1.死因は不明
目が覚めたら、目の前に自分がいた時の対処法ってどうすればいいと思う?
私はとりあえず叫んだわよ。
正直頭の中が真っ白になったし何が起こっているのかもわからなかったけど、叫んだことですっきりしたし声を出すって案外いいものね。
一頻り叫んでパニックになった後、私の部屋のベッドの上にいる私がピクリとも反応しないことに気が付いたわ。まるで眠っているみたいで、自分で自分の寝顔を見るなんて奇妙な体験にまじまじと見入ってしまった。
結構騒いでしまったけど、うるさくなかったのかしら。うんともすんとも言わないもう一人の私に声をかけてみる。やっぱり反応はない。これは、なんというか……あんまり想像したくないのだけれど。もしかして、死んでる?
え、待って。ものすごく嫌。
生きるとか死ぬとか、そんなに深く考えたことはなかったけれど。兎にも角にも、浮気性の婚約者に三行半を叩きつけ自室で泣き喚いたのが最後の記憶とか嫌すぎる。散々泣き喚いた後アイツを不幸のどん底に叩き込んで私は幸せになってやるって誓ったのに!
改めて目の前の私を見れば、冷やさなかったせいか目元が少し腫れている。こんなになるまで泣いていたのね、私。
少し赤い目元に手を伸ばして触れてみる。指先は抵抗なく肌の中に吸い込まれていった。んん?
恐る恐る指を引き抜く。寝ている私の顔に穴は開いていないし、私の指も何ともなっていない。
薄々気が付いてはいたけど自分が概念的な存在になるってこんな感じなのか。人体をすり抜ける感覚とか知りたくもなかった。
それにしても。私、死んだのね。まだ十七年程しか生きていないのに、案外呆気ないものだったわ。昨晩散々泣いたから涙も出ない。特にやりたいこととかもなかったから別にいいか。
暫くどうしようか悩んでいたら部屋の外が騒がしくなった。隠れようとする間もなくぞろぞろと見知った顔が連れだって私の部屋に入ってくる。
いつも身の回りの世話をしてくれるメイドに先導されてかかりつけ医。その後に不機嫌面をした両親と物静かな執事が続いてくる。
何を言われるのかと少し構えたけれど、どうやら皆には私の姿が見えていないらしく、ベッドの上の私を囲んで何やら説明を始めた。
「畏れながら申し上げますが、お嬢様はどこも悪くありません」
「では何故起きない」
そう語気を荒らげないでくださいな、お父様。先生が驚いてしまいます。医者と両親の間で交わされたやり取りを聞き流しながらそんなことをぼんやりと考える。
「恐らく、心の問題かと」
心の問題、か……。そうね、きっと私はあの時絶望していたのだと思うわ。
何度言っても他所のご令嬢に粉をかけるあの人や、あまり健全ではない家族関係に疲弊していたとも言える。
だから私、てっきり無意識に世を儚んでしまったのかと思っていたのだけど、どうやらお父様の言い方ではまだ生きているらしい。まあ確かに、世を儚むとかそんなか弱い性格していたつもりはないわね。
ベッドの上で眠る自分を見つめる。私は、生きている。精神的な原因で目を覚ますことなく眠り続けている。らしい。
「アニー。この子の世話はあなたに任せるわ」
「はい。あの、奥様は……」
「私はこれからヴェスパトーレ夫人の所でサロンがあるから」
お母様がメイドに言いつけて部屋を出る。
「全く、外聞の悪い。娘は領地で経営を学んでいるということにしておけ」
お父様に言いつけられた執事が恭しく頭を下げる。……本当に大丈夫なのかしらこの家。取り敢えず私は意識のない自分については考えることを放棄する。
そそくさと私の部屋から出ていく両親と仕事に戻る執事を見送れば残るのはかかりつけ医と私付きのメイド。
「シャルロットお嬢様……」
「あまり気を落とすのではないよ。きっとすぐに良くなる」
労わるようにメイドのアニーに声をかける先生に同意しておく。こちらの声は聞こえないようね。あなたのことは好ましいと思っているわ。でも家格がいいからって、この家のメイドに拘らない方がいいわよ? この家の人間、私を含め碌なのいないから。
