15、恋慕による凶行
きゃああ、とその状況を目撃した人々から悲鳴が上がり、ディナンドは何事かと二階を見上げる。
一度ドレスを掴んだマーリネッラが目を見開き、「え……?なぜ……」と呟いた。そして次の瞬間、ゆっくりとその手を離したのがディナンドの視界に飛び込んでくる。
「何をしている!!」
脳がその光景を処理するより先に、ディナンドは走り出していた。
マーリネッラが手を離すより早く、一度転落を免れたリオノーラは階段の手摺に手を伸ばしたが、それはむなしく指先だけ掠めただけだった。
(落ちる……っっ)
目をぎゅ、と瞑って、本能的に受け身の体勢を取ろうとした時、自分を固いクッションのようなものが受け止めた感覚を身体で感じた。
「……大丈夫か?怪我は!?」
「ディナンド様……」
実際にリオノーラが階段から落ちたのは二、三段程で、直ぐにディナンドがその身体を支えてくれていた。
「アンジェニア様!大丈夫ですか!?申し訳ありません、私……!!」
リオノーラは安堵によって涙が溢れそうになったが、それより先にトラウラがボロボロ泣きながらリオノーラにすがり付いてきたので我に返り、
「大丈夫よ」
とその場で一人立とうとした。
「……っ」
リオノーラの右足首に激痛が走り、それに気付いたディナンドはリオノーラを横抱きに抱えあげる。
カタカタと震えるトラウラとマーリネッラに、「お前達はついてこい」と冷たい声で告げて、駆け付けた執事に幾つか指示を出してアンジェニアの部屋へと向かった。
「大丈夫です、ディナンド様」
ディナンドにはやることが残っていると聞いていたのに、手を煩わせてしまったことが申し訳なくて、リオノーラの瞳に耐えていた涙が再び溢れた。
「今は君の方が大事だ。問題ない」
ディナンドは安心させるように言って、リオノーラの頬に軽いキスを落とした。
「えっ……なっ……!」
リオノーラは驚き、真っ赤になって、キスされた頬を押さえる。
ディナンドはクスクス笑いながら、階段から落ちそうになった恐怖心が少し薄まり、羞恥心がリオノーラの胸中を占めたことに安堵した。
少し冷静になったリオノーラは、大人しくディナンドに抱き抱えられたまま、謝罪した。
「……すみません、折角の歓迎会を、このような形で台無しにしてしまって……」
「君が無事なら何でもいい。私が君を抱えあげた時のヤジを聞いたか?むしろ、私のこんな姿に今頃盛り上がっているだろう……」
眉間にシワを寄せ渋面を作ったディナンドに、思わずリオノーラは吹き出してしまう。
「アンジェニア様、ディナンド様に失礼では」
マーリネッラが進言し、
「そうですね、ごめんなさい」
とリオノーラは首を竦めたが、ディナンドはリオノーラを叱咤することなくマーリネッラに冷たい視線を浴びせる。
「……っ」
マーリネッラはディナンドの視線を受けて、たじろぎながらも頬を赤らめた。
アンジェニアの部屋に入ると、ディナンドはそっとリオノーラを下ろして「お前が状況を説明しろ」とトラウラを指名した。
トラウラは、びくびくと怯えながら両手を懺悔するように組み合わせて口を開く。
「はい……あの、私が二階でアンジェニア様に当たってしまい……その、アンジェニア様が落ちそうになりました」
「何故妻に当たったのだ?」
「……信じて、貰えないかもしれませんが……身体を、押されました……」
トラウラは、ゴッドウーから来た自分がドバイリーからどう見られているか、よく理解している様だった。だからこそ、恐怖で顔を真っ青にさせ、身体をガタガタ震わせている。
「あの場には、私達しかいなかったじゃないですか。何故、アンジェニア様を突き落とそうとしたのですか?」
「そんな!私、突き落とそうだなんて……!!」
マーリネッラに言われて、トラウラは唇を噛んだ。
「……どちらにせよ、こんな問題を起こしてはお前をここに残しておくことは出来ない。即刻、事情を話してゴッドウーに戻って貰おう」
