9、ディナンドとの対面
公爵家でアンジェニアの幼い頃から最近までの過ごし方を学んだリオノーラは、予定通り二ヶ月後にはゴッドウー公爵家のメイドを三人連れて、ドバイリー公爵領に馬車で向かっていた。
ゴッドウー公爵家は首都とリオノーラの住んでいたアルラン地方との間にあり、発展した街を幾つも抱える領土を所持していた。
しかし、ドバイリー公爵の領土はそれとは対照的に肥沃で広大ではあるが、どちらかと言えば田舎と言える。
アルラン地方から出たことのないリオノーラにとって、旅行であるならば心踊らせていたであろう旅路も、今はただ、監獄への道のりに思えて仕方なく、その心は重石が付けられたかのように深く深く沈んでいった。
入籍の手続きは、ゴッドウー公爵家とドバイリー公爵家の両家の公式印が押されたものを王家に提出すれば、そのまま婚姻関係が結ばれたものとして処理されるらしく、既にゴッドウー公爵夫人が手配したらしい。
リオノーラが偽物とバレないようにする為なのか、それとも見栄なのか、持参する所持品は高価で値の張るものばかりだった。
ゴッドウー公爵家でも良くしてくれたメイドの一人であるトラウラが、先にある青々とした木々を指差してリオノーラに言う。
「あの山を越えれば直ぐですよ」
「……ええ」
話し掛けてくれたがいよいよ本番間近と言うことで、心臓が口から出そうな程リオノーラは緊張していた。口内が渇き、鼓動が速くなるのを感じる。そしてその後もしばらく馬車は進み、お尻が痛くなってきた頃。
「屋敷が見えてきました」
「そうね」
豪華絢爛だったゴッドウー公爵家の邸宅に比べて、荘厳や重厚という言葉が似合うドバイリー公爵家の邸宅が見えてきた。
開門した後も真っ直ぐの私道をしばらく走り、邸宅が近くなると馬車はズラリと使用人達が並んだ中をゆっくりと進み、やがて正面玄関の前に横付けした。
こんなに盛大にお出迎えされるとは思わず、リオノーラは深呼吸を繰り返す。三回深呼吸したところで馬車の扉がノックされ、ガチャリ、と音をたててそれが開く。
「ドバイリー公爵家へようこそ」
(えっ……?)
澄みきった空の下、エスコートの為に立っているのはやたら体格が良く、そして精悍な顔付きをした男性だった。艶のある黒髪に、鋭い藍色の瞳が印象的な美青年が笑顔で出迎えてくれる。
「……ありがとうございます」
何度も教わったお手本通り、その男性の差し出す掌にそっと自分の手をのせる。
長年剣を握っていると思われる掌はごつごつとして固く、大きく、そして温かかった。
リオノーラがコツ、と大地に足を下ろして、つつつ、と視線を横にいる男性に向けると、その男性は頬を赤く染めて照れたようにニコ、と笑う。
何となくその笑顔に懐かしさのようなものを覚えながら、リオノーラは混乱していた。
嫁に来たアンジェニアの手を取りドバイリー公爵家に案内する、黒髪に藍色の瞳のイケメン男性。
状況的に考えれば、ドバイリー公爵家の後継者であるディナンドで間違いない筈なのだが。
(無表情、無愛想、冷酷無比であることでも有名……って、このお方が?冷酷無比の意味って、思いやりがないとか無愛想とか冷たいって意味だった気がするけれど……)
リオノーラの歩幅に合わせて歩んでくれ、いちいち「そこの段差に気をつけて」と声を掛けてくれるその姿は、どう考えてもその言葉が適切とは思えない。
むしろ、ゴッドウー公爵夫人の方が余程、リオノーラにとっては冷酷無比なイメージが強かった。あの笑顔の裏で、一体どんな非情な命令を下しているのだろうと考えると、身体が震える。
幸いにもまだリオノーラは命を留めているだけで、ドバイリー側にアンジェニアではないとバレた時点で直ぐに切り捨てられるだろう。
(ひとまず、一ヶ月……ドバイリー公爵の現状報告だったわね)
