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 右手にも山脈があり、そちらは南蛮の軍勢が山越えの最中で、あと数時間といったところ。


「さあ兄弟、これから面白くなるぞ」


 真剣に戦場を見回し未来を夢想する。軍勢指揮の間違いは許されない、一言で何千の死傷者が余計に生まれてしまう。


「右手の河、あれが邪魔だな」


 長江の支流である漢水が東西に走っている。城の少し北を通っているので、対岸に魏軍が多数陣取っていた。


 橋が架かっている場所はすでに魏軍の関所が設置されていて、前後は厚い防御がめぐらされている。


 渡河するのは至難の業だな。浮き橋を設置することが出来るとしても、橋頭保を確保するのにどれだけ犠牲が出るか……か。


 重装備ではそもそも渡河出来ない、軽装備では突破しても確保が出来ない。馬があれば河を渡って歩兵を蹴散らすことが出来たが、多くを別に割いてしまっているので数を揃えることが出来ない。


 無傷で済ませるつもりは無いが、十倍する血を流すつもりも無い。


「河向こうの一角だけでも確保出来れば、一時的で良い」


 二時間あれば浮き橋をを設置して対岸に兵を送れる。重装兵を押し込めば橋は守り切れるはずだ。


 一点を見詰めて唸る、どうしても歩兵では上手く行かないのだ。


 隣で見ている張太守はどうすることもできない、城を守ることで精一杯だったから。


 だがここにはもう一人居た。目を細めて何を考えているかを読み呼びかける。


「日の出から、南中するまでの間で足りるか」


 腕組をしたまま身動きせずに編成を脳内で組み上げる。お互いにだ。


「充分だ、それで出来ないようならここまで来た意味が無い」


 望楼に緊張した空気が張り詰める、そして孟獲大王が指名して部下を呼び寄せた。


「水角洞・亜麺暴王! お前の一族に藤兵をつける、明日の日の出から真昼まで河向こうの一カ所を支配しろ!」


「解りました大王、お任せください!」


 力強い返答を受けて孟獲大王が頷く。願っても得られない支援を受けられる、俺も出来ませんでしたでは済まされないぞ!


「助かる兄弟、これで渡河は約束されたも同然だ」


「俺とお前で倒せん奴など無い。さっさと終わらせて酒を飲み明かすぞ」


 

 朝もやの中、準備を整えて軍勢の一部がこっそりと城を抜け出す。


 その表現が正しいかはともかくとして、数千の兵が漢中東の細い山道を抜けて漢水の南岸ギリギリまで進んだ。


 もっと東の山を抜けた南蛮の軍勢も早めに米を炊き出し、戦闘に備えている。


「そろそろ夜が明けるな」


 孟獲大王が豪奢な椅子を望楼に設置させ、そこから城外を見ていた。といっても真っ暗でぽつりぽつりあるかがり火位しか判別できない。


「ああ、俺達の反撃の始まりだ」


 戦機は訪れる、その時は城を出て俺も戦うぞ!


 親衛隊はいつでも出撃可能な武装待機をしている。各軍勢も陽が登れば順次起床して装備を整える手筈になっていた。


 夜目が効く奴らが数人で水中を渡り、太い縄を引いて目印を取り付ける。戦いに没頭すると居所が俄かに解らなくなるもので、そういった目印が近くにあると助かる。


 城を見て位置を把握するのは上級指揮者だけ、殆どは目の端で手近な何かを確認するものなのだ。


 東の端から橙色の光が見えて来た。夜明けだ。


 言葉も無く始まる。水中を自由に動き回れる水角洞の一族が素肌に布一枚で、手槍を持って次々と漢水に身を投じる。


 河といっても日本のそれと幅が違う。狭いところでも五百メートル以上、一番幅が広い城の東側は一キロもあった。


 草むらの奥から小舟が持ち出され、次々と河に浮かべられる。それに乗るのは鎮南軍の歩兵だ。


「ん、なんだアレは。鎧を着たまま河に入っているぞ」


 何故水没しないんだ?


 南蛮の軍勢に入水自殺志願者が居るのかとすら思った。ところが千程の歩兵は、装備そのままに次々河に踏み入れている。


 そいつらが何故か沈まずに立ったまま肩まで水に浸かって、そのまま浮いているのだ。


「あれは南蛮の諸部族で、藤兵だ」


「藤兵、確かそんな名を言っていたな」


 昨日、亜麺暴王につけた兵の名がそうだったのを覚えていた。しかしどうにも答えに直結しない。


「あの鎧は水に浮く植物で出来ている、河を渡る位文字通り朝飯前よ!」


 ガハハハハと気持ちよく笑う。


 水に浮く鎧か。防御力に難ありってところか。だが渡河出来る歩兵が千増えるのは大きいな!


