからよ」
「死んだんですか」
「正確にはまだだけど、死んだようなものよ」
何よ。死んだからなんだって言うのよ。
私だって別に好きで死んだわけでもないし、望んで幽霊なんかやってないわよ。
「なんでまた……」
「私だって死ぬつもりはなかったわよ」
「狂言ですか?」
「そんなことするわけないじゃない」
くだらないこと言わないで頂戴な。世を儚むとか、気を引きたくて自死を仄めかすとか、そんな可愛らしい性格しているつもりはないの。
実際に死ぬつもりなんてなかったし、柔らかいベッドとクッションに八つ当たりして、それでちょっとすっきりして眠りについた。それがどういうわけか目が覚めたら、精神体とでもいうのかが、体から抜け出していて今に至るというわけ。
本当にどうなっているのかしらコレ。
でもハンス様の杞憂も分からなくはないわ。国の運営に携わる側の人間としては、第三王子の婚約者が原因不明の死を遂げた、なんて気が気でないもの。
それが外部によるものでも、当人たちが原因でも、国の運営に何かしらの軋みを生じさせるには十分すぎる話題だわ。
相変わらず眉間にシワを寄せたまま、ハンス様は私を見る。なんというか、彼のそういう顔を見るとそわそわしてしまうのよね。睨んでいるようにしか見えない目つきの悪い視線に、居心地の悪さを感じるというか。
原因はわかってる。薄いレンズの向こうにあるその目つきが、お父様に似ているから。周りを威圧するように刻んだ眉間とかそっくり。
お父様の苦労が分からないわけでもないから、何かを言うわけにもいかないけれど。それでも居心地の悪いことには変わらない。
それもこれもあの浮気性の王子のせいね。あの人と関わってから碌でもない目に合ってばかり。こんなことならもっと早くに三行半を叩きつけて婚約を解消しておくんだった。まぁ、どうせまともに取り合ってもらえないんだろうけど。
「用がそれだけなら、私は行くわよ」
「わざわざ浮気現場に?」
あなたも腹が立つタイプの男ね。私が呪う力に目覚めた暁にはあなたも候補に入れてやるわ。
あの浮気男と、脳内がお花畑な女たちの次があなたよ。
「あなたにとって、殿下は死んでからも気になる人なんですか?」
元来た道を辿ろうと向けていた背に、ハンス様の言葉が刺さる。
「……野暮な男ね。あなたモテないでしょ」
「その他多数にモテたいと思ったことはないですね」
「嫌味な人」
一体どれほどのお嬢さん方を泣かせてきたのかしら。まぁ、私には関係のないことね。
不愛想な野暮天をもう一度だけ振り返る。刻まれた眉間のシワと薄いレンズ越しの瞳は何を考えているのか今一わからない。でもどうせ非合理だとか、理解できないとか、そんなところでしょう。
私だって好きで幽霊になったわけじゃないし、あの浮気男のへらへらした顔を拝みたいわけじゃないの。あなたにはわからないだろうけど、女には女の、意地や苛立ちって言うのがあるものよ。
「あの人がどれだけの女を侍らせようと、本当はどうだっていいのよ」
ハンス様に聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。これは本心だ。多少思うことはあるけれど、その程度なら本当はどうだっていい。その程度のことならいくらでも耐えられた。
婚約者のいる殿方にしなだれかかる頭の中がお花畑な女たちに感じた苛立ちも。「控えて欲しい」という私の言葉を聞いてくれないあの人に対する悲しみも。まだ大丈夫。
婚約者である自分を差し置いて他の女性と親しくする姿に嫉妬していないと言えばそれは違う。でもそれ以上に、私自身でも驚くほどどうしようもなく許せないことがあった。
他のことなら思うことはあれど、なんとか呑み込むことが出来る。だけど、それだけはどうしてもだめだった。
「でも。心の底から、他の誰か一人を愛するのだけはダメ」
その誰か一人のことをあの人が語ることはなかったけど、私も女ですもの。自分の婚約者の心に別の女が住み着いているか否かくらいわかります。私ではなく、いつも侍らせている娘たちでもない、他の誰か。
ふらふらと複数人に声をかけている内はまだよかった。そうしている内は、私のところに帰ってくるとわかっていたから。
どんなに大人ぶっていても、結局私たち貴族の子女は親に、そして家に付き従う生き物だ。だからどれほど脇見をしていても、最後は両家が決めた婚約者である私の所に戻ってくる。そのはずだったのに。
いつからかあの人の、オスカー様のお心に一人の女が住み着いた。
すぐに分かった。他の娘たちにする様に浮ついた言葉をかけるでもなく、ただ静かにあの娘に微笑みかけていたから。
「それだけは、ダメなのよ……」
いくら親が決めた婚約とは言え、幼い頃から一緒にいれば愛も情も生まれるもの。親の敷いたレールの上しか歩けない貴族の子女にだって悲しみや苛立ちという感情を持っている。
私の中にあったそういった物を全てぐちゃぐちゃにしてくれたあの人に、なんの言葉もかけず手放せるほど私もまだ大人ではないの。
「…………」
ハンス様は何も言わず、ただ黙ったままこちらを見つめていた。愚かだとか、理知的ではないなんて言葉が聞けるかと思ったのだけど当てが外れたみたい。
なんとなく居心地が悪くなって、その場を後にしようと地面に付かない足を踏み出す。その時、不意にハンス様が口を開いた。
「あなたは、それで良いんですか?」
静かな声だった。
責めるでもなく、宥めるでもない、落ちついた問いかけ。全く、余計なお世話だわ。こんなことに良いも悪いもないんだから、馬鹿なことを聞かないで欲しい。
どうしようもないからこうしているの。上手く呑み込むことが出来ないからこんな恨み言を呻いているの。そんなに簡単に切り替えられるならさっさとあんな人捨てているし、幽霊になんかなっていないのよ。
本当に、嫌なことを聞いて来るんだから。自分の中で燻っている気持ちを口にすることは出来ない。上手く形に出来ない感情を、他人に伝える術なんて知らないもの。それに言ったところで、どうせあなたにはわからないわ。
「あなたって本当に野暮な人ね」
馬鹿な質問をする野暮天をもう一度睨んで、私は今度こそ踵を返した。
ハンス様は追ってくることもなければ、呼び止めることもない。ただ、また少し眉間にシワを寄せて、じっと私を見送るだけ。
私はもう振り返らなかった。