8. 失踪
そして、放課後。
結局、田宮は部活をさぼってアパートへと戻るわたしについてきた。
「そんなに休んで大丈夫なの?」と訊いたら、「人生、大事なことのために何かをあきらめなくちゃいけないこともあるんだ」とやけに含蓄のある言い方で返された。
田宮が大おじさん――昭三さんの恋について知ったのは、先週末のことだったという。
昭三さんが自分に会いたがっていると父親から聞き、日曜にあの店をたずねたところ、「しあさって、水曜の放課後、俺の代わりに店番をしてほしい」と懇願されたのだという。中学生の田宮以外に頼める人がいなかったのだから、よほど切羽詰まっていたのだろう。
「悦子さんのために店をあけておかなくちゃいけないんだって、大おじさん、すごい顔して訴えてきてさ。俺はどうしても抜けられない用事がある、こんなことを頼めるのはお前だけだって。あ、もちろん最初は嫌だって言ったぜ? 俺、パートリーダーだし。部活を休むわけにはいかないだろう?」
確かに普段の田宮ならば即刻断る案件だ。たとえ相手が血縁であろうとも。
「でもさすがに話を聞いたら無下にできなくてさ」
いわく、昭三さんは小学生のころから悦子さんに恋しているのだそうだ。だから中学、高校と、悦子さんと同じ学校に進学もした。だけど悦子さんは突然高校を中退してしまった。誰にも理由をいわずに。ただ、体調を悪くして長く休んでいたから、そのせいだろうと皆は納得していた。
納得していなかったのは昭三さんだけだった。それもそうだ、ずっと恋していた人が突然姿を消したら、そこにきちんとした理由がほしくなるのが人の心というものだろう。
けれどいろいろと伝手を頼って調べた結果、昭三さんは知ってはいけないことを知ってしまった。悦子さんがなぜ高校を中退したのか……その理由を。
高校生だった昭三さんにとって、それはまさに青天の霹靂だった。
昭三さんは恋をあきらめた。もう悦子さんは自分とは違う世界の人になってしまったのだ、と。悦子さんはほどなくして実家も出てしまったから、このまま自分の人生に悦子さんが現れることもないと考えた。
けれどその年のクリスマス、隣町の父親が経営する雑貨屋でレジ台に座っていたら、そこに悦子さんが現れたのだそうだ。
どぎまぎする昭三さんとは対照的に、悦子さんは終始無表情だったという。それどころか、クリスマスだというのに白い便せんと封筒などという地味なものを買い求める悦子さんの顔色は悪かった。真冬にしては薄着なことだけが理由ではなく。
しかし、悦子さんの目がレジ台に置かれた小さなクリスマスツリーに向いた瞬間、すべてが変わった。悦子さんの頬に血色が戻り、目はきらきらと輝いた。それは昭三さんが昔からよく知る悦子さんそのものの表情だったそうだ。
「その時から大おじさんは毎年悦子さんのプレゼントのラッピングをしているんだ。サービスだと言いくるめて、無料で。でも本当は違う。あれは大おじさんから悦子さんへの精一杯のクリスマスプレゼントなんだよ」
「ラッピングが……クリスマスプレゼント?」
それは聞いたことのない発想だった。
「大おじさんが言ってたんだけど」
そう前置きして田宮が白い息を吐きながら早口で続ける。アパートまではもう少しだから気が急いているのだろう。
「悦子さんが誰にプレゼントを贈りたいのかはわかっているし、それを実際には贈れないこともわかっている。でもそんなこと、赤の他人の自分が触れていいことでもない。だからせめてプレゼントを……プレゼントを贈りたいと願う悦子さんの心を美しく飾りたいんだって、そう言ってた。他に悦子さんにあげられるものは自分には何もないから……って。昔も、今も」
それを聞いてわたしはなんだか泣きたくなった。
おそらく今の昭三さんなら、悦子さんになんでもプレゼントしてあげられるはずだ。店にあるものはもちろん、他のものだってお金に糸目をつけなければなんだって取り寄せてあげられるはずだ。世界各国から様々なものを。
でも昭三さんには悦子さんにプレゼントを贈る権利はないのだ。
権利というと語弊があるかもしれないが、つまるところはそういうことなのだと思う。「親しくもない人に」「理由もなく」贈られても困るもの、それがプレゼントというものなのだから。
でも昭三さんは雑貨屋を営んでいるから、お客様に商品のラッピングをしてあげることはできる。