「敵だ! 蜀軍が攻めて来たぞ!」


 河を渡って来る小舟を見つけた魏の兵が大声で叫ぶと、あちこちで銅鑼が鳴り響いた。奇襲とはいかないが、半ば近くまで河を渡れたのは闇夜のせいだろうか。


 空が明るい、地上もそれなりに見通せるようになると、魏軍は驚く。


 まさか一番幅がある個所を渡ってこようとするとは思うまいよ。


「軍略の第一歩は相手が思いつかないようなことをして攻める、だな」


「先頭が岸にたどり着いた。亜麺暴王の直卒部隊だ」


 きっと全滅する寸前まで打ち減らされるだろう決死隊、しかと見届ける義務が二人にはある。


 手槍を振り回して岸に並べられている木柵を縛っている縄を切って回る。連結が解けた柵は引っ張っていき河に流してしまう。


「槍兵集合! 蜀軍を河に叩き落せ!」


 敵の部将が声を上げて指揮する。まだ小さい集団が個別に動いているにすぎないが、徐々に規則正しくなっていく。


「弓兵、河の上の蜀軍を射殺せ!」


 空へ向けて一斉に矢が放たれる。狙っているわけでは無い、同時に大体の範囲に撃つことが重要なのだ。


 小舟に乗っている歩兵に次々と被害が出る。ところが河に浮いている藤兵は、陣笠を斜めにして盾の様に身を庇って難を逃れた。


 命中した矢は乾いた音をたてて次々と弾かれているではないか。


「笠が矢を防いでいる?」


 帽子程度と思っていたので腰を浮かせて様子をじっと見てしまう。


 孟獲大王が面白そうに説明を加えた。


「藤甲は矢も槍も通さんほど固い。あの程度では傷もつかんよ。ガハハハハ!」


 言うように藤兵は誰一人脱落することなく、少しずつ向こう岸に近づいていく。


 軽い上に硬度もあるってのか? そいつは凄いぞ!


 それなのに全員に装備させない、理由はどこかしらあるのだろう。今はそんなことは後回しにして全体の状況を読む。


 第二陣の小舟が岸を離れたところだ。今度は数が少ないが騎馬も続く。


 岸のギリギリまで弓兵が出ているが、向こう岸には全く届かないので待機しているだけ。


 後続が移動している間も亜麺暴王は小さいながらも陸地を占めて奮戦中だ。


 何とか防備を切り崩してはみたものの、次々と一族が死んでいく。それでも最前線で己の命を懸けて指揮を執り続ける。


 済まん、他国の侵略戦争の為に!


 椅子のひじ掛けに置かれている手に力が入った。目の端でそれを見た孟獲大王は何も言わずにどっしりと構えたまま。


 藤兵の先頭が岸に上陸する。槍を構えて土壁を乗り越えた。


 五人集まると水角洞の兵の脇を抜けて最前線に躍り出る。


「新手だ、追い返せ!」


 魏軍指揮官が手にした剣を前に向けて大声で命令した。


 穂先を並べて魏兵が藤兵に襲い掛かる。鋭い槍の先が藤兵の腹に複数突き立てられた。


 くそ、多勢に無勢か!


 だが結果は予想を裏切ることになる。穂先が折れると、何事も無かったかのように藤兵が反撃し、魏兵の喉元を貫く。


 上半身だけでなく、手甲も、脚も全て覆っているので隙が無い。


「あの装甲はそこまでか!」

 

 凄い防御力だぞ!


 上陸した藤兵が次々と戦線に参加していく。自らも負傷した亜麺暴王だったが、その場に留まり指揮を執り続ける。


 手前岸で浮き橋の準備をする合図が送られてきた。


「亜麺暴王は為すべきことをなした、それだけだ」


 渡河戦の前半戦は蜀軍の優勢に傾いた。戦はそのまま後半戦へと移り変わる。


「浮き橋が動き出したな」


 連結が上手く行くかはやってみなきゃわからん!