私だってね、あの人たちの娘の自覚はあるのよ。普通のお嬢さんなら浮気した相手を不幸にして自分は幸せになってやるなんて、……まぁ絶対思わないとは言えないけど、別れて数時間で思い至りはしないだろうし。
でもあなたはそんな人間とは違うでしょう? 早く気立てのいい男を見つけて嫁ぎなさいな。ああ、軽薄な男だけはやめておきなさい。きっと浮気するから。
手を伸ばしてベッドの脇で涙目になっているアニーの頭を撫でる。手のひらはすり抜けてしまった。こういうのは気持ちの問題よね。
「あの、先生。このまま、目が醒めなかったらお嬢様はどうなるんでしょうか?」
「……残念だが、最悪の場合死に至る」
そんな、なんて悲鳴を上げたのは私ではなくてアニーの方で。私としてはそうなるでしょうねと言う感想しかない。
「目覚めないということは食事が取れないということだ。点滴で取れる栄養にも限りがあるし、長引けば長引くほど、衰弱するだろうね」
淡々とした口調で告げられる言葉に、アニーが泣き崩れる。私のために泣いてくれる人がいるというのは嬉しいものね。
だからこそこんな家に見切りを付けて幸せになってほしいわ。
今後のことを話し始めた先生とアニーを残しそっと部屋を出る。
二人には悪いけど戻り方もわからないし、戻ったところで何か出来るわけでもないのよね。
正直扉をすり抜けられるのはとても移動が楽だわ。なんというか本当に幽霊になったのね。まだ生きているから正確には幽体離脱と言うのかしら。どちらでもいいわね。
出来心で床を軽く蹴ってみればふわりと体が浮かび上がる。いつまでたっても床に足が付かないのはなんだか不思議な感覚。まるで風船になったみたい。そのまま天井を越えて飛んでいけそうだわ。
廊下を抜けて、壁を抜けて。広がったのは見慣れた屋敷の庭と一面に広がる青空。全くと言っていいほど清々しくもなんともないけれど、空ってこんなに青かったのね。
そのままふわふわと空中を流れるように進んで行く。
別に世を儚んだつもりなんて微塵もない。でも折角幽霊になったのだから、昨日の決意を叶えに行きましょう。ある意味当初の目的とも言えるわね。
あの浮気ばかりしていたあの人に取り憑いてやろうかしら。多少なりと痛い目に合えばいいのよ。
ふらふらと、いつもなら馬車の中から眺めていた景色を横目にお城までの道を漂っていく。何度も何度も通った道でも、視線の高さが変わると妙にそわそわした。
門番だとか、メイドだとかは相変わらず私のことが見えないようで。あまり褒められたことではないと思いつつも、誰にも許可を取らず勝手に王城の中へと入り込む。
城内はいつもと変わらず手入れが行き届いており、等間隔に警備の騎士たちが配置されている。彼らの厳重な警備体制を潜り抜けていけばあの男が居住している区画が広がっている。その先にあるのは私にとって好ましいものではないとはわかっている。
まぁ確かに、昨日までは確かに好きだったからどうしようもなく苦しくもあった。私という婚約者がいるというのにあっちへふらふらこっちへふらふらして。おかげさまで恋とか愛とか、そんな気持ち枯れ果てたわ。
代り映えの無い騎士たちの前をすり抜けて婚約者のいる区画へ移動する。
城の一角。あの人の私室や執務室。それからあの人が良く他の娘を連れ込んでいた応接室がある。多分、今日もそこにいるのだろう。
一枚、二枚と壁をすり抜ける。目的の部屋の中に、やっぱりその人はいた。
「ねぇオスカー様。シャルロット様と婚約破棄されたって本当ですかぁ?」
間延びした甘ったるい女の声がする。ああ、全くこの人は本当に! 世間体や口さがないものもいるのだから連れ込むのはやめるようにと何度も言い含めたのに!
「うん? ああ。彼女が勝手に言っているだけで僕もお父様も認めてはいないよ」
あなたが認めずともこちらは願い下げです!
