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「馬参軍、街亭に陣を張りこれを死守するのだ。決して山上に拠ってはならぬぞ、あのあたりは水が乏しい」


「はい、諸葛老師」


 自らの師匠の教えだと素直に受け入れ、兵五千と黄校尉らを連れて陣を離れた。ここを押さえておけば味方のみ連絡が保てる。


 この街亭、山というよりは丘と言った方がしっくりとくる。だがその周辺に比するものが少ないので確保したくなるが、高地を有利に見せかけた悪地でしかない。


 これも蜀にあと五千動員できる力があれば話は別だ、しかし居ないものは仕方ない。最悪を想定しての苦言を前もって伝えておく。


「魏将軍はどうか」


「張軍と激戦を繰り広げております。現地で民衆を強制徴兵して何とか持ちこたえている様子」


 徴兵に応じなければその場で皆殺しにされる。応じれば家族を人質にされ、死ぬまで戦わされる。唯一勝てば解放されるという仕組みだ。


 当然そのような兵は士気も低ければ忠誠など求められはしない。

 その地を今後支配下に置こうと言うならば最悪の手だとすぐに解る、それを実行しなければならないのもやはり蜀の国力から来るものだ。


「そうか……」

 ――長くは無いな、これでは北伐など覚束ない。


 凶報ばかりが際限なく舞い込んで来る、そこへ新たな伝令が駆け込んでくる。


「申し上げます、巴東へ向け呉軍が進発したと報告が。その軍五万とのこと」


「なんと! ……これまで、か」

 ――引き揚げの判断をせねばなるまい。もう涼西地域は蜀になびく事は無くなる、今後はもっと厳しい戦いになる。


 五万の遠征軍を山地に拠って隘路で防ぐ。迂回を気にしなければ一万で可能だろう。

 だがかの地は川がある。水軍に一万山道に一万、正面に三万と分散されては、守備兵一万では全く足りない。


 不眠不休の防戦でも数日防げるかどうか、そんなことを命令すれば脱走が相次ぐだろう。


 扇子片手に目を閉じて未来を占う。現在がすでにどうにもならない、それでも彼は先を考えねばならない責務があったからだ。



「報告します、呉軍が巴東へ侵入してきました!」


 進入路は多くない、先の戦争で使われたら困る山道はすべて切り落としてしまったので、主要街道と河が一本、そして南部の山道、これが大軍が動ける場所だ。


「やってきたな。蘭智意、向忠、関幾、袁休これへ」


「はっ!」


 蘭智意を筆頭に四人が島の前へ進み出る。零陵と交州からの士を初めてここで起用する。


 ダメでもともと、頭数になりさえすればそれで良い。


「蘭智意将軍に二万の軍勢を預ける、先に向かっている南蛮兵二万と共に現地の冷将軍の指揮下に入り呉軍を撃退せよ」


「御意! 謹んで拝命いたします!」


 卑将軍に任官出来たのは島の推挙があってこそ、ここで受けた恩を返そう、といった感じで気勢を上げる。


 信用出来る将軍が居ることで軍勢を割ることが出来て、こちらも大いに助かる。


「向を監巴校尉に、関を斥東校尉に、袁を退東校尉に任じそれぞれ歩兵五千を預ける。蘭智意将軍の指揮に従え」


「ははっ!」


 適当に創った雑号ではあるが、向監巴校尉が三人の中で半歩上の号なので代表して返事をする。

 全て歩兵なので虚を突いた行動は出来ないだろう、それでも対抗は可能だ。



《巴東戦線》


「者ども出撃するぞ!」


 蘭智意将軍が主力から離れ進路を東へと向ける。長江の先にある巴東の永安県は白帝城を擁する。蜀の主であった劉備が夷陵の戦いで呉との争いに敗れ入城した、そのまま没した城でもある。

 