 小舟で蜀の歩兵を送り続けるが、弓矢による被害が馬鹿にならない。だからと止めるわけにもいかずに根気強く渡河を続ける。


 対岸は藤兵を最前線に置き、水角洞の水兵が必死に橋頭保を死守している最中だ。


「母于夫羅王を出すように命じろ!」


 亜麺暴王と同じく水角洞の一つを束ねる南蛮王を指名する。手前岸で待機している不思議な紋様の軍旗を翻している集団が忙しそうに準備を始めた。


 太陽はまだ低い、朝食と昼食の間位だろうか。


 例の水に浮く鎧、藤甲を身にまとった兵が五百程集まり河を渡り始める。


「先に渡ったのとは別物?」


「隣の部族、軽甲兵だ。身軽さが売りだな」


 それだけでないというのは集団を見るとはっきりする。人間以外にも何か獣が固まって泳いでいる。


 あれは虎か!


 猛獣使いを含んでいるようで、オレンジの縞模様がすいすいと泳いでいく。


 二十頭は居る。あんなのがやってきたら落ち着いて戦いなどしていられないだろう。


 太い縄に沿って浮き橋が引かれる、火矢が飛んでこようと魏兵が小舟でやってこようと一心不乱に架橋作業に従事している。


 手前から中央まではがっちりと浮き橋が繋がった。


「向こう岸は邪魔が多いからな!」


「なに、直ぐに橋はかかる」


 余裕の一言。孟獲大王はずっしりと腰を据えたまま遠くを見ている。


 浮き橋の上に軽甲兵がよじ登り、火矢を叩き折る。盾を使って作業している兵を守るのも忘れない。


 小舟で襲い掛かって来る魏兵には、虎を差し向けた。水中を泳いでいき、小舟のすぐ隣で浮上して吠えると驚いて転覆するのが多数出て来る。


 あんなのに突然吠えられたら俺でもひっくり返るぞ!


 対岸まであと少し、橋が架かるのは時間の問題だ。


 残りの三百程を率いて母于夫羅王が上陸する。


「者ども掛かれ!」


 戦線を構築している藤兵の脇をすり抜け、魏兵の集団にバラバラに突入していく。二十人前後が弓兵の居るところへたどり着くと、腰の後ろに括り付けていた袋を手にして口を開けてあちこちに放る。


「ど、毒蛇だ!」


 にょろにょろと足元を茶色の蛇がうねりまわる。集中して遠射している場合ではない、大混乱して逃げ回った。


 少しの間、空から矢が降らなくなり連結作業が成功する。


「完成したぞ!」


 よし、これで対岸に兵を送れる!


