12.存在の証明
聖女とは。高潔で穢れを知らない女性。特に宗教的な事柄に身を捧げた女性のことを言う。
現在におけるこの国の聖女とは。かつて人種間の諍いを鎮めるためにその一生を捧げた女性に因み、代々教会に従事する若い娘にその称号を与える形式的な物になっている。
初代聖女様のおかげで今日における私たちは人種の違い、出身の違いなどにかかわらず手を取り合いともに生きていくことが出来ると、この国では幼い頃から言い聞かされて来た。
どうして、私がこんなことを考えているのか。理由なんてただ一つ。目の前に今代の聖女様がいるからよ。
光を受けて輝くピンクベージュの髪の、どちらかというと愛らしい顔立ちをしたお嬢さん。この子のことは一方的に知っている。王都から南に向かった街にある教会に住んでいて、つい最近教会から聖女の称号を賜ったうら若き乙女。そして、オスカー様の意中の女性。
どうしてこうなるのかしら。むかつく男二人とよくわからない女相手に啖呵切って飛び出して来たら、もっと得体のしれない女が目の前に現れたんだけど。
つい幽霊だった時の癖で馬車にも乗らず街まで来てしまったけど、途中何人かの警備の騎士やメイドに声をかけられただけだったわ。別にあの人たちに声をかけて欲しかったわけでも、追いかけて来て欲しかったわけでもないけどね。
とにかく。一人で城を出て城下町まで来たら、教会か何かの用事で王都まで来ていた聖女マリアベルさんと遭遇したってわけ。
別に無視しても良かったんだけど目が合ったと思ったらまるで旧知の仲みたいな顔して、あの後大丈夫でしたか? なんて話しかけてくるんだもの。思わず躱しそびれてしまった。
「どなたかと勘違いされてませんか?」
「私、人の顔を覚えるのは得意なんです」
そんなこと聞いてないわよ。というか第一に私はマリアベルさんと会ったことはないわ。
お母様なら時々教会に寄進さなれているから見かけたことはあるかもしれないけど、私は生憎そんなに信心深くないの。
だってそうでしょう? 神様がいらっしゃるのならもっとこう、世の中救いがあってもいいはずじゃない。少なくとも私の人生にはそれっぽいものが何もなかったわ。
ああ、違う。そんなこと今はどうだっていいの。私が言いたいのはマリアベルさんとは面識がないということよ。噂や、間に一人挟んでの関係としては知っているけどそれ以外のことはないはず。
「お会いしたことはないはずよ」
「あら、覚えていませんか? 三日前そこの通りでお見かけしたでしょう?」
三日前。ええ、そうね、確かに三日前にもこの街にいたわ。でもその時は。
「お体も透けていらしたし、心配していたんですよ?」
幽霊だった。
そう、そういうこと。どうやらあの時目が合った気がしたのは気のせいじゃなかったらしい。最悪ね。幽霊だった私のことを見えていた人間がもう一人いたなんて。しかも二人共よくわからないタイプの人種なんだもの。
それにしてもなんなのかしらこの方。わざわざご丁寧に追い打ちかけに来てくれたの? いくらなんでも親切すぎるんじゃない。まさか聖女だから人を疑うことを知らないとか言わないわよね。本当、嫌になるわ。
「……おかげさまでね」
「思い出してくれました? ちょっと強めにえいってやっちゃったんで大丈夫かなって思ってたんです」
何を言っているのか全然分からないわ。えいってやったってどういうことよ。あんまり意味が分からないことばっかり言わないで頂戴な。それとも聖女って言うのはそういう人種なの?
ころころと人好きのする笑いながら話すマリアベルさんを見て、あの人はこういうのが好みだったのかしらと、今となっては何の意味もなさないことを考える。……もうどうだっていいわね。
それよりも。今後この方とも会うことつもりもないし、適当に返事をしておいた方が無難かしら。そう思って口を開きかけた私の言葉を遮るように、マリアベルさんはまた爆弾を落としてくれたわ。
「でも、幽霊になってくれてよかったです」
「は?」
「だってあなたが幽霊だったから、私でもなんとか出来たわけですし」
どういうこと?
困惑する私を他所にわざわざ私の手を取って、もう体が透けていないことを確認するマリアベルさんを見つめる。つまり、あの時街の往来で幽霊の体が消えて、元のベッドの上にいた体に戻ったのも彼女がしたことだっていうの?