 治府があるので永安宮とも呼ばれる、三狭の中心的都市だ。万が一ここを抜かれてしまうと、かなり西に在る陶忍県、更に西に在る羊渠県までさしたる拠点も無い。


「向監巴校尉、お前は臨江へと急進し軍船を擁し長江を下れ」


「承知致しました!」


 島の意を汲んで地を選定し、呉将軍が軍需物資を堆積していた。名の通り、長江を臨む街で人口はさして多くはない。

 だが天然の要害でもあるので具合が良く、数百の守備隊も置かれていた。


「関斥東校尉、お前は河沿いの木々を切り倒し、いつでも長江へ流せるように丸太を準備しておけ」


「お任せの程を、鉄器の使用許可を頂きたく」


「許可する」


 伐採のための鉞は戦闘物資ではないので司令部が一手に管理していた、そのため独占を言上した。


 もし軍船での戦闘に敗北したなら、長江を封鎖してしまえとの考えだ。物量次第では船を沈めてしまえるので、相打ち覚悟で流してしまうのも選択肢としてはありだろう。


「袁退東校尉、手勢を率いて南部の山道を進め。もし呉軍と遭遇したならその場を死守し後方へ通すな、増援を送る」


「御意に御座います。伝令並びに狼煙で合図を送ります」


 間道を封鎖して時間を稼ぐ、別動隊があったとしても一本道ではそうそう簡単に突破は出来ない。道なき道を少数で抜けたとしても、各地の守備隊で充分戦えるはずだ。


「俺は本軍を率いて街道を直進、永安へ向かう。南蛮兵にも伝令を出せ、後方を気にせず戦えとな」


 四日の行軍、補給物資を運んでいる部隊を別にして本軍が快速で進み続けていた。街道沿いにある程度の距離ごとに物資の堆積所を設置してあったからだ。


 平時に干し肉や穀類をおさめて置き、一定の期間が過ぎれば集落に下げ渡すとの条件付きで管理を委託させたのが当たっている。盗みを働かずとも貰えるならば、危険を冒す必要もない。


