17
「どなたでしょう?」
若者が出てきて応対する。着の身着のままでこれといったオーラも無い、書生だろうか。
手を合わせて礼をする。
「ここに董先生がいると聞いて立ち寄ったものです。魯真と言います、こちらは妻です」
悪いが偽名を使わせてもらう。見る者が見れば俺が誰か解るらしいが、話もせずにすぐには解るまい。
奥の間に居た四十路の男が出てきて訝し気にこちらを見る。
「私が董遇だ。君は何故ここを訪れたんだね」
おっと、理由を考えなきゃならんな。適当にでっちあげるか。
「先生の名前は聞き及んでおりましたので、この近くを商売で通る時には寄ろうと思いまして」
「ふむ。まあこちらに掛けなさい。これ、茶を淹れて差し上げて」
これまた粗末な机だ。目の前に出された茶も、麦茶を沸かせたようなもので濁っている。
唇を濡らす程度に口をつけて早速本題に入る。
「――先生は学問の道をどのように進むおつもりでしょう」
漠然とした質問を投げかける。ただの商人ではないのがこれでわかるはずだが、その先をどうしたいかで態度が変わるだろう。
董遇は銚華を見てからこちらに視線を移す。
「老子の教えに従い、つつがない余生を送り、静かに天寿を全うするつもりだ」
「武功太守をお受けしていたそうですが」
「かつての曹丞相への御恩を返す為の奉公。だが魏の支配が崩れた今、それに固執することもなくなったのでな」
確か曹操暗殺の嫌疑を受けていたって話だ。手元から離れたら殺されるくらいあるだろうな、それを解って側近の末席として常に同行していた。
転出したのは曹丕が即位してからで、遠ざけられたのと同義か。だがやることはやったので、お互いこれ以上の干渉はしないように隠遁というわけだ。しかしそうは問屋が卸さんぞ。
「もし先生が学問に打ち込める場があったらどうでしょう」
「……なにをいいたいのだね」
「私はある日、兄弟にこう言いました。家族と平和な時間を過ごし、命を繋げるだけの緩やかな時間を与えたい為に戦っていると。平和を維持するために武器をとれども戦うことなく、小さくとも戦乱の無い理想郷を求めて、足りないことを不自由に思わない、そんな未来を目指しています」
これがこの時代にあっていないことなんて百も承知だ、だがソレを求めて何が悪い。
じっと董遇を見詰めて動かない、笑うなら笑えば良いさ。
「君は老子を知っているかね」
「名前だけしか知りません。昔の人で、そんな本もあったくらいしか」
「そうか……先ほどの思想は老子の一部でもある。君のような人物が大身であればと思ったよ」
力なく微笑んだ。決して馬鹿にしているわけでは無い。
肩の力が抜けて、急に年齢を感じさせた。
「実際のところ、先生は学問を広めるお気持ちはありますか?」
「無くは無い、というのが正しいのだろうな。気持ちだけではどうにも出来んよ。武功には幾らか教え子がいたが、一人しかついては来なかった」
その一人もアレでは先が見えんわけだ。
「端的に先生の教育方針をお教え頂きたい」
「己を磨くのは己。師に問う前に考え、書より学べ。努力に優るものなし」
報われないのは見て貰えていないからだ。それはどの階層でもあるってことを知ってもらいたい。
「私もそう考えますが一つだけ」
何だね、って顔が言っているな。言葉がなくても通じるもんだ。
「書より学び、考えたことを知っていてやって欲しい。努力を認めてやって欲しい。上に立つ者はそれぞれの働きを見てやるのが大切だと考えています」
大真面目にそう断言してやる。口を出すことはなくても、知っていてやる、見ていてやる。
「……そう、なのかもしれんな。私は自分の中に籠り過ぎていたか」
人生晩年を迎えて少しは思う節があったようだな。そうえいばこいつより実はこの世界では俺の方が年上だってのはどうなんだ?