ゴッドウー公爵夫人には、一ヶ月に一回、普通の手紙とは別に密書を送ることになっている。アンジェニアの部屋の前に、黄色い花が生けられた日にその花瓶の下に手紙を滑り込ませておくらしいのだが、それが意味することはドバイリー公爵家にはゴッドウー公爵家の内通者が潜んでいる、ということだ。
「長旅で疲れているだろうから、まずは君の部屋に案内しようと思うのだが、それでいいか?」
ディナンドはそう言ってエスコートしたままリオノーラを案内しようとする。
(……使用人達には挨拶をするな、ということかしら)
けれども使用人達は皆一様に頭を下げたまま待機している。
リオノーラは、正式な挨拶ではなく簡易的な挨拶だけしておこう、と正面玄関を跨ぐ手前で一度くるりとターンし、スカートを軽く両手で持ち上げて使用人達に礼をした。
「これからこちらでお世話になる、ゴッドウー公爵家から来たアンジェニアよ。よろしく」
使用人達がざわ、となる前に踵を返してディナンドの差し出した腕に手を掛け、案内に従った。
「今日からここが、君の部屋だ」
「……案内ありがとうございます」
まるでダイニングに通じるかのような両開きのドアを使用人達が開けると、リオノーラより先に爽やかな風が吹き抜けていく。
(……わぁ……!!)
扉から向かって正面奥には広いバルコニーが設置されていて、細やかで洗練された刺繍の薄い、風になびくレースカーテンの向こう側に見える風景は脈々とした山々が広がっており、その景色はリオノーラの胸を打った。
リオノーラが吸い寄せられるようにバルコニーまで行くと、バルコニーの下には中庭が広がっており、そちらの景色も一緒に楽しむことが出来る作りになっていた。
「気に入ったか?」
「はい……とても」
気付けばディナンドが隣に立ち、優しい眼差しでリオノーラを見ていた。
リオノーラは、浮き立つ気持ちに気付かれやしなかっただろうかと、態度は横柄にしつつも心は萎縮する。
(物置小屋みたいなみすぼらしい部屋だろうから覚悟していけと公爵夫人に言われて来たのに……)
「この素敵な部屋が、アンジェニア様の部屋……ですか?」
トラウラが、リオノーラの心を代弁したかのようにドバイリー公爵家の使用人に確認している。
「そうだ。それが何か?私の妻なのだから、当たり前だろう」
「し、失礼致しました」
トラウラの質問に、使用人ではなくディナンドが冷たさのある声でそう言うと、彼女はビクッと怯えて頭を下げた。
リオノーラは、ディナンドのトラウラへの対応がきっと、彼の通常の話し方であるに違いない、と理解する。
ディナンドは直ぐにリオノーラに向き直ると、右側を指して言った。
「隣に夫婦の主寝室、更に奥の部屋が私の部屋だ」
「はい」
リオノーラはこくりと頷く。景色を見ているというのに、ディナンドからの突き刺すような視線がどうしても気になってしまう。ただ、それは覚悟していたような、親の敵に対しての憎しみが籠ったものではなかった。
(何故こんな……慈愛に満ちた眼差しで私を見るのだろう?)
それは、母と別れてから自分には縁のない眼差しで、心の奥底がほんのり温かくなると同時に、本当ならばアンジェニアに向けているだろうその眼差しを、偽物である自分が受けていることに罪悪感が募る。
「今日は疲れているだろうから、君の歓迎会はまた明日にしようと考えている。それでいいか?」
「私の歓迎会、ですか?」
まさかそんな会を企画して貰っているとは思わず、目を見張った。
「ああ。私達は結婚式を挙げないから、その代わりだと思って貰えば良い。この部屋に衣装部屋があるから、ゆっくりと休んでから好きなドレスを選んでくれ。君が選べなければ、私が選ぼう」
「……はい」
リオノーラは、頷いた。