 戦は兵站、日ごろから島が口にしていた意味を身を以て知る。


「将軍、先行している部隊が永安での交戦を確認しました!」


「南蛮兵はどうしている」


 押し込まれているならば永安での戦いに駆け付けなければならない。そうでないならば兵を走らせる真似はしたくなかった。


「城外に盛り土の塞を築き、戦線の一角を確保しております!」


「ふむ、二万が固まっているわけではなさそうだな、幾ばくか城内へ収容したようだ。ならば簡単には陥落すまい」


 もう一日行軍に費やしても問題ないだろうと方針を定める。


「配置の詳細図を用意しろ」


 周辺地図、軍用のものが手元に在る。距離も正確に縮尺され兵略を練るには必須のものだ。


 伝令のメモを見ながら地図に直接書き込んでいく。


「巫県を前線拠点に使っているな、これを暗夜強襲して落としてしまえば敵は混乱するに違いない」


 永安のすぐ東、長江と漢水の交わる場所にある都市、戦略重要拠点は呉が占領していた。


「三千をこの場に残す、街道を封鎖して輜重部隊を待て。白帝城の北回りで山地を迂回し、巫城の北西に出るぞ」


 自由戦略は思い切りが大切だ。永安を守るだけが全てではない、攻め続けることが出来ないようにさせれば同じ結果を引き寄せることが出来る。


 街道を外れて軍勢が山脈へと向かう、巴へ向けて山地を行くのは無謀すぎるが、このあたりまで来ると河や街があることでも解るようにそこそこ平坦な地があった。


 白帝城の戦闘を南に見てそのまま東へと進み続ける、漢水とぶつかるとそれに沿って暗闇を進む。


「巫城が見えました!」


「かがり火もなく油断しておるわ。我らはこれを奪い取るぞ!」


 三日月が弱弱しく暗闇を照らす、とてもではないが遠くまでは見通せない。


 半分寝ぼけている不寝番が物音に気付いた。どこの味方が夜中にやって来ているのかと思ったところで遅きに失した。


「掛かれ!」


 将軍の号令で万の軍勢が一気に城に取りつくと厳しい攻めを見せる。遅れて城内から敵襲を報せる銅鑼が激しく鳴らされた。


「城門を開け! 本隊を招き入れるんだ!」


 城壁に登った決死隊が門を開け、その場を死守した。数分で軽装の先行隊が駆け込み、その数分後に重装備の歩兵が攻防戦に加わる。


「蜀が卑将軍蘭智意推参! この城貰った!」


 騎馬した百の本営が入城し、大声でそう宣言した。続々となだれ込む軍兵を見て、城の守備兵は反対の門から這う這うの体で逃げ出していくのであった。



「報告いたします!」


 島の本営に伝令が駆けこんできた。差し止めることを禁止したのは島で、伝令の報告は最優先で扱われるようにと命令を出してある。


 何せ報を携えて走って来る段階ですでに旧聞に属しているような内容が殆ど、急いで対処する必要があれば一秒が惜しい。


「漢中以南に魏軍の別働隊が侵入して、郡県が荒らされております!」


「どこか小道を抜けて来たか、それとも伏せていたか。呉将軍をこれへ」


 経緯はどうあれ現実を見るべきだ。


 伝令が駆けこみ、直ぐに呼び出しがあった。内容は半々以上で軍事的対処だろうと心づもりを決めてやって来る。


「呉平南将軍参りました」


 南蛮州別駕の仕事ではない、武人としての礼を取る。


「魏軍が関内で郡県を襲撃していると急報があった。歩兵二万、騎兵千を預ける、籠っている城を巡りこれを解放して回れ」


「御意。内水沿いの巴西が狙われているでしょう、増援に出ます」


 都である成都の西に外水、東に中水と呼ばれる河がある。その更に東にある河を内水と呼んでいた。


 つまりは船で越えない限りは内水が行動限界ということになり、その中での北の拠点が巴西県にあたる。その先の最北端が漢中であり、巴西が敵の手に落ちれば連絡線を喪うことになり前線に糧食が届かなくなる。