「でも今年はタイミングが悪くて悦子さんに会えなくて、それで大おじさん、すごい意気消沈しちゃって。予定をあけられなかったのは自分だからって一生懸命割り切ろうとしてるんだけど、もう見ていてすごいかわいそうで。なんたって、大おじさんが悦子さんに会えるのは年に一回、この時期だけだから」
悦子さんが自分の店に来るそのひとときが昭三さんにとっての幸せな時間なのだという。でも悦子さんと必要以上に言葉は交わさないようにしているのだとか。過去の片鱗を知る元同級生の存在は、悦子さんにとって喜ばしいはずがないから、と。
だから毎年一回レジ台に出された品物を「お買い上げありがとうございます」と受け取り、「お包みしますね」と精一杯のラッピングをほどこし、「ありがとうございました」と見送る、それだけの関係を何十年も続けてきたのだという。
ただ、例外は一度だけあった。まだ若かりし頃、店を継いだばかりの昭三さんに悦子さんがお祝いの言葉をかけたことがあるそうだ。これに昭三さんは有頂天になった。『この店を継ぐのが夢だったんだ』とも言ったそうだ。
そしてこの時、悦子さんがつぶやいたのが――。
『私もいつかサンタクロースになれるのかしら』
「大おじさんから話を聞いてるし、俺、いてもたってもいられなくて。どうにかしたくて」
そう言う田宮の頬が赤いのは寒さだけが理由ではないのだろう。無意識に速足になっているのもそうだし、きっと内心興奮状態になっている。
それはわたしもそうだった。
(悦子さん)
わたしは心の中でおばあさん――悦子さん――に語りかけていた。
(悦子さん)
(悦子さん)
(悦子さんにもプレゼントをあげたいと思ってくれる人がいるんだよ?)
何十年ものあいだ、人とのかかわりを避けてきた悦子さん。誰からも贈り物をもらわず、贈り物を贈ることもできなかった悦子さん。人を愛せないからサンタクロースにはなれないと言った悦子さん。
だけど――そんな悦子さんのことを想っている人がいる。
(人を愛せなくても愛されることはできるんだよ?)
(だから悦子さんは欠陥品なんかじゃないんだよ?)
(子供に贈るのは無理かもしれないけど……昭三さんなら絶対に喜んで受け取ってくれるはずだよ?)
(それって、悦子さんがサンタクロースになれるってことだよね?)
と、アパートへと曲がる角で、突然足元を白い何かが走っていった。
「きゃっ」
「大丈夫か」
足がもつれたわたしの肩を田宮がとっさに支える。
「うん。でもびっくりした」
まだ心臓がばくばくしている。
「野良猫みたいだな。その割にはきれいな毛並みだったけど」
そちらを眺めながら田宮がつぶやくのと、わたし達の背後からおばあさんが現れたのはほぼ同時だった。
「レイコ、待ちなさい!」
「悦子さんっ?」
「お嬢さん! それに昭三さんのところの? それにどうしてお嬢さんが私の名前をご存じなんですか?」
「そんなことはどうでもいいよ。さっきの、もしかしてレイコ?」
「ああ、そうです。そうなんです」
悦子さんがきりきりと両手をもんだ。
「あの子が窓から飛び降りてしまって。今までそんなこと一度もなかったんですけど」
窓には猫の飛び降りを防止するための格子をはめていたが、その格子の間をまるで液体のようにレイコがすり抜けてしまったのだという。
「どうしましょう。レイコが! レイコが……!」
心配のあまり悦子さんの手が震え出した。
「あの。すみません。さっきの猫、首輪してませんでしたよね」
田宮の問いかけに悦子さんがぐっと喉をつまらせた。
「……首輪は嫌がるから。それに家の中から一度も出たそうにしたこともなかったし、大丈夫だと思っていたんです」
「すみません。責めてるわけじゃないんです。ではマイクロチップは入れてますか?」
これに悦子さんが弱々しくうなずいた。
「じゃあ一安心ですね。とはいえ寒いし、急いで探さないと。俺、大おじさんに連絡してみます」
「ちょっと田宮。今はそんな話をする状況じゃないから」
「違うって。大おじさん、保護猫活動にかかわっているから、こういう時頼りになると思っただけだ」
そう言うとかばんからスマホを出し、その場で電話をかけ始めた。
「……あ、俺。健吾。あのさ、知り合いの飼い猫が家から逃げちゃって。助けてほしいんだ」
話はすぐにまとまったらしい。
「今すぐ来るって」
ぴっと電話を切りながら、田宮が親指と人差し指で丸を作ってみせた。
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