4、そして一年後
護衛騎士と家族の面倒を見ている女から、外出した際のリオノーラの行動がそれぞれの立場から公爵夫人へ報告されたようだったが、幸いにも公爵夫人からは軽い忠告で済んだようで、それ以上のお叱りの言葉を頂くことはなかった。
けれどもリオノーラはその日の一件以来、今まで以上に真面目に講義を受けて学んだ。
(私以上の適任者はいないと、思わせなくては。少なくとも、結婚式間際までは殺すには惜しいと思わせないと、簡単に切り捨てられてしまう)
リオノーラに価値がないと判断すれば、公爵夫人は当然リオノーラの家族への支援を一番に打ち切るだろう。
公爵夫人は、用意周到であり、かつ慎重な性格であるように思えた。
もしかすると、アンジェニアの身代わりとなり得る者の目星を、リオノーラ以外に何人か付けていたとしても、おかしくはないとリオノーラは感じていた。
本物のアンジェニアの乳母だったタニアが傍にいる限りはリオノーラに目を掛けているのだろうが、万が一タニアが傍を離れることになれば、それはリオノーラがアンジェニアの身代わりとして文句なしに成長できたか、若しくは公爵夫人から見限られたと考えて良い。
リオノーラは、様々な講義を受け質問を投げ掛けながら、もう、自分だけの問題ではなくなっていると気付いてしまった。
リオノーラに不合格の烙印が押されれば、リオノーラをアンジェニアだと思い込んでいる者達は、恐らく公爵夫人に一掃されるだろうと。それは、今リオノーラに熱心に教えてくれる先生方だったり、護衛騎士だったり、屋敷で新しく雇われた料理人やメイド達だった。
「公爵家で雇って頂けるなんて光栄です」と、リオノーラに敬意を込めて接する彼らは、恐らく実力はありながらも平民という身分のせいで、その才能を十分に発揮できなかった者達だとリオノーラは次第に気付いた。
彼らと、リオノーラの正体を知る者達の態度は天と地程の違いがあり、例えばマナーを教える講師として招かれた男爵夫人は、どうやら公爵夫人の子飼らしく、事あるごとにリオノーラにダメ出しをし、酷い罵声を浴びせていた。
リオノーラの正体を知る何人かは目を光らせながら、事あるごとにその詳細を公爵夫人へ報告しているようだ。
とは言え、優しくしてくれるからと言って、完全に敵か味方かどうかはわからないまま、確認のしようのないまま、リオノーラは神経をすり減らしながら日々の課題をこなしていった。
そうして、本物のアンジェニアの十八歳の誕生日まで残すところ、二ヵ月を切った頃。
リオノーラは公爵夫人から呼ばれてゴッドウー公爵邸に向かうこととなった。
確かに最初"最後の一ヶ月位なら、公爵家の門をくぐることを許す"と公爵夫人から言われていたが、思ったより早めでリオノーラは少し焦る。
(弟と妹の誕生日がもうすぐなのに……)
「片付けて頂戴」
公爵夫人からの手紙を書斎の引き出しにしまったリオノーラは、象牙で作られたペーパーナイフを使用人に渡しながらそう言う。
彼女は既に、公爵令嬢らしい風格と品格、そして威厳と思慮深さを兼ね揃えた女性に傍目からは見えていた。
ただ、やはりそれはあくまで見た目だけのことであり、リオノーラは常に怯え、家族を想い、枕を濡らして必死に学んでいた。
「タニアを呼んで」
「はい、お嬢様。少々お待ちください」
椅子に浅く腰かけ、ピンと背筋を伸ばして茶器の音を立てずに優雅な所作でお茶を飲むリオノーラは、どこからどう見ても立派な貴族令嬢にしか見えない。
やがて、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「お待たせ致しました、アンジェニア様。タニアでございます」
「入って」
リオノーラは、タニアの入室に立ち上がることなく堂々と椅子に座ったまま、向かいの席へ手だけで座るよう指示した。
「何かご用命でしょうか?」
タニアは座ることなく、その場でリオノーラに聞く。
「……お母様から、屋敷へ戻りなさいと指示があったの。随分急じゃないかと思ったのだけど、少し遅れても構わないかしら?(公爵夫人に呼ばれましたが、もう少し遅れて出発しても構いませんか?)」
「いいえ。(駄目ですね。)ただ、そろそろアンジェニア様のお誕生日でございますし、その後は直ぐに結婚式が控えておりますから、今お呼びになられたのかと思います。(向こうでもやらなければならないことは山ほどあります。)アンジェニア様のお加減も、こちらに来て随分と良くなられたようなので、最適なタイミングかと。(こちらでの教育課程は問題ないので、直ぐに向かって下さい)」
「……そう。わかったわ」
リオノーラは、溜息をつく。