「いかがでしょう、私が学舎を設立して先生がそこで博士になられませんか?」
「博士に? 見てわかるように、私には何の蓄えもないので職位を買うことは出来んよ」
官職が売買されていたのは事実だ、こういう話に警戒するのは当たり前なんだろうきっと。
首を左右に振り「そのような心配は不要です。教鞭をとって頂けるなら、私が全てを用意させていただきます」笑いもせずに請け負う。
「ふむ。隗より始めよ、というわけか。良かろう、こうまで言われて断る程の器ではないのでな」
「ありがとう御座います。三日後に迎えを寄越しますので、その者にお任せ下さい」
よし、まずは一人だ! 細かい性格は解らんが、教育方針としては俺好みだ。
支度金くらいは置いていくとしよう。
懐から銀貨を数枚取り出して目の前に置く。
「お時間を頂いたお礼です。後程またお会いしましょう」
一礼して庵を出る。外では李従事が起立で待っていた。
別に座って休んでいてよかったんだが、これもまたこいつの方針ってことなんだろうな。
「待たせたな。戻るぞ」
「はい、旦那様」
一行を引き連れて咸陽を出る。長安西門を騎乗で通ろうとすると、門衛が矛を脇に抱えたまま手のひらと拳をあてて礼をした。
長安じゃ俺も有名人だな、人を探すならここ以外でやるとしよう。
◇
三日の後に呂軍師を迎えに出した。董遇は装いをみて大層驚いたらしいが、呂軍師は落ち着いていたそうだ。
このあたりに人間としての適性部分が垣間見えるよ。どちらが優れているというわけでは無いがね。
内城に董遇が登って来る、例の書生を一人だけ伴ってだ。
絨毯の真ん中を進んで来ると、長い着物の袖で隠れた手を胸の前で合わせて礼をする。
「弘農の住民で董遇と申します」
「良く来てくださいました、董遇先生。申し遅れましたが、島右将軍です」
椅子を立ち、段から降りて行くと目の前にまで歩む。
これは儀式の一つだ、ばかばかしくても権威を保つためには必要なことだ。
「お噂はかねがね。いまや蜀で飛ぶ鳥を落とす勢いの大人」
心底そう思っているかは別として、仕官するつもりはあるようでなによりだ。
「無骨な武人でしかありません。知恵が足らない私に、どうか教えを説いては頂けないでしょうか」
「私のような小人で宜しければ、何なりとお申し付けくださいませ」
台本の読み合わせをするかのようなやり取り。ここまでは董遇も想定通りだろうな。
「それでは印綬をお受け取り下さい。これ」
取り扱い係の者に持ってこさせる。お盆に載せられた印は三つ、銀印青綬で比二千石の大官だ。右将軍は一万石が俸給だが、中県の三万石が追加収入になっている。
俺のは非常に珍しい組み合わせと言われた。銀印紫綬、つまりは大臣級の官職だってのに上公らが使う紫綬を許されてる。
完全に孔明先生の贔屓でしかないが、有事に後方で総司令官の代理じみたことを勝手にやっていたのを暗に追認した形ってことだ。
「こ、これは――」
「右将軍後軍師雍州文学従事中博士の印綬です。先生、何卒後進の育成にお力添えをお願いいたします」
「何故……とは問いますまい。先が長いとは言えない残りの人生を学問に捧げたく思います」
退出していく董遇の背が見えなくなると、隣の呂凱に視線を向けた。
「数年の後、長安の学府が栄えているでしょう」
「州の予算から学舎に関わる奴らが、勉学に専念出来るだけのものを手当てさせておけ」
「御意。丞を置いて経理や運営一切を取仕切らせるのが宜しいかと存じます」
文学従事が六百石か、丞なら四百石になるが出来れば上の官を任じたいな。
「それだが、雍州主計従事を設置させて六百石の官にしたい。教導権限は与えずにだ」
「ご所望の通りに」
思い付きを実現させて執務を終了させる。上手くいくにしても結果はかなり先だな、まあいいさ。
「そう言えば呉将軍から文が来ていた。呂軍師の息子は立派な武将だってな」
本当だぞ、親に似てって部分は伏せておこう、反応しづらくなるからな。
「愚息がご迷惑をお掛けしないことを祈るのみです」