世の中に不思議な力なんてないものだとばかり思っていたんだけど。どうしてそういうものが幽霊の時に宿ってくれなかったのかしら。そしたら変に悩むこともなく、勝手に復讐した気になって、勝手にすっきりして。それで、満足して、……諦められたと思うの。
でもそうじゃなかったから。勝手に傷ついて、勝手に苛立って、今ここにいる。
「それに私、シャルロット様ともお話してみたかったんです」
一体何が楽しいんだかわからないけど、さっきまでと変わらない笑顔のまま話しかけてくる彼女に私は戸惑うばかり。
「あなたの幸せってどんなものですか?」
「何を言って、」
「シャルロット様はオスカー様を愛しているのでしょう?」
突然飛び出した言葉に思わず声を失う。そんな私を見てマリアベルはまるで悪戯っ子のように微笑んで見せるのだけれど、それがとても嫌な感じがした。
えぇ、オスカー殿下のことを愛していたわよ。だって婚約者だもの。でも今は違う。私が言い返そうとするよりも早く、彼女は続けた。
「教えてくださいな。あなたの愛とは、あなたの幸せとはどんなものなの?」
あぁ、そう。なるほど。きっとこの子がオスカー様に幸せとはと、説いたんだわ。そしてオスカー様も同じ様にあの貴族の娘たちに話した。そう思えば、目の前にいる聖女様がなんだかとても嫌な人に思えてくる。
私は、好き好んで婚約者のいる殿方に寄り添う女の考えなんてわからないし、わかりたくもない。
愛だとか、幸せだとか。そもそも貴族の子女である私たちにとっては邪魔にしかならない物なのよ。少なくとも、私は願うべきものではないと思った。そんなものを求めた結果が、今の私なのだから。
「私は、あなたの求める答えを持ってはいないわ」
「そうなのですか?」
「そうよ」
嘘とも本当とも言い切れないことを言って肩を落とす。本当はあるはずなのに、もう見えないように蓋をしただけ。だからといってそれを教える義理もないわ。
愛とか幸せとか。そんな曖昧な物求めたって虚しいだけよ。目に見えたり、触れることが出来る物ではないのだから。最初は信じていたっていつかきっと疑ってしまう。私はオスカー様を信じ切れなかったもの。
信じられるだけの根拠がないなら、初めから求めるべきじゃない。
そうやって期待すれば期待するほど、求めていた結果との差異に傷付くのは自分自身だから。
それに、もし、仮に。万が一にも。心の底からの愛やら幸せなんたらがあったとしても。その感情だけで生きていけるほど世界は優しくできてなんかいないわ。
大体、それを私に聞くことが間違っているんじゃなくて? マリアベルさんが今までどんな暮らしをして来たかは知らないけれど、少なくとも私は、そういった物をとっくの昔に失くしてしまった。
今の私にはもう何も残っていないのかもしれない。でもそれでいいと思っているし、今更どうにかしようとも思わない。だってもう手遅れなんだもの。
残念そうな顔をしながらこちらを見ていたマリアベルさんの視線が、ふいに私の後ろへ移動した。
「あら。お迎えかしら」
振り返ればそこには険しい顔をしたハンス様の姿があって。
私が呆然としている間に、彼はつかつかと足早に近づくと私の腕を掴む。痛いわ。そう文句を言いたかったけど、彼の目があまりにも真剣で。思わず黙ってしまった。
ただほんの少しだけ頭の奥をかすめたのはここに来たのがオスカー様ではなかったこと。でも、すぐに考えるのをやめた。そんなことどうでもいいことだもの。
「ごきげんよう、ハンス様」
「ええ、どうも」
マリアベルさんは私の方をちらりと見た後、意味ありげに微笑んでいた。マリアベルさんが言っていた迎えというのは、彼のことらしい。別に迎えなんて頼んでないのだけど。そう思いながらハンスを見れば、彼はいつもの様に眉間にシワを刻んでいて。
何故、彼はここにいるのだろう。何故、追いかけてきたのだろう。もうしばらくの間は放っておいてほしかった。
「よろしいのですか? こんな往来で」
「腹は決めました」
「幸せになれるかもわからないのに?」
「俺が幸せにします」
そんな風に思っている私を他所に二人は会話を続けていく。それも、あまりよろしくない方向の。本当に何の話をしているのかしら。この二人。
しかも何故か話がどんどん進んで行くものだから、置いて行かれている私としては居心地が悪いったらないわ。さっき城で言ったことをこの人はもう忘れたのかしら。
「俺は、シャルロット嬢が好きです」
私は私の者なのだから、勝手に決めないで欲しい。そう続けようとした言葉が喉元まで出かかって止まった。
……何を、言っているの。バカにしないで。あなたの好きは恋慕の情ではなくて、ただの同情よ。私が幽霊だった時に、あなたが可哀想な女の子だと憐れんだから。だから、そう錯覚しただけだわ。勘違いよ。
そう言ってやりたかったのに、口を開くことが出来なかった。掴まれていた手が熱くて、じんわりと汗ばんでいるような気がする。
こちらへ向いた眼鏡のレンズ越しの瞳に射抜かれているようで、逸らすことが出来ない。呆然としたまま固まっていると、ハンス様の手が伸びてきて。指先が頬に触れた。びくりと体が震える。
「素敵ですわ!」
よく分からない空気を切り裂いたのはマリアベルさんの一言だった。
「お二人は愛し合っているのね」
「そういうわけではっ」
「真の愛とは素晴らしいものだもの! 私は応援しますわ!」
「話を聞いて!」
「隠さなくてもいいんです。私は馬に蹴られる前に帰りますから」
慌てる私を尻目にマリアベルさんは何だか楽しげに去っていく。
一方ハンス様の方といえば、私の腕を掴んだまま固まっていて。もう何が何だかわからないし、マリアベルさんに至っては何がしたかったのかもわからない。
とにかく、もう帰りたいのだけれど。
「シャルロット嬢」
「そろそろ腕を放してくれる?」
「話したいことがあります」
「私にはないわ」
「聞いてください」
聞きたくないわ。だってあなたも私の話なんて聞こうとしない人じゃない。そう反論してやろうと思ったのに、強い力で引き寄せられてしまった。そしてそのまま抱き締められて。混乱してしまう。
離して欲しい。私はこういうのは嫌いよ。それに、人目があるのだから止めて欲しい。
そう思うのに、強く言い出せない自分がいる。嫌なら突き飛ばしてしまえばいいのに。そう思っても体は動かない。
それどころか、胸の奥がざわついて落ち着かない。戸惑う私を余所に、ハンス様の声は続く。その声は、どこか苦し気で。でも、少しだけ嬉しそうな色を含んでいて。
「あなたが好きです」
その言葉は、私にとってどうしようもなく苦しかった。