18、束の間の平穏
「おはよう」
「……おはよう、ございます……」
翌朝。リオノーラが目覚めると、ディナンドは寝室の椅子に腰掛け本を読んでいた。
すっきりとした様子で、既に着替えまで済ませているが、決して彼が早起きをした訳ではないようで。
窓から差し込む日差しの高さに気付き、慌てて起きようとして、リオノーラは身体が思うように動かないことに気付いた。
そしてそれを見計らったかのようなタイミングでディナンドがリオノーラに問う。
「身体は大丈夫か?」
「……あまり、大丈夫ではないようです……」
昨日は足首を痛めた時に歩けないかもしれないと危惧したが、直ぐに痛みが引いて一安心していた為、まさかこんな落とし穴に嵌るとはリオノーラは思ってもいなかった。
ディナンドは慌ててベルを鳴らし、アンジェニアの部屋に控えていたフラミルダとトラウラを呼んだ。
「おはようございます、アンジェニア様」
「……おはよう……」
「……喉が渇れていらっしゃいますね。直ぐに蜂蜜水をお持ち致します」
「あり……がとう……」
優秀な侍女達は、普段通りにテキパキと動いて部屋に移動させることなくアンジェニアの支度を整えた。
(二日も続けて寝坊をしてしまった……)
リオノーラが反省しながらディナンドと一緒に遅めの朝食をとっていると、ディナンドは「そう言えば、父へ君との訪問について聞いたのだが、父は何時でもいいと言っているそうだ。一週間後なら私の都合もつきそうなのだが、それでも大丈夫か?」と聞いてきた。
忙しいだろうディナンドが一緒に行ってくれるとは思っておらず、リオノーラは少し驚きながら「はい」と頷く。
ただ、一応「あの、無理してご一緒なさらなくても……」とうかがう。
「……私の恥ずかしい過去の話を勝手に話されてはかなわないからな」
と、口元を拭いながらふいと気まずそうに顔を背けるディナンドは年相応に見えて、思わずリオノーラはクスクスと笑ってしまった。
「……ディナンド様、そろそろ」
「すまない、君ともっと一緒にいたかったのだが、もう時間だ」
「とんでもないことでございます、行ってらっしゃいませ」
「君はまだ食事中だろう?見送りはいらない、また夜に」
「はい、お気をつけて」
ディナンドは席を立つと、名残惜しそうにリオノーラの傍に向かって、その場に立ち上がっていた彼女の額にキスを落とした。
使用人がざわっとしながら慌てて視線を逸らす。そして、
「ディナンド様」
「わかっている」
執事に急かされたディナンドは、火がついたように赤くなったリオノーラに微笑み、足早に去って行ったのだった。
***
「アンジェニア様がいらしてから、あり得ない光景ばかり見てますよ私達」
その日、リオノーラはトラウラとフラミルダを連れて、公爵領の中でも発展した街にお忍びで向かっていた。
馬車の中でフラミルダにそう言われて、リオノーラは首を傾げる。
「あり得ない……?どういうこと?」
「ディナンド様です。……朝、庭で剣を振らずに部屋で過ごすなんて、私がこの屋敷に来てから初めてです」
「そうなの?」
てっきり読書好きなのだと思っていたリオノーラは自分の勘違いに少し恥を感じる。
「ええ。お食事も、今まであんなにしっかり取られるところを見たことがありません」
「今まで朝食は抜いていたのかしら?」
「朝は時間が勿体無いとおっしゃって、バスケットに詰めたものを執務室にお持ちするか、今朝のように予定があれば、それを馬車の中に持ち込まれて召し上がるか、馬での移動なら、大抵現地に到着してからそれを召し上がっているんじゃないですかね」
「そうなの」
だとすれば、ディナンドは朝から活動的に動くタイプなのだろう。自分に合わせてくれたのなら申し訳ない、とリオノーラは少し眉を潜めた。
(寂しいけれど……)
「……朝は別々に、とこちらから言った方がいいかしら」
ポツリと呟けば、何となくそれが良い気がした。
恐らくディナンドは、リオノーラが起きるまでずっと待っていてくれたのだ。起こして下さいとお願いしても、彼の性格ではそれをしない気がする。
