5、公爵家の事情
(……あの慎重な公爵夫人が、単なる忠告で済ます訳がなかったんだ)
リオノーラは馬車に揺られながら、綺麗な刺繍の入ったスカートをギュッと握りしめた。恐らく、一年前にリオノーラが双子と街中で偶々会った後には、手を打たれていたに違いない。
母は、双子は無事なのか。何処へ連れて行かれたのか。
聞きたくても、聞けない。それが今のリオノーラの立場だった。
使用人に命令を下していても、高価な物を身に纏っても、高級な料理を口にしても、偽りは偽り。何の権力もなく、一人で怯えて過ごすしかない小娘なのだ。
リオノーラが公爵夫人に「家族は何処へ行ったのですか」と問えば、自分が家族に会いに行ったことが明らかとなり、その時に一緒にいた護衛騎士達は……特に、私が偽物だと知っているあの護衛騎士は確実に処分されてしまうだろう。
タニアにも、監督不行き届きで何か処罰が下されるかもしれない。
折角一年間、ずっと問題を起こすことなく大人しく過ごしてきて、漸く公爵夫人から及第点を得られるかどうかという時に家族のことを聞けば、そのたった一言で今までの苦労が水の泡となるのだ。
(悔しい……何も……私には何も、出来ない)
自分の不甲斐なさが憎くて堪らなかった。
気持ち的には、今すぐ馬車から降りて街中を探し回りたいのに。
現実的には、むやみやたらに探し回っても、リオノーラはきっと家族に会うことが出来ないだろう。いや、むしろ探し回ってしまったら、アンジェニアらしくない行動を取った代償として、一生家族に会えなくなってしまう可能性すらあるのだ。
家族の安全を信じて、リオノーラはただ公爵夫人の言いつけを守るしかないのだ。
(後二年……)
一応、公爵夫人がリオノーラと約束した期間を最長の三年だと設定すれば、やっと三分の一が経過することとなる。
(皆……、どうか、無事でいて……)
リオノーラ馬車に揺られながら、掌を合わせて指を組み、両手を額に押し付け、家族の為にずっと祈りを捧げた。
***
「お帰りなさい、アンジェニア」
「ただいま戻りました、お母様」
公爵夫人の言葉に、リオノーラは笑顔で答えた。
笑顔で答えながら、何が、お帰りなさい、だ。と心の中で毒づく。
けれども実際には、十ヶ月ぶりに会う公爵夫人を前に、リオノーラは綺麗な淑女の礼をとっていた。
公爵夫人は、初めてリオノーラと会った時と同じように扇で口元を隠しながらリオノーラの頭のてっぺんから足の先までしっかりと確認し、満足そうな笑みを浮かべてパシン、と扇を閉じる。
公爵家の邸宅は、あんなに立派に思えた別荘の屋敷がちっぽけでつまらないものに見えてしまう程、贅の限りが尽くされた住まいだったが、それらは決してリオノーラの心を動かしたり軽くすることはなかった。
むしろ、敵陣に乗り込んだ気分である。
「馬車で長時間揺られて、疲れたでしょう?自分の部屋で少し休みなさい。夕食の時間になったら、迎えを寄越すわ」
「はい」
リオノーラは一礼して、初めて足を踏み入れた豪邸に怖じ気づくことも気圧されることもなく、物珍しそうな素振りも見せずに真っ直ぐアンジェニアの部屋へと向かう。
公爵邸の間取りは既に頭に入っていたし、公爵家ではアンジェニアとして振る舞うように言われている。
リオノーラは、廊下ですれ違う使用人達が皆、リオノーラを避けて通り過ぎるのを待つのに「お疲れ様」と軽く声を掛けていった。
どうやら、リオノーラの周りに配属されたメイド達は皆新人で固めているのか、リオノーラを本物のアンジェニアだと思っているようだった。
恐らく、リオノーラの一挙手一投足を報告させ、メイドの目から見ても不自然なところはないか確認するつもりなのだろう。
ドバイリー公爵家に行った時、リオノーラが公爵令嬢がする筈のない行動を取らないように。リオノーラの出自を疑われないように。
「一度横になりたいわ。一人にして」
「畏まりました」
先に部屋に来て荷物を片付けていたメイドを下がらせ、リオノーラはフカフカのベッドに仰向けで寝転ぶ。
(早く、家に帰りたい……)