「呉将軍の指名を採る」


 広域戦闘が見込まれる為、指揮官の指名を行わせた。呉将軍ならば与えるのではなく、自身ですでに抱えているだろうと。それを追認してやれば済むならばとそうする。


「我が子を中郎将に、劉信を筆頭校尉、高栄、宋材、温衛ら八名を指名いたします」


「よかろう、呉平南中郎将以下を認める」


 十人か! そんなに囲っていたとは、いやはや流石だな。


 指揮官は居るに越したことはない、別に部隊を率いずとも側近として知恵を出させることも出来る。


 本営で腕を組んで座していた孟獲が「派句治射王パクチイオウ!」一人の南蛮王を呼ぶ。


 呉将軍が居る場所の斜め後ろに進み出て孟獲を見る。


「俺の兵を三万預ける、お前はそこの呉将軍の指揮に従え」


「大王のご命令とあれば」


 全く別系統の人物に命を預けろと言われ、一言も文句を言わない。どうしたものかと呉将軍の視線がこちら向いていることに気づく。


「兄弟、申し出は嬉しいが戦となれば死ねと命じることもある、それでも従うんだろうか?」


 従わないなら多数いても邪魔になるだけだ、ここはきっちりと意思を確認しておく必要があるぞ。にしても……パクチー王か、本気ですまんな。


 孟獲は横目でちらっとだけこちら見てから派句治射王に命じる。


「全滅しようと構わん。派句治射王は南蛮の王だ、俺は呉将軍に従えと命令した。これに背けば国に残してきた民全てを惨殺する」


 その目は一切の情を含んでいなかった。大王として君臨する為には絶対の態度が必要になる、孟獲はそう言える権利と外敵から民を守る義務を同時に背負っている。


「だが、見事退けることが出来れば五王を支配下に置く地位に就けてやる」


「必ずや命を遂行してご覧にいれます」


 終ったぞ島、と右手を軽く上げて進行を促す。


 見事すぎるよ、俺には出来るかどうか怪しいものだ。


「呉将軍、南蛮兵を加える。同時に商人からの通訳士を所属させる、併せて指揮せよ」


「望むべくもなく」


 深々と畏まり全てを受け入れた。


 即日五万の兵を率いて進発した呉将軍は、軍を多数に割った。


 さて、出来ることはきっちりとやっている、結果を待つとするか。



《巴西戦線》


「呉平南中郎将、二人の校尉と兵一万を率いて巴西へ急行しこれを援けよ」


「途中防戦中の城があろうと直進いたします!」


 真っ先に一番時間が掛かる場所への部隊を送り出す。今日に至るまでにきっちりと教育を施した、遅れはとるまいと子を信じて重要箇所を預けた。


「派句治射王、蛮兵を二千ずつ十に別け各県城へ派遣し、攻撃する魏軍を見つければこれを側背より攻めさせよ」


「了解した。我らを見て城方に敵と思われはしないだろうか?」


 蛮族の部隊を見て蜀の住民がどう思うか。確かに王の言う通りで、そのままでは難しいこともあるかも知れない。


「南蛮州並びに平南の旗印と劉平南校尉に兵二千を預ける」


「承知。南蛮歩兵より一万を本隊に移す、手足として使って欲しい」


 大王が何を望んでいるか、どうすれば魏軍を退けることが出来るか。自分で指揮するより呉将軍に預けた方が効果的だろうと移譲してしまう。


 南蛮で蛮族相手にも公平、丁寧に接してくれた呉将軍への気持ちでもある。


「済まぬがその命預からせてもらう」


 皇帝や諸葛亮の命令は聞こうとせずとも、島や呉将軍の為ならば彼らも命を張ることを厭わない。それほどまでに双方の頂点が気脈を通じていた。


「内水の先、剣閣、梓潼、剣門山へも隊を派遣する、高校尉、宋校尉、温校尉、それぞれ二千の兵を率いて様子をみて参れ」


「はは!」


 西南西へ進路を取り、部隊が次々と分裂していく。これらを一括して指揮するのは非常に困難だ。


 残りの校尉らに自身の部隊を任せ、派遣された南蛮兵を自ら掌握することに努めた。自身の騎兵千を供回りとしながらも、大将が南蛮兵を傍に置いたのは信頼の証と言えた。


「行くぞ、我らの力を魏軍に見せつけるのだ!」



《遠征軍大本営》


 漢中の蜀軍が打ち減らされ士気が下がっていく。そして街亭に布陣させていた馬参軍から連絡が途絶えた。不審に思った孔明が調べさせると、山頂に陣取り魏軍に包囲されていると言うではないか。


