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1. 少しの我慢

 二〇三号室の中が見えたのは、本当にたまたまだった。


 ママと二人で引っ越したばかりの、安アパート。上下となりの部屋にご挨拶にと連れていかれ、右隣の二〇三号室から出てきたのは上品な感じのおばあさんだった。


「わざわざご丁寧にありがとうございます」


 おばあさんはそう言ってわたしとママにそれぞれ頭を下げた。肌の白さが印象的なおばあさんだった。


 その時だった。おばあさんの曲げた背中の向こうにたんまりと積まれたプレゼントが見えたのは。


 その時は口をつぐんでいたけれど、自分たちの部屋――二〇二号室――に戻るや、わたしは堰を切ったようにママに報告した。


「ねえママ! あの二〇三号室のおばあさん、部屋にこーんなにたくさんのプレゼントがあったんだけど見たよね?」


 両手をこれでもかと大きく広げてみせる。だけどママはわたしのように驚いてもいなかったし、興奮すらしていなかった。


「なんのこと? というか、お隣さんのことをおばあさんだなんて言ったらだめよ。そんな御年の方じゃなかったでしょう?」

「ママ、見てなかったの? こーんなにたくさんのプレゼントがあったんだって!」

「見てないわ。見間違いじゃない?」

「見間違いじゃない! ほんとにあったんだって。こーんなにたくさんのプレゼントが!」


 再度大きく腕を回してみせたら、しっくいの壁に手の甲がぶつかってしまった。


「いたたた」

「マヒロ!」


 血相を変えたママがぱっとわたしの手をとった。


「大丈夫だよ。ほんとは全然痛くないから」


 安心させようと小さなうそをついたところ、「そうじゃなくて」とママに眉をしかめられた。


「ここは前の家とは違うのよ。狭いし、壁は薄いの」

「それってどういうこと?」

「つまり家の中では騒がないでってこと。壁も今みたいに鳴らすとママが怒られることになるから」

「そんなことで怒られるの?」

「そう。そんなことがここではとても重大なことなの」

「ええー……」


 床も薄いから走らないで、物も落とさないようにして、大きな音も出さないで、と矢継ぎ早に言われて、さらに気分が落ちていった。


「マヒロが思いつきで吹奏楽部をやめたのも結果的にはよかったのかもしれないわね」娘の心、親知らずとはこういうことを言うのだろう。「ここだとクラリネットは吹けないから」


「……ねえママ。わたし、やっぱり前の家に戻りたい」


 たまらずつぶやいたわたしの声は、ママの耳には届かなかった。


 

 *



 パパが病気になったのは随分前のことだ。


 小学校の卒業式にはパパもなんとか来てくれた。だけど中学校の入学式にはママしか来られなかった。そしてパパは今も病院にいる。


 ママいわく、パパの病気を治すためにはわたしたちは『少しの我慢』をしなくちゃいけないらしい。でも少しってどれくらいだろう。一人一人に個室のある自慢の一軒家を出て、キッチンと部屋が一つ、それにユニットバスしかないおんぼろアパートに住むことになったのは『少しの我慢』なのだろうか。


 でも不満は言えない。だってパパのためだから。そしてママのためでもある。ママは大好きなパパのために何かをせずにはいられないのだ。


 家にいて泣いてばかりいたママは、ここに引っ越すや働き始めた。看護師として復職したのだ。毎日疲れ切って眠るママは、泣いてばかりいた頃よりは幸せそうだ。


 引っ越しによって転校することはなかった。だけど転校した方がよかったのかもしれない。どうして今までとは違う道を通って帰るのか、どうして一軒家ではなくおんぼろアパートに帰るのか。誰も何もたずねてこないけど、そのことにちょっと傷ついている。


 そんな心の澱みたいなもののせいで、学校でもなんとなく陽気な気持ちになれずにいる。引っ越し前に部活もやめてしまい、かといって他にやりたいことがあるわけでもなく。早く高校生になってバイトをしたい。それが今のわたしのささやかな願いだ。いっぱいお金を稼げばこの空虚な気持ちも少しは薄れるはずだから。


 とはいえ、今日も学校から戻ってアパートの外観を見た瞬間、ため息が出た。家に帰るのがゆううつって、けっこう重傷な気がする。


 重い教科書のつまったリュックを背負いなおし、外階段でアパートの二階へと上がっていく。さびついた階段も見るたびに嫌な気持ちになるから、一段飛ばしで上がることにしている。


 だけどその日、わたしの足はなぜか二〇三号室のドアの前で止まった。


 なぜなのかはわからないけれど、両足はぴたりとそろって動かなくなった。


 二〇三号室の前を通らないとうちには帰れない。でもうちに帰りたいなんて本心からは思っていない。そのことにあらためて気づいた。まだ二〇二号室が自分の家だとは思えないのだ。番号がついた家だなんて、まるで監獄じゃないか。


 ぐずぐずとしていたら、にゃーとか細い鳴き声を耳がとらえた。


「……猫?」


 どこにいるんだろうとあたりをきょろきょろ見渡す。


 その時だった。正面を向いたわたしの眼前に二〇三号室のドアが疾風のように向かってきたのは。


「え? ええっ?」


 次の瞬間、わたしのぺちゃんこの鼻はドアにぶつかってもっとぺちゃんこになった。



 *

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