名案だ、と思って顔を上げれば、侍女の二人が「信じられない」とでも言いたそうな顔をしてリオノーラを見ていた。
「冗談でも、そんなことおっしゃらないで下さいね!?」
「そうですよ!また朝から仏頂面のディナンド様を見送ることになるの、私達嫌です!」
「え、ええ。ご……悪かったわ……?」
"仏頂面"と聞いたトラウラは、思い出したようにフラミルダに聞いた。
「ねぇ、そう言えばディナンド様って普通に笑うのに、何故あんなマイナスイメージの呼びがついているのかしら」
(……それは、ゴッドウーが悪意をもって広めたのではないかしら)
そう思っていてもゴッドウー側のトラウラの前では下手なことが言えず、リオノーラは口を開かず一緒にフラミルダの返事を待つ。
「普段、笑わないのよ」
「え?」
「ディナンド様は、裏切り者を処刑する時以外笑わないの。まぁ、マーサルティ様の前だけは例外だったけれど。だから正直、私達が一番驚いているわ。だって……」
フラミルダは、そこでハッとしたように口を噤んだ。
(そのマーサルティ様を毒殺したと考えられている、ゴッドウーの娘の前でだけ笑うということは……)
ディナンドは、リオノーラを処刑する時を、想像して笑っていたのだろうか?
(あんなに、優しいのに……いえ、優しく見えるのに……)
けれども、貴族の笑顔は油断ならない、と散々ゴッドウー公爵夫人によって思い知らされている。
リオノーラは、そっと自分の首に手を当てた。
(二日間、首が繋がっているだけでもよしとしなきゃ……)
ディナンドの優しさに絆され、本来の目的を危うく見失うところであった。
(ディナンド様が笑うのは、裏切り者を処刑する時だけ……)
彼が毎日笑いかけてくれたのを、まるで自分に心許してくれているかのように感じてしまっていたと、リオノーラは自嘲する。
改めて、この蟻地獄のような場所から抜け出して、早く家族の元に帰りたい、と今は手にすっかり馴染むようになった扇を握りしめた。
「アンジェニア様、そろそろ着きますよ。ドバイリー公爵領内で最近勢いのある街、バルテズです」
「ええ」
リオノーラは気を引き締めて、窓の外に目をやる。
比較的最近バルテズの近くで宝石の鉱床が見つかり、その鉱山を中心として人が集まった為に、賑わいと活気のある街になっていた。
「アンジェニア様、少し離れたところに護衛を配置しております。何かございましたら、彼らを呼んで下さい」
「護衛隊長のマルコムと申します。本日は五名体制で警護させて頂きます」
「ええ、今日はよろしく」
マルコムと名乗った男は屈強そうだが老齢で、以前は国境の最前線に出ていたのだろうと思わせるような、厳つさと柔らかさが同居した不思議と安心させるような雰囲気を醸し出していた。
(……なんか何処かで、見たような……少し、お父さんに似てる……かも?)
マルコムは父よりも一回り以上年が上に見えるし、顔も似ている訳ではない。けれども、どっしりとした体型と精神が、どこかリオノーラに父親を思い出させた。
また一方のマルコムも、目を細めてリオノーラを見ている。
「……何か?」
リオノーラは貴族の女性らしく、扇で顔を半分隠してマルコムの不躾な態度を批難するかのように声を掛けた。
マルコムは、慌てる様子もなく更に目を細めて笑顔を作る。
「いや、これは失礼致しました。実は私は貴女様に一度お目にかかっているのです。あんなにコロコロと愛らしく、小さかったお嬢さんがこんなに美しくなって……はは、そりゃ私も年を取ったものです」
どうやら、マルコムはまだ小さな頃のアンジェニアを見たことがあったらしい。もしかしたら、ドバイリー公爵とアンジェニアが一度挨拶を交わした場に、マルコムも護衛としてついていたのかもしれないな、とリオノーラは考えた。
「そうだったの。私は記憶にないわ。……ごめんなさい」
「いえいえ、直接ご挨拶を交わしてはいませんから。当然でしょう」
その後リオノーラは侍女二人とバルテズ散策を楽しみ、それを少し離れた場所から護衛達が見守っていた。