目を閉じて畏まる。そう遜ることもないってのに、性分だな。これで敵相手には断固たる態度をとるんだから頼りになる。
「都尉ってことだったが、俺から官位を贈りたいがどうだろうか」
「ご随意に」
ふむ、あくまで俺の意思を尊重するってか。どうしたもんかね、あまり高位の物を贈るわけにはいかないし、低位では意味が無い。
「卑将軍号を贈ろう。呉鎮軍将軍の補佐をするように要請してな」
いずれ郡から切り離して使いたいが、数年はそのままにしておこう。何かあれば外へ出られるような準備だけはするだろう、なにせこいつの息子だからな。
雑談をしているところに伝令がやって来る。だが赤の旗を差してない、呂軍師の目の前に来ると片膝をついて報告する。
ふむ、独自のネットワークを持った訳か。
「報告いたします。北地の水寿に山賊が現れ、地域を荒らしております」
長安の北西数十キロってあたりだったかな。まあ山賊程度放っておけば良かろう。
「山賊と言うが実のところは魏軍の残党。某が赴き討伐して参りましょう」
「残党? どんな奴なんだ」
逃げ遅れたってならしっかりと刈り取っておかなきゃならんぞ。
「并州の赫昭将軍です。生粋の武人で西涼地方で武勇が轟いておりましたが、魏軍が撤退する際に居残り単独で抵抗を続けているものです」
単独でか、ゲリラ戦の適性があるんだろうか。
「詳しく知りたい」
「はっ。并州太原郡の生まれで曹操に仕えて雑号将軍になり、西平地方の反乱に際して魏軍ならびに武威の異民族と共同して反乱を鎮めたことが御座います。少数の手勢での攻防、特に防戦が得意の様子」
「思想は」
前のめりになり姿を想像する。どんなやつかと興味が高まる。
「勇壮で国家への忠誠が強い人物のようです」
「そうか」
生粋の武人か。そういうのでも雑号将軍ってわけだ。とはいえ魏の雑号は多岐に渡る、何かしらの想いがあってのものだったんだろうな。
「会ってみたくなった、俺も行く」
「御意。赫昭の手勢は千人前後です」
「李別部司馬、行くぞ」
「はい、ご領主様」
李項ではなく、李信に声を掛けた。李項将軍はついてくる必要が無いという意思表示で、留守にする長安を護るのが役目になる。
親衛隊五百を共にして城を出た。呂将軍は自らの手勢五千を率いて親衛隊を囲んで街道を行く。
「この兵は?」
見かけない軍装の兵だ、新兵だろうか?
「雍州各地からの招集兵です、州軍の訓練代わりと思いまして」
質は良いとは言えないな、目つきは悪いし体力もなさそうだ。だが治安維持には数が必要になるからな。
州軍の司令官は俺だ、州牧ってやつだからな。別駕の呂将軍が兵を動かすのは道理か。
「指揮官はどいつだ」
「現地の士から互選で採用しております。孫発司馬が主将です」
指さす先を見ると、装いが他とは違う甲冑部将が居た。
あいつか、顔つきがどうにも気に入らんが黙って見てるとするか。
北地郡に足を踏み入れる。水寿の山岳地帯に近づくと、地元の郡兵が孫司馬に駆けよって来る。
「あの山の向こうに賊が屯してます、どうか討伐して下さい」
魏軍に徴兵されて満足な自衛能力も無いんだ、そういう要請があるのは仕方ないか。
「ふん、任せておけ。俺が成敗してやる、案内しろ」
親衛隊は我関せずで周囲の警戒をする、もし州軍が裏切って襲ってきても主を守り離脱するとの気構えで。
北地軍の先導で山道を進むと、頂上に近いところで向こう側の麓にいる軍兵の姿が見えた。
「回り込んで退路を塞ぐんだ」
側近というよりは手下との言葉が似あうなアレは。顔に切り傷があって、ほつれた髪を振り乱して一隊を連れて走っていく様を見詰める。
小一時間も過ぎたあたりで山向こうでキラキラと光るのが目に入った。
到着の合図だな。
「よし、賊を取り囲んで全滅させるぞ!」
五倍の兵力だ、ほっといても上手くやるだろう。
山を下って行くと、敵に気づかれる。慌ただしく戦闘の準備が行われていた。
無遠慮に直進して真っ向衝突した、だが戦っているのは接触している前衛だけ。
遊兵が多いぞ、下手な指揮だ。
「賊を取り囲め!」