 待っていましたと、蜀の軽装歩兵が胸甲と兜のみ装備して木製の橋の上を駆けた。


 一列縦隊、途中で矢に当たったものは自発的に河に落ちると、水角洞の兵に助けられ小舟へと乗せられる。


 続々と対岸へ渡ると、藤兵と肩を並べて防御を厚くしていく。


「騎馬兵だ、場所をあけろ!」


 魏の部将が声を張って前線の部隊を引き下げる。すると三百程の騎兵大隊が姿を現し、武将を先頭に突撃をかけて来た。


 歩兵と騎兵では衝撃力に多大な差が生じる。戦列に大穴が空き、半円陣を形成している兵らの背中を騎兵が切って回る。


「くそ、蹂躙される!」


 だからと輪を狭めるわけにはいかんぞ。


 歯噛みして戦況を見詰める、暴れて何とか出来るならあの場に混ざって戦いたいとすら思った。


 複数の小舟に引かれた筏が対岸に辿り着く。山と積んであるのは長刀のような形の武器だ。


 軽装歩兵が武器を手にして騎馬の足を狙い薙ぎ払う。馬を狙うのが卑怯だと言われようとそんなのは戦争の景色の一つでしかないと聞き流す。


「いくらでも補充は居る、時間は俺達に有利に働くぞ」


 浮き橋がある限り、無制限に兵を送り続けられるのは事実だ。


 そうだな少し落ち着こう。何が起きたら橋頭保を失うか、それを阻止せねば。


 様々な状況を想定し、これだというのが浮かぶ。防ぐ手立ては恐らくない。


 ではどうするか、そうされても問題ないように戦場を移動させることだ。


「俺は本営を前に出す。兄弟はどうする」


 陣を焼かれて、ここで渡河に手間取っているようでは先が思いやられる。俺が出て一気に勝ちを引き寄せるんだ。


 半ば答えは解りきっている、にやりとして孟獲大王は立ち上がり言った。


「もっと近くで観戦するとしよう。俺も出る」


「李別部司馬、出撃準備だ」


 傍に侍っている護衛部隊長に命令を下す。すると彼は拳と手のひらを打ち鳴らし「すでに準備は整って御座います!」即答した。


 慌ただしく漢中城の北門が開かれ、軍勢が飛び出す。対岸からもそれは目に入る、何せ河を挟んでお互い丸裸なのだ。


 橋を守る魏の守備隊は攻撃して良いか迷う、あべこべに破れては任務を果たせないからだ。


「浮き橋手前に陣を移動させるぞ!」


 『島』『孟獲大王』の軍旗が高らかに掲げられる。漢水沿いを万の軍勢が動く。大将がすぐ傍で見ている、蜀軍も南蛮軍も士気が上がった。


 多くの者達はここで終わりだろう、だが俺は違う!


「本陣も渡河するぞ! 騎馬も随伴しろ!」


 全軍の本営を最前線に投入すると宣言した。まさかと象を振り返る者が多数居た。


「はっはっは、いいぞさすが島だ! 俺も行くぞ、南蛮大王孟獲も渡河する!」


 言うが早いか象使いにも命令する。泳げない動物は人間だけだ、直ぐに水に入ると象が水に浮いてすいすいと泳ぐ。


 敵が準備を整えて反撃して来る前に無理矢理押し切るぞ!


 渡河戦中盤は魏軍優勢で推移していたが、考えられない一手を打つ。行動が吉と出るか凶と出るか、予断を許さなかった。


 本陣に先立ち鎮南軍の騎馬兵が二十騎のみだが河に身を投じる。指揮官は陛鎮南将軍司馬だ。


「先に上陸している歩兵共を押し出し、少しでも敵を遠ざけるぞ!」


 初期に徴兵に応じた農民だったが、あれよあれよという間に昇進を重ね、今では本陣付きの部将にまで出世した。


 これも全て色眼鏡なしで、功績を挙げた者を分け隔てなく引き揚げた島のおかげだ、と信じているらしい。


 他軍ではどれだけ功績をあげても、上官への付け届けが無ければ昇進から漏れるだけなのだ。これはおかしなことではあっても、不思議なことではない。漢ではよくあることなのだ。


 かの劉備なる大人もそんな経験を有していたほどである。


「鎮南軍の歩兵よ聞け! 我に続け敵が拠る場を粉砕するぞ!」


 『鎮南』『陸』の軍旗を高らかに掲げて、二百の歩兵を率いて防備が整っている魏軍へ突入していく。


 浮き橋の先からは南蛮州従事の洪が同じように、先遣隊が踏ん張っている防衛線を抜けて突撃していった。


「もう一本浮き橋を架けるぞ!」


 工兵隊長が行けるとみて傍に二本目を架設する動きを始めた。どれもこれも独断で行動し、事後承諾で認められている。


 軍隊が活きている、常備軍を育てるには自身で判断させて行動させるに尽きる。


 ゆっくりと河の半ばを過ぎたあたりで一度後ろを振り返る、対岸に残されている者達が多い。


 木柵を多重に作られ堀を作られては進撃が困難になる。これを抜くには衝撃力しかない。アレを繰り出すか!


 橋の上は渋滞している、これが解消されるのを待つか、命令で通させるかだ。


「李別部司馬、あの大隊をすぐに渡らせろ、これは最優先命令だ」


「御意!」


 騎馬で共に河を渡っている李鎮南将軍別部司馬が、自身の側近を派遣した。二騎が後方へ命令を携えて離れていく。


 腰に真っ赤な三角旗を差していて、それを見ると皆が道を開ける。


 伝令兵の旗であり、赤は本陣の命令を携えている優先通行権を有している証だ。


「なあ兄弟、こんな戦が出来るのはこれが最初で最後だろうか」


 魏の皇帝と戦争することはあるんだろうか?


「俺とお前がやる気ならいつでも出来る。俺は世界を敵に回してもお前の味方だ」


「世界か……そうだな、二人でならそういうのもいいかも知れん!」


 今までもそうやって世界を相手に戦ってきた、俺はもう迷いはしない!