「そんな!」
トラウラは悲鳴を上げた。
「そんな、そんなことになったら……!!」
その先は言わないが、リオノーラにはよく理解出来た。
トラウラはやはり、公爵夫人の指令を受けてここにいるのだ。普通に考えれば、リオノーラの監視が一番だろう。
そして、リオノーラはトラウラに同情した。
トラウラが何の為にゴッドウー公爵夫人に従っているのかはわからないが、指令に失敗すればその先に待つのは、よくてクビだろうから。
だからつい、口を挟んだ。
「……お待ち下さい、ディナンド様」
「ん?どうした?」
リオノーラがそっと横に立つディナンドの掌に自分の手を添えると、ディナンドの怒りがたちまち消え失せ、優しい表情でリオノーラに問いかける。
「トラウラの傍には……一人だけ、いました」
本当は、トラウラやディナンドの前ではこの事実を突き付けるつもりはなかった。後でこっそり本人を問い詰めるつもりだったのだが、こうなっては仕方ないと腹を括る。
「……マーリネッラが」
じっとリオノーラがマーリネッラを見ると、彼女は明らかに狼狽した。
「わ、私がトラウラを押したというのですか!?私はアンジェニア様を助けようと致しました!!」
「……助けようとした手を離したのは何故だ?」
丁度良い、次はお前に聞く予定だったと言ってディナンドは質問した。
「……その、手に、力が入らなくて……」
「……破けると思っていたドレスが、破けなかったから?」
マーリネッラは、リオノーラの一言に顔をパッとあげて見た。
そこに昨日から浮かべていた笑顔はなかった。
驚きと、非難。そして憎悪が浮かんでいる。
「ドレスを破いたのは貴女なの?マーリネッラ」
「……違います、私じゃない……」
「何故そんなことをしたんだ?母上についていた侍女だからこそ、妻を任せたのに」
否定していたマーリネッラは、ディナンドの非難めいた言葉に思わず反応する。
「何故って!!私達の未来の為じゃないですか!!」
「……は?」
マーリネッラの発言の意味がわからず、ディナンドは眉をひそめることしか出来ない。
「ドバイリーに、ゴッドウーの血が入るなんてあり得ないとおっしゃっていたではありませんか……!部屋だって、始めはここを予定していませんでしたよね?」
「ああ、確かに言ったな」
それが、未来の為とどう繋がるのかとディナンドは内心首を捻った。
「……失礼致します……」
お茶のセット一式を乗せたワゴンを運んできたフラミルダが部屋に漂う微妙な空気を察知して、そろり、と入室する。
その時、マーリネッラは叫んだ。
「マーサルティ様に、アンジェニア様とのご婚約の話が出た時……訴えていたではありませんか。私と結婚したいから、この女との婚約話をなかったことにしたいって、ご相談なさっていたじゃないですか!!」
マーサルティとは、ディナンドの母のことである。
その場にいた誰もが、その発言に唖然とした。
「……ちょっと待て。どこでそんな勘違いを……」
ディナンドは、リオノーラの手を「誤解だ」とでも言うように優しくきゅ、と握りしめると、額にもう片方の手を当てて言った。
けれども、興奮した様子のマーリネッラは忌々しげにリオノーラを睨み付けて激昂する。
「アンジェニア様がいるから遠慮なさっているのですか!?私は傍で確かに聞いておりました。ディナンド様は、父親を亡くした女性と、その、身分違いであっても妻として迎え入れたいと考えている、と。だからゴッドウー公爵家との政略結婚は断りたいと……!!」
「ああ、それで母上はゴッドウーに断りを入れに行って、毒を盛られて亡くなった。勿論、覚えている。だがそれが、お前とどう関係してくるんだ?」
「え……?」
静かに怒りをその瞳に湛えたディナンドに言われ、漸くマーリネッラは自らの思い描いていた方向と現実に、大分隔たりがあることに気付いた。