大声でそう命じると、左右に兵力が延びていく。同時に後方から迂回した部隊が現れ襲い掛かった。
ふむ、だが詰めが甘いな。
「蜀の防備が薄くなった、一気に本陣を叩くぞ!」
囲まれている赫軍が孫司馬の本部へ一直線足早に進んできたのだ。
腕前も違えば勢いも気合も違う。あっという間に孫司馬まで武器を取って交戦する有様になってしまう。
赫昭将軍か、戦闘のキレは流石と言ったところだ。
「気に入らんがアレも蜀の武官だ、助けてやれ」
「御意。某が指揮を」
呂軍師が百人ほどの供回りと渦中へ進む。
囲んでいる兵から半数を引き抜いて本隊に組み替えると、赫軍を真っ二つに分断するために包囲軍を使った。
自らは赫将軍一人に狙いを定めて突撃部隊を二百人単位で作り出して、順次投入する。
徐々に防備が削れていき数の優位がはっきりと見て取れるようになる。
危なげない運用だ、雑魚など逃がしても構わん、重要なのは司令官だ。
「もう少し近くで観戦する」
そういって馬を寄せる。必死になって矛で歩兵をなぎ倒している赫将軍、息が上がって退路を探しているように見えた。
とは言えどこにも逃れることは出来んだろうな。
一時間も攻め続けると、ついに矛を取り落としてしまい仲間と背を合わせてギリギリの抗戦へと移り変わる。
先ほどしてやられた孫司馬がいきり立って攻撃を加えた。
「一人も生かして逃すな!」
円陣が小さくなっていき、軍兵が負傷者ばかりになるも諦めずに剣を振るい続ける。
なんたる敢闘精神。これを死なせるのは惜しい!
馬を進ませる、呂軍師の脇を通り抜けて囲みのすぐ傍にまで出た。
「赫将軍、もう充分だ、降伏するんだ!」
魏兵だけでなく、州軍もこちらを見ている。全滅まであとわずかだと言うのにどうして止めるんだと言う雰囲気が漂っていた。
「少数で抗い無駄死にをするな!」
赫将軍が進み出て声を上げる。
「私は魏国の恩義を多大に受けた身、一門も栄えるようになった。何も言わずに死を覚悟するのみ、攻撃されよ!」
敵に降らず、仲間を見捨てず、最後まで戦い抜く!
俺はこいつを殺したくない、だがどうしたら。
「そんな少人数で膝も震えてるってのに格好つけんなよ! さっさと跪いて命乞いでもしろよ、はっはっはっはっは!」
州兵がそろって笑う。魏兵の表情が険しくなった。
「私は降伏など―ー」
「笑うな!」
赫将軍が憤慨して抗議する前に俺が叫んだ。
「刀折れ、矢尽きて、尚それでも心を震わせ戦った者を笑うな! もしこれ以上笑うようなら、俺を侮辱しているものとみなしてそのそっ首叩き落すぞ!」
馬を進ませて輪を割り赫将軍のすぐ傍にまで行く。
全身傷だらけ、右手も剣を握って固まってしまっている。返り血と汗と土埃でこれ以上ない位の荒れっぷりだな。
「私は蜀の島右将軍だ。赫将軍、貴殿は孤軍奮闘し充分魏軍の強さを知らしめた。このあたりで武器を収めて欲しい」
馬上から胸を張り瞳を覗き込む。尊敬するよ、己の正義を貫き通した男だ。
「……降伏はしかねる」
「一時休戦しよう。武器は取り上げぬし、将軍の指揮権もそのまま。長安の我が屋敷へ招かれてはくれないだろうか? 手出しをしないと私が約束する」
魏軍の兵士が左右と顔を見合わせてどうなっているのかと困惑していた。
一喝された州兵は呂軍師を見るが、涼しい顔で黙っているので何ともいない。
「そういうことならば、魏国雑号将軍として赫昭が招きに応じさせていただく」
「うむ。泥陽城に寄り手当てをして後に長安へ行こうか。白旗と軍旗を並列させて掲げよ!」
いいなこういうのは。孫司馬の処置は呂軍師がするだろう、忘れてしまえ。
戻ったらあいつらがどんな顔をするやら、少し楽しみだな。
◇
幾ばくかの時が流れ、赫昭らとの別れの時がやって来た。
函谷関の東門、そこを堂々と潜って二百程の集団が魏軍の旗を掲げて通過する。
門を出て少し離れたところで騎馬した武将が振り向くと、両手を合わせて馬上から礼をした。
赫昭将軍、話せば話す程気持ちの良い奴だった。
「赫将軍、俺は貴公を友人だと思っている。たとえ敵味方になろうとその気持ちに変わりはない」