「あれはね、僕が君たちにばかり構うから拗ねているんだよ」
「まぁ!シャルロット様ってお可愛らしい方なのね」
呪ってやろうかしらこの脳内お花畑たち。大体拗ねるとかそういう問題じゃないでしょう。そもそも浮気しておいてどの面を下げて言っているのかしら。ああもう本当に苛々する。
とりあえず一発殴らせなさいよ。
目の前では呑気にお茶会を楽しむ男女の姿。女の方は、確か子爵家の令嬢だったか。見た目は悪くないが如何せん中身がよろしくない。婚約者のいる男に擦り寄る辺り頭の中がお花畑なのよ。ああ、本当に腹立たしい。
婚約者殿の後頭部を叩いてみるもすり抜けるだけで何のダメージも与えられない。ただ全く何もないというわけでもなく、違和感があったのか後頭部を掻く動作をしたのが余計に苛々する。
ああ、そうよね。見えていない相手に触られているなんて思いもしないものね。
こちらに気付くことなく談笑を続ける二人を睨み付ける。別に羨ましいわけでもなんでもないけど、なんだか無性にムカつくわ。
昨日あんなことがあったのだから私のことを少しくらい気にするそぶりがあれば、見直したかもしれないのに。あまつさえ何処の誰だかもわからない女と触れ合って。
この人はいつもそう。女性を見かければ誰であろうが声をかけて、私にはかけたこともないような言葉を囁く。
どうしてこんな人と婚約なんて結んでしまったのだろう。お父様が決めたこととは言え、ごねればよかったわ。もっとガッツを見せなさいよ、幼い頃の私。
まぁ確かに幼い頃のこの人は見目麗しく、彼のお兄様と並んで神童ともてはやされていたけれど。成長してみれば、仕事はそつなく熟すけれど生粋の女好きで常に誰かしらを侍らせている。
きっと私がどれだけ訴えてもこの人は聞き入れてくれないに違いない。そう思うとますます苛立ちが増していく。結局、浮気相手と仲睦まじげにしている姿を見させられてしまった。
ああもう! 本当に呪ってやろうかしら! 幽霊になったんだし多少はこの男を不幸にしてやらないと気が済まないわ!
この男が私のことをなんとも思っていないのは知っている。今まで散々蔑ろにされて来たんだもの、呪いの一つや二つ吐いたって罰は当たらないわ。
ぶちぶちと不平不満を垂れ流しながら婚約者の後頭部を叩いたり頬をつついたりしながらどうやってこの男を不幸にするかを考える。
非常に残念なことに、すり抜けてしまうから物理的に何かをするというのは出来ない。出来るなら足を引っかけて何もない所で転ばせたり、上から何かを落としたりできるのに。
だからと言って何か不思議な力で不幸にするというのも出来そうにない。ちょっとどういうことよ。現状が一番不思議体験しているんだから、追加で何かしら可笑しな力が使えたっていいじゃない。
そんなことを考えていたら扉の向こうからノックが響いてきた。追加の女かと扉の方へ睨みを聞かせれば、意外なことに普通の文官の男だった。
……意外って何よ。王子個人の応接室にどこぞの令嬢が入り浸っている方が可笑しいでしょう。あの文官が訪ねてくるのが通常の応接室の在り方なのよ。
「殿下、こちらの書類に変更点があったので確認をお願いします」
「僕休憩中なんだけどなぁ」
渡された資料を読みながら隣で寛ぐ女の髪を撫でる男の頭を思いっきり叩く。すり抜けたせいで余計に腹が立った。ああ煩わしい。そんな私の様子にも気付かず、男は呑気に紙束を捲って指示を出している。本当にこいつは何を考えているのかしら。
苛々しながら腕を組み直せば何か言いたげな顔をした文官と目が合った。何よ、何見てるのよ。
二、三言浮気男と言葉を交わし部屋を出る文官に付いていき扉をすり抜ける。
この状態になって何人かの前に姿を現したけどどうにも皆私のことが見えていないようだった。にもかかわらずこの文官だけは、確かに目が合ったのよ。
廊下を行く文官に付いていき、在中警備の騎士が途切れたところで思い切って声をかける。
「ねぇ、ちょっと! 見えてるんでしょ?」
私のこと。
先を行く文官の男の足が止まった。あの人とは違う黒く短い髪を少しだけ揺らして、彼が振り返る。背の高い細身の体に眼鏡をかけた真面目そうな顔付き。綺麗な顔付きをしているけれど、眉間に寄せたシワと煩わしそうな表情が人を遠ざける印象の男だ。
何よ。そんな顔するんだったら最初から無視すればいいじゃない。
一つため息を吐いて、律儀な男がゆっくりと口を開いた。
「ええ、見えていますよ。シャルロット嬢」
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