隙間風があっても、固いパンしかなくても、元気な双子に優しいお母さんがいて、いつも心は温かかった。
お金さえあれば、と何度も思ったし、介護と家事と子育てから逃げ出したいと思ったことだって何度もある。
けど、自分の幸せはあの狭い家にこそあったのだ、と今なら身に染みている。
(……どうか、無事で元気に過ごしていますように……)
全く見知らぬ部屋の中で、リオノーラは孤独と戦いながら家族の為に祈った。
「アンジェニア様、お夕食の準備が整いました」
「今行くわ」
リオノーラが食堂に向かうと、公爵夫人は先に席に着いていた。
「お待たせして申し訳ありません、お母様」
リオノーラはそう言ってお辞儀し、アンジェニアが普段使っていた席に着席する。
(……そう言えば、本物のアンジェニア様は何処にいるのかしら……それに、私がこの屋敷に入ってから、公爵夫人の姿しか見ないけれども……公爵様は何処にいるのかしら)
公爵が座る席には、食事の用意はなかった。
「アンジェニアと二人きりで話したいことがあるの。準備を終えたら、全員席を外して頂戴」
公爵夫人がそう命じれば、使用人達は皆「畏まりました」と言って、手際良く料理を並べるとだだっ広い食堂から出ていった。
広すぎる空間に二人きりとなったが、リオノーラは気を抜かずに完璧なマナーで、公爵夫人が話し出すまではまだアンジェニアを演じた。
「タニアから色々報告を受けていたのだけど、ここまで仕上がるとは正直思わなかったわ。貴女は随分と覚えが良いらしいし、下賎な平民の血が流れていなければ、養女に貰ってやっても良かったわね」
──ここでやっと、リオノーラはアンジェニアの仮面を脱ぐ。
「身に余るお言葉、光栄でございます」
この国の貴族や、その派閥についてのデータは頭に入っているが、肝心のゴッドウー並びにドバイリー公爵家については公爵夫人から直々にお話があるということで、リオノーラは公爵家の成り立ちなど過去のことは学んでいても、現在の状況には精通していなかった。
「公爵様にはご挨拶に伺わなくて大丈夫でしょうか?」
仮にも、結婚式ではお父様、と呼ばなくてはならない間柄だ。一度顔合わせ位はしておかなければ、と思ったのだが。
「不要よ。どうせあの男は、仮に一人娘が結婚式を挙げたとしても来やしないわ」
(え?)
公爵家同士の、一人娘と一人息子の結婚式だ。そんなことはあり得るのだろうか?
リオノーラの疑問が顔に出ていたらしい、公爵夫人は続けた。
「どのみち、結婚式は挙げないわ。公爵家同士の結婚式なら、首都で王族も呼んで盛大にあげるのが普通なのだけれど……今回はそういう訳にもいかないから入籍して、貴女がドバイリーに行くだけよ。身体の弱いアンジェニアの希望ということで、王族からもその辺は既に了承を得ているわ。勿論、殆ど領土から出ないドバイリー側も了承している」
「はい、承知致しました」
リオノーラは頷くことしか出来ない。結婚式を挙げないで済むというのは、何か大きなミスをする機会をひとつでも潰すということだから、むしろ歓迎だ。
ただ、本当にゴッドウー公爵への挨拶が不要かどうかは話が繋がらない気がして、リオノーラは少し不安になった。
公爵夫人はワイングラスを回しながら聞いた。
「公爵家同士の仲が悪いことはご存知?」
リオノーラは、頷く。
「はい」
「元々、長年続く公爵家同士の争いをおさめるために、私と今は亡きドバイリー公爵夫人は王命でそれぞれの家門に嫁いだの。けれども残念ながら、私と夫は不仲で、夫はドバイリーと仲良くするつもりはないから、今回の子供達の結婚も、ある意味私の独断で話を進めたようなものなの。だから、王家の面子の為に夫はアンジェニアを嫁に出すけれども、絶対に結婚式には出ないでしょう。夫は何人も愛人を囲っていて婚外子も沢山いるだろうから、一人娘のアンジェニアがこの家を出て行っても何の問題もないわ」
「……そうでしたか」
「でも、アンジェニアが婚約をするにあたって、問題が起きたの」
「と、申しますと?」
「……私と懇意にしていた、ドバイリー公爵夫人が亡くなったことよ」
公爵夫人はワインをぐっと煽った。