兄弟とはまた違った感覚で、とても清々しい気分になれたからな。
「戦場で会うこともありましょうが、その時までは友誼を」
「それは違うな。刃を合わせることが有ろうと、気持ちに変わりは無い」
戦うことになろうと、互いに命を奪い合うことになろうと、友人なことは同じだ。
「……島将軍に感謝を」
もう一度礼をして一行は東へと歩みを進めていった。
これが今生の別れというわけでも無かろう。
「ふむ。長安へ戻るぞ」
護衛部隊を率いてゆっくりと街道を西へと行く。
雪解けしてもこのあたりはまだ寒いな。防寒着は必要ないが、空気が乾いてるんだろうか?
左右の幅が狭くなっている箇所を通り抜け、右手に河を確かめつつ歩む。
土の匂いがする、畑おこしの作業だな。農耕馬がチラホラみられるが、どうにも体格が悪い。
「清南城にでも寄っていくか」
適当に近くの城に入る、雍州の軍旗を持っていたものだから城門で止められることも無く中へ入った。
住民の視線が集まった。だがどうにも刺すように冷たい。
ん、なんだ?
「李封、どうにも様子がおかしい。少し調べてこい」
「御意」
十人程を連れて城内を進んでいく、その間護衛隊は周囲を警戒して待機した。
怨嗟の視線のような気がするが、清南軍の兵を大量に倒してしまったのかもしれんな。
ややすると李封が戻って来る。
「申し上げます。当地の県令が酷吏のようで、住民が官を嫌っております。魏国の支配時の方がましだと考えて、蜀の支配を拒んでいるように思われます」
甘やかす必要は無いが、恨まれるまで締め付ける必要も無いぞ。
州軍を見てあの顔だ、相当なものだろうな。
「俺が直接口を挟むと逃げ場が無くなるか。長安へ戻り次第、各地に監察官を送ることにする」
こういうことがあるから多数の監察官の席次があったか。南蛮では気にしたことが無かったが、雍州では要注意ってところだな。
この場に留まるのは良くなさそうだ。
「城を出て長安まで直ぐに戻るぞ」
駆ければ日暮れまでにはたどり着ける、どこかで一泊しようと思ったがそういう気分じゃなくなった。
見送りの為に来ただけだったので、供は千人だけ。だけというには多いが、戦時の総司令官がふらふら出回るのに少ないのは事実だ。
長安の東門を潜ると、そこで伝令が待っていた。
「島将軍、丞相の使者が参っております。すぐに城へお戻りください」
「孔明先生の? わかった」
成都で何か起きたのか、それとも何も起こらず過ぎたから次へってところかもな。
大本営は仕置きを終えて漢中を通過して首都へと引き上げていった。
俺が籠っている間に成都でひと悶着あった、向歩兵校尉らに兵を預けて置いて本当に良かったよ。
クーデターが成功していたら、野戦どころの話じゃ無かったからな。
そういうこともあって、俺が第一戦功を得たわけだが、政務じゃなんの手助けも出来ていない。
着替えもせずに執務室へと急いで戻る。すると白い衣を身にまとった青年が待っていた。
「お帰りなさいませ将軍」
「おお使者とは馬謖だったか」
こいつを送って来るってことは込み入った話なんだろうな。
丁寧に礼をしてくる。街亭で助けられたのが俺の指図だったと耳にしたんだろうな、こいつも目上を認めた奴には案外素直なところがあるようだ。
「はい。丞相より言伝が御座います」
魏を攻める準備の為に、呉国との和睦に外敵との共同が成ったのか。
「聞かせて貰おう」
「はい。皇帝陛下は此度の戦の勝利を以てして、呉国との修好を結ばれることをお決めになりました。いずれ許都で両軍落ちあおうと」
版図の拡大を狙った戦争をするってことだな。このまま函谷関と巴を維持していれば、蜀という国は保てるんだがな。
呉は長江を越えての戦争になる、防衛ラインの攻略が最初にして最大の難関だ。
「して、俺に何を求めているんだろう」
「丞相は島将軍に国内の治安を維持するか、魏国に攻め入るかのいずれかを任せたいと」
「うむ!」
出来ることなら引き受けてやりたいが、俺などで良いものか?