一年の間にどうにかタニアを味方につけられないかと奮闘したが、家族の近くにいる女と違って、何にも釣られてくれなかった。ただ、マナーの講師含め他の事情を知る者達と違って、毎日苛めてくるなどの陰湿なことや、故意にアンジェニアと比較して貶めるようなことも一切しなかった。
アンジェニアの乳母として、彼女に深い情を持っているのかと最初は思っていたが、淡々と話す様からはどうもそうした感情が窺えない。リオノーラにとって、タニアは非常にわかりにくく、敵であるのに完全な敵とは言い難く、また味方にも絶対になりえないという、とにかく捉え処のない人間だった。
「……何か、心残りでもございますか?」
タニアに聞かれ、リオノーラは素直に頷く。
「ええ。街を離れる前に、最後に行きたいところがあって」
タニアを絆そうとして、逆に自分が絆されてやしないだろうかと思う程、公爵夫人相手には到底言えない言葉が、タニア相手だとついするりと出てしまう。
「明日の午前中だけでもよろしければ」
リオノーラは、思わず笑顔になった。
昔のように、口を大きく開けて笑うのではなく、口角を上げるだけの令嬢らしい笑みだが。
「ありがとう、十分よ」
つまり、明日の午後には出発するということだ。
午前中だけ自由時間をあげるから、と、そこだけタニアは見逃してくれるらしい。
「最後に街へ行ってくるわ。悪いけれど、出発の準備をお願い」
「畏まりました。行ってらっしゃいませ、お嬢様」
翌日、リオノーラは早々に出掛ける支度を済ませ、ゴッドウー公爵邸への準備は使用人に任せて街へ出た。
双子の弟妹は、もう直ぐ六歳になる。
一方リオノーラは、誰にも祝われることなく既に十九になる誕生日を迎えていた。
父親が鉱山で死んだ直ぐの一ヶ月後、双子を高齢出産で生んだ母親はそのまま寝たきりとなり、当時十三歳だったリオノーラが以来五年間、十六歳までは平民が通う学校に行きながらも近所の力を借りてなんとか双子を育て、十六が過ぎて学校が終了するとひたすら働いて双子と母親の面倒を見ていた。
「この店を見るわ」
「そこは、平民が使うような店ですよ?」
「良いのよ、たまには」
高価な物をあげようとすれば、きっとあの女に掠め取られるだろうから、と考えたリオノーラは、双子の好きだった子供向けのお菓子を買って行くことにした。
(一年の間に、どれだけ大きくなったのかしら……)
双子の成長を間近で見られなかった寂しさと申し訳なさが胸に溢れて、鼻の奥がツンとする。双子だけではなく、母親の病状も気になった。きちんと診て貰えているだろうか?
公爵夫人の屋敷に呼ばれたことは、リオノーラに自信を与えていた。少なくとも、リオノーラを見て判断するという土俵にはのれたのだ。であれば、今すぐにどうこう出来ない筈だ。
「この住所に住む子供達に、これをあげたいのだけど」
リオノーラはわざと、リオノーラの正体を知る護衛騎士にお願いをした。
出会った当初にリオノーラの腕を強く掴んだ護衛騎士だ。
彼は、自分の能力を認められることを何よりも喜ぶ。
だから、リオノーラの護衛に選ばれた時は「なんで俺がこんな仕事を」と自分が過小評価されたと思い、その鬱憤をリオノーラに当たる事で発散していた。
けれども、それ以来リオノーラが全く面倒を起こさなかったことと、一年掛けてリオノーラが彼を肯定し続けたことで、その護衛騎士はリオノーラに大分甘くなっていたのである。
「直接は困ります」
護衛騎士は、眉をひそめた。
「近くに行ったら、世話をしてくれる女性に渡すだけよ。なんなら、私が直接渡さないでいい。貴方が渡してくれないかしら?」
むしろその方が良いと、リオノーラは頷いた。
また自分を見掛けた双子が"お姉ちゃん"と呼んでしまえば、流石に公爵夫人の目に留まってしまうだろう。一度は見逃してくれたとしても、公爵夫人の慎重な性格からすれば、二度目があるとは思えない。誕生日プレゼントを渡したが為に、双子の命が危険な目にあっては、元も子もないのである。
「畏まりました。それならば、いいですよ」
こうしてリオノーラは、遠い公爵邸に行く直前に家族を一目見たいと、一年間立ち寄れなかった自宅を物陰から見た。
リオノーラが見守る中、護衛騎士が、コンコン、とドアをノックする。
一目で良い、ドアの隙間から二人の元気な顔を覗けたら……!!元気になったお母さんがドアを開けてくれたら……!!
リオノーラの祈りが通じたのか、ドアが開いた。けれどもそこにいたのは、知らない年配の女性だった。以前、双子の面倒を見ていた女性ですらない。
護衛騎士は二言三言その女性と話すと、やがて踵を返してリオノーラの許に戻って来た。
「あの女性は、何と?」
リオノーラが聞くと、護衛騎士はバツが悪そうにそっぽを向いて言った。
「……引っ越したらしいです。今のは、新しい住人でした」
「えっ!?」
リオノーラは、耳を疑った。