5. レイコとの出会い
空の半分以上が紺色に染まる、帰り道。おばあさんの足取りは明らかに軽くなっていた。
外気は肺がきゅっとするほど冷えているし、手袋をしていない指先はさっそくかじかんできているのに、おばあさんは寒さをものともしていない。
「ね。訊いてもいい?」
「なんですか?」
「レイコって何歳なの?」
「何歳でしょうねえ。たぶん十五歳くらいだと思うのですが」
「え、知らないの」
「あの子は捨て猫だったんです」
「そっかあ」
少し黙ると沈黙が続いてしまうのは、おばあさんの心がわたしに向いていないからだ。あげられないプレゼントを抱えて、おばあさんはクリスマスの到来だけを望んでいる。
まるでわたしのママのようだ、と思った。助かる見込みの薄いパパのためにすべてを懸けるママのようだと。
娘のわたしすらおざなりにして、ママはパパのことばかりを考え続けている。そしてわたしは今年のクリスマスもママからは何ももらえないのだろう。でも今のママからほしいものなんて何もないから、別にいい。それに誰からも何ももらえないクリスマスはもう二回経験している。誕生日も、そう。これからもきっとそう。
「おばあさんは今まで何匹の猫を飼ったことがあるの?」
足元の石ころを蹴ったら、まっすぐに転がっていった。
「レイコだけですよ」
「怖くなかった?」
「怖い、とは」
「猫を飼うのが」
さっき蹴った石ころにたどり着いて、もう一度蹴る。今度は軌道が斜めになり、車道へと転がってしまった。その上をトラックが気だるげに走っていけば、もうあの石の所在はわからなくなってしまった。
「生き物を飼うんだもん。怖くない?」
たたっと、おばあさんの隣に駆けよる。
「飼うのには責任が伴うでしょ。それに、お金も」
「こう言うとあれですが」
おばあさんは少し悩むように唇を結んだ。
「その頃の私にはもう怖いものなんてなかったんです。ほら、あそこ。あの橋」
おばあさんの指が向こうへと延びる。
「あの橋から飛び降りようとしたことが何度もあって」
ぎょっとしておばあさんを見ると、その横顔は意外なほど落ち着いていた。
そしてその表情のまま、何気ない口調のままでおばあさんは続けた。
「あの日もそういう気分になって、私は橋のそばでしばらく立ちすくんでいました。……夕暮れ時、水面にうつる夕日がだんだんと赤く染まっていく様子を今でも覚えています。日が沈むまでには飛び込もう、そう心に決めていました。『今度こそ』は人生を終えよう、そう心に決めていたんです」
見たこともない少女時代のおばあさんが……泣くに泣けずに立ちすくむおばあさんの姿が、幻のように目の前に一瞬現れた。そんな錯覚がした。白い肌、長いおさげ。今日のような古びたコートに伸びたセーター。くたびれたショートブーツ。くたびれた顔。
「白い封筒と便せんの話をしましたよね」
「あ、うん」
「あれは遺書を書くために買ったんです」
あまりにさらりと言われたものだから、すぐに飲み込めなかった。
「初めて給料をもらった日、いつでも死ねるように、死後に誰にも迷惑をかけないように、遺書を書いておこうと思ったんです。そしてあの日死にたくなったのは……そう、遺書を書きなおした直後だったからでしょうか」
数年に一回は見直すようにしているのだと、おばあさんが付け加えた。
「急に気分が落ち込んで……だから橋に行ったんです。でも私が欄干に身を乗り出したその時。猫が鳴く声がしたんです」
ふと足元を見たら、白猫がいた。
それがレイコだったそうだ。
「ちょこんと座って見上げてくる姿が本当にかわいくて……。そしたら死にたくなくなったんです。この子と一緒に暮らしてみたいって、そう思ったんです。それとですね、レイコも私と暮らしたいと思ってくれているような気がしたんです」
私の都合のいい解釈でしょうけどね、とおばあさんが小さく笑った。
「今の私があるのはレイコのおかげなんです。人と関わることができない私にとって、レイコの存在は宝物なんです。たかが猫一匹で、と思われるかもしれません。ですが、欠陥品の私にはレイコと暮らす日々がとても大切なんです」
「……どうしておばあさんはそんな話をわたしにしてくれるの?」
思わずたずねていた。自分から無遠慮にあれこれたずねたくせに。
するとおばあさんは「どうしてでしょうね」と首を傾げた。
「今までこんな話、誰にもしたことなかったんですけど。ですがなぜか話したくなったんです。話してもいいような……話した方がいいような……そんな気がしたんです」
*