 ――あの愚か者め! 我の指示を何故守らぬか……。


 口惜しい結果だ。昔からそういうきらいはあったが、ここ一番で悪い虫がうずいてしまったとは。孔明が戦争の継続を断念した瞬間である。


「丞相に報告致します。魏将軍の軍勢が破れ、本陣へ向けて敗走中、敵軍がこれを追撃しております!」


 前線に出ている魏将軍、武勇は轟いているが多勢に無勢で苦しい戦いを続けていた。疲労がたまったのか、急襲を受けたのかは不明だがついに破れてしまったようだ。


「むむむ、趙将軍!」


「ここに」


 趙雲、低い身分でずっと格下の武将でしかなったが、ここ最近の蜀の人材難から経験で登って来た実力派の将軍だ。


 後の五虎将軍として有名だが、関羽や張飛らと比べるとかなり地位は低い。同列にされて怒ったというのは事実だろう。


 それでも孔明は重用した、なにせ手駒が全く足らないから。


「兵一万で追撃を食い止めて参れ」


「御意」


 余裕綽々で笑みすら浮かべて出撃命令を受ける。自分が小僧共に負けるわけが無いと言う自負で一杯なのだ。


 実際のところ切った張ったでは負けないだろう。戦場を設定する軍略では是非もないが、戦術級の事柄ならば全く危なげない。


 孔明はそれを小粒だと評したが、口に出すことは生涯なかった。己が軍略をすべて受け持てばよいだけだと考えて。


 ついに蜀軍の崩壊が始まった、涼西地方の民も不穏な動きを見せ出し、漢中城も圧力を受けてたじたじだ。


 どこから堤防が決壊するか、それを注意深く見ていなければ大変なことになりかねない。ここで国を傾けるわけにはいかない、それは劉備と約束した孔明の固い誓いなのだ。


「馬将軍より報告です、楊将軍の懐柔に成功、これより張軍の側背を攻撃するとのことです!」


「おおそうか!」

 ――だがもう押し返せまい。あとはいかに傷を浅く退くか……か。ああ先主よ、我の力が及ばずに何と申し開きをすればよいか。


 目を閉じてかつての主に深く詫びる。己の不甲斐なさゆえに、たった一つの誓いすら果たせず今に至っている。


 度重なる北伐の負担は重く、この先どれだけ支えることが出来るか。


 軍事力の背景無くして外交も出来ず、差は開く一方。内乱を促進させるしか道はない、そう考えていた。


 そこへ息急きかけて伝令がまた舞い込んできた。


「申し上げます! 漢中左の山道より『永』『高』『越峻』の軍が現れ曹軍へ攻撃を始めました!」


「何と!」

 ――介! またしてもそなたの手配であろうな。助かる、これで傷が浅いうちに軍を退く時間が出来た。


 全体を引き下げるためにどうしたらよいかを思案する。漢中城を明け渡すわけにはいかないので、最悪ここに物資を積んで一年籠城させることも見込んで。


 何をどうやりくりしても圧倒的に全てが足りない、それに巴東や関内の情勢も考えなければならなかった。


 たった一人の双肩にあまりにも多くの重荷が圧し掛かる、それでも弱音を吐くことも出来ず、諦めもせず必死にやって来た。


「我もそろそろ限界やも知れぬな……」


 ついポロリとこぼしてしまった言葉、出してはならない一言。頂点が折れるまでは集団に負けは無い、それなのにだ。


 気づいてはっとするが、幸い傍には誰も居なかった。急に胸が締め付けられるような痛みが走る。


「むむむ!」

 ――心の臓が悲鳴をあげおる、だがまだ持ってくれ! 軍を退くまでで良い、ここで我が倒れるわけにはゆかぬのだ!


 冷や汗を垂らして痛みを堪える、暫くするとようやく収まって来た。だが呼吸が苦しい、休めば治ると言い聞かせて軍を離れようとはしない。


 ドタドタと足音が聞こえる、伝令がやって来たのだ。汗を拭いて平気な顔を装い待ち受ける。


 ――今度は呉がなだれ込んできたとでも聞かされるものか。


 なんの手当も出来ずに冷将軍に任せきりだった、そろそろ陥落して撤退していると聞かされてもおかしくない時期だ。


「丞相へ申し上げます! 巫城を蘭智意将軍が占拠しました!」


「なんだと!」

 ――蘭智意といえば介が推挙してきた将軍であるな。しかしどうして巫城を獲ることが出来たのだ……まあよい、これで補給を断つことが出来る。


 長江があるので干上がることはないだろうが、陸路を使えなくなったのは呉軍としても厳しい情勢になっただろうと頷く。


 なによりも永安が陥落していないから伝令がやってこられたのだ、それだけでも福音だった。


 そこへ別の伝令が駆けこんできた。


「伝令! 伝令!」


 腰に差しているのは同じく巴東の所属である識別、何があったのかを促す。


「長江に浮かぶ呉の軍船が大破炎上しております!」


「どういうことだ」


 船が燃えることはあるが、そのような精強な軍船を配備したことはない。精々小舟が取り付いて乗り込む程度のもの。蜀の水軍など子供だましもよいところなのだ。


「上流より丸太を多数流し軍船を破壊し、油を浮かべ火を放った模様!」


 誰の仕業か最早疑いようも無い、目を閉じてその混乱ぶりを想像する。


「退路を断たれた呉軍に対し、永安軍、南蛮歩兵が同時に襲い掛かり、長江は死体が多数浮かぶ死の河になっております!」


「あい解った、そなたらは休むが好い」

 ――これで東の不安は無くなった、我が同盟者よ感謝する。あなたはどこまでも実直な人だ。


 それだけの軍勢を自由に使えるならば、成都を急襲して簒奪をすることすら容易だっただろう。


 その後に魏に降れば巨大な見返りが期待できる。しなかったのは島の意思が別の方向に向いているからだ。


 そこからまた時間が過ぎて、関内からの急報が駆け込んできた。


「魏軍による包囲を受けていた巴西城が、呉平南軍に解放されました!」


「魏軍はどうした」


 孤軍奮闘していた城が助かった、これだけでも充分過ぎたが敵を逃しては別の場所で圧迫を受ける。


「別の城へ向かったところ、南蛮歩兵の守備隊と交戦中、呉将軍の本隊と衝突し全滅しました!」


「全滅か!」

 ――内水の外側はこれで安心だ。残る危険は西部山脈を越える間道、先だってもこれを迂回され成都を危険に晒してしまった。


 大山脈を横断することは出来ない。西涼地方の北西を大きく迂回することで、異民族が支配する地域から成都への道が開ける。


 行くが最後、戻るのは関内を抜けるしかない。威風堂々とした軍勢には手を出さずとも、敗残兵を見逃すような異民族ではないからだ。


「首都方面の報は何か知らぬか」


「梓潼、剣閣にも呉平南軍の別働隊が駐屯し、敵を防いでいる模様です」


「そうか」

 ――介にはどこまで見えておるのだ。しかし大軍勢、こうも動員出来るとは信じられぬ!