「魏延将軍はどうだ」
「全軍を取仕切ること能わず、司令官の一人として侵攻軍に連なる予定です」
「では趙雲将軍は」
「趙将軍では官職が低く、とても全軍を指揮するわけには参りません」
「陳到将軍、馬岱将軍が」
「それらも全て島将軍より下位に御座いますれば」
他には誰か居なかったか? ん?
思い出そうとして首を捻るがこれといった名前が思い出せない。
「島将軍は今や蜀国の武官で頂点を極めております。外征に出るならば丞相が留守を、逆もまた然り」
いつのまにか全員追い越しちまってたか! うーん、遠征軍総司令官か。
俺はどうあれば孔明先生の役に立てるんだろう。陣屋に籠って戦争を指揮するのも、後方で国を固めるのも出来るんだろうが、体のことを考えればやはり首都に居て貰うべきなんだろうな。
「解った、俺が魏を攻める。孔明先生は首都で国家の礎を築くようにと」
「きっとそう仰ると思っておりました。侵攻の際には北の異民族を動かすので、北部よりの魏軍増援を想定せずとも良いそうです」
やはり工作をしていたか。これで呉国も攻め込んでくれるようなら或いは。
「偵察や調略が必要になる。手抜きをするわけではないが、半年やそこらではおぼつかん」
「来年の春から夏に軍を興す線では?」
準備に丸々一年か。こちらが増強されると同時に、あちらもだからな。
兵の訓練に一年あれば充分か。許都はそう遠くない、魏の端から端まで調査することもないからな。
「政変が起きない限りはそれで行く」
「承知致しました。物資の堆積だけは直ぐに始めます、私が輸送の責任者として指名を受けております」
こいつは輸送任務を甘く見て居ることはないだろうな?
失敗は戦闘でだけだったか、戦略を論じるのは得意だって聞いたが。
こいつに決定権を持たせるのは良くない気がして来たぞ!
「それだが配置換え出来ないだろか」
「私では不満と?」
不審がるのは当然だよな。こういうときこそ栄転なる愉快な言葉を使うべきだと思うよ。
「いやそうではない。馬謖には俺の傍で魏国攻略の助言をして欲しい、輸送任務は別の者でも出来るが、助言するのは人を選ぶからな」
途中から目が輝いたのを見逃しはしないぞ。こいつは目立ちたいだけなんだな、だが補佐としては非常に有能なんだ。
「そういうことでしたら是非とも。では輸送任務には誰を?」
「こういう細やかな作業は、呂軍師が得意でね。南蛮からの流通経路も同時に管理させようと思う」
物資の多くは南蛮から遥々輸送することになるだろうからな、話が見えない奴だと往生する。しかも困るのは巡り巡って俺だ。
「呂将軍ならばうってつけかと。それでは一度首都に戻り、丞相に報告して後に再度伺います」
機嫌を良くして馬謖は長安を去って行った。余程認められるのが好きらしく、はためにも良いことがあったんだろうなと解る位だ。
しかし、魏への侵攻か、上手く行くとは考えられんぞ。仮に十全の準備で挑んでも国力の違いからこちらは半分以下の力しかないからな。