 蜀の本軍より数が多いのではないかとすら思えてしまった。次の日の朝、孔明はこれまでで一番驚くことになる。


「報告します! 漢中東の山道を越えて、『島』『鎮南』『南蛮』『孟獲大王』などの軍旗を掲げた軍勢が現れました。その数、十万以上!」


 ガタ!


「な、なんだと!」

 ――あれだけの軍勢を発しておきながら、本隊が別に十万だと!


 椅子を蹴りつい立ち上がってしまう。撤退を考えていた孔明だが、それが全くの見当違いな状況になってきているのを即座に認めることにした。


24/25/26/27/28


 軍勢を東の山道から迂回させておき、本営は漢中城に真っすぐ入城した。


 驚きの軍旗を翻し、馬ではなく象の背に乗りやって来たのに兵らが目を丸くして凝視する。


「やはり馬より見晴らしが良いな!」


 機敏な動きは出来ないが、司令官はそれを求められん。


 象の背に篭を固定して、象使い一人と護衛兼の秘書官でもある李家の三男坊を傍に置いていた。

 腕前の程は未知数ではあったが、一族の忠誠心は誰よりも強く捧げられているからだ。


 たとえ身代わりで死ぬことになろうとも、彼ならば何の躊躇いもなく挺身すると信じている。


 だからこそ俺も厚く優遇した。中県にも守備隊を置き、後方司令部を設置、李長老に現地での交通整理の権限を与え俸禄を認めていた。


 きっと一族の隆盛、先祖をどこまで遡っても今より上はないだろうな。


「南蛮には象だけでなく、虎に乗る部族も居るぞ。熊を使役する奴らもな!」


 同じく象に乗ってご機嫌な孟獲大王だ。


 『島』と『孟獲大王』の軍旗は横並びで上下の別が付けられていない。それが南蛮の軍勢の士気を上げている。


 城内から漢中太守が出て皆を迎えた。


 ここには諸葛亮の丞相府が臨時で移設されているが、張裔が留守を預かる長吏として諸事を司っている。

 射声校尉も履いていて、軍政両方の責任者を務めることが出来た有能な士だ。


 そんな彼を太守に補任して、正式に権限を持たせたのは道理というものではないだろう。


「島将軍、ようこそおいで下さいました」


 この時代ではすでに老年期に数えられる、五十代後半の武将だ。


 凛とした人柄が好感を持てる、会ったのはこれが初めてだが人となりを表しているかのような顔に微笑を漏らす。


「張太守、少し厄介になる。呼ばれもしていないのに大勢で押しかけて済まん。友人の一大事に間に合ってよかったよ」


 あと五日、いや三日遅ければすべては終わってた。補給でもたついていても、徴兵でしくじっていても、道路事情が悪くても、何か一つの不具合で俺は失敗していたはずだ。


 言葉は優しくてもその裏に秘められた気持ちを張太守も感じた。

 諸葛亮以外にも蜀にこのような人材が居たとはと、己の無知に喝を入れて招き入れる。


「すぐに歓待の宴を用意致します」


 なにはともあれ疲れを癒してからと気を遣う。孟獲は象を降りてから目を合わせる、下駄を預けられ応じた。


「張太守の誘いを蔑ろにするわけではないが、まずは目の前の敵を押し戻してから酒に在りつきたいと思う。悪いが望楼に案内して貰えるだろうか」


 胸を張って己のわがままを通す。張太守は腹の底から「御意!」気持ちの良い返事をして、太守自ら案内役を買って出た。


 城壁を登るとそこに木製の楼が築かれていた。兵士が拳と手のひらを合わせて礼をする。


 それらを横目に楼の二階部分にまで足を運ぶ。


 ついに最前線にやってきたぞ!


 北の地に延々と続く『曹』の軍旗。人の波がうごめいている。


 左手の側、西の山地遠くに微かに『高』の軍旗が見えた。先行させていた高将軍の部隊だ。


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