 それまで頭まで水没して、鼻だけ水上に突出していた象がついに岸に足を付いて鳴く。シュノーケルとはこれのことだ。本気で走れば人間が全力で走るのより遥かに足が速い。


 けたたましく銅鑼や太鼓が打ち鳴らされる、本陣が場所を占めたと報せるために。


 巨大な『帥』旗が打ち立てられ、魏軍の度肝を抜いた。総大将が目の前にやって来たと。


「良いか、死んでも軍旗を守り切るのだ!」


 牙門将が軍旗中隊を指揮して円陣を組むと軍旗死守を命じる。これが倒れるようなことがあれば、兵が戦線を勝手に離脱しても命令違反を問われないという、非常に大切なものなのだ。


「島将軍が見ておられるぞ、者ども気勢を上げよ!」


 腹の底から声を張り上げて多数の魏軍を圧倒する。戦線を構築する兵がじりじりと縄張りを拡げ始める。


 気合で保てる時間はそう長くはないぞ!


 帥旗に引き寄せられるように、魏軍の精鋭騎兵が攻撃を仕掛けて来た。苛烈な波状攻撃で、上陸している少数の味方がバタバタと倒れていく。


 象の上から手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど近くに敵がひしめく。


 兵の顔がはっきりと見えて、自身を睨んでいるのが解る位に近い。


「あれが蜀の総大将だ、首をとれば恩賞は望むがままだ!」


 物凄い殺意がたった一人に向けられる。常人なら大量の汗をかいてその場に卒倒してしまいそうなほどの圧力が感じられた。


 そうだ、俺を狙ってこい! ここが踏ん張り処だ!


 怖気づいて本陣を下げようものなら戦は負けたも同然。もし勝利したとしても名声は地に落ちるだろう。


「親衛隊聞けぇ! ご領主様が生きて居られたら、この先もずっと郷は飢えに苦しむことも、賊に襲われることも、役人を怖れることもなく暮らしていける! 我らが全滅しようとも絶対に害されてはならんぞ!」


 李別部司馬が槍を突き上げて馬上から檄を飛ばす。護衛部隊のうち、河を渡れたのは親衛隊のみ。残りは浮き橋を駆けている最中だ。


「騎馬兵なにするものぞ!」

「死ぬときは前を向いて死ね!」

「刺し違えてでも敵を食い止めろ!」

「双肩に負っているのは家族の命でもあるぞ!」

「今こそ恩を返す好機だ!」


 中県から抽出した親衛隊は士気絶頂で、某ゲームで表すなら150は数字がありそうな勢いだ。最後の一人になっても戦い続けるだろう。


 血走った眼で、突撃して来る騎馬に真正面槍を構えて腰を据える。衝突と同時に槍が馬に刺さって折れると、馬体に跳ねられ人間が吹き飛ばされる。


 派手に転がっていき、右腕が折れて変な方向に曲がってしまっていても、腰に履いた剣を左手に持って歯を食いしばり前線に戻ろうとした。


「首を跳ねるまで勝ったと思うなよ!」


 脳震盪を起こしてか途中で膝をつくが、剣を杖代わりにして立ち上がると再度歩み始めた。


 ――済まん。だが必ず報いる!


 鬼気迫る親衛隊に畏怖を抱くが、魏の騎兵も遊びで来ているわけでは無い。意を決して次々と突撃を繰り返す。


 親衛隊が必死に時間を稼いでいる間に橋を渡って待望の大隊が到着した。


「全ての弓兵隊を右手の位置に集めろ。あの大隊はその前に、長槍兵をさらに右手に八個中隊、南蛮軽歩兵を後ろにだ。他の者は戦力が抜ける戦線の穴を埋めろ」


 やれると信じて俺はやる! もう後戻りは出来ん!


 大混戦の渡河戦はいよいよ勝敗を分ける大一番が始まるのであった。


 魏軍の防御態勢が整ってきた。蜀軍は密集しすぎてこれ以上拠点に兵を送り込めずにひしめき合う。


 矢が飛んできても、石が投げられても死傷者が出る程の混乱だ。


「前が見えんぞ!」


 兵らが味方同士で居場所を取り合うような状態、ここで押し込まれたら圧死するものすら出そうな具合になる。


 ドーン、ドーン、ドーン。


 一定のリズムを保った太鼓の音が兵の耳に届く、何が始まるのかと興味を持つ。


 すると川べりに居た象が二頭移動しているのが遠目にも見えた。


「これより俺が直接指揮を執る! 一点を突破し、魏軍が拠る平原に打って出るぞ!」


 ここが最大の分岐だ、いざ勝負!


 戦場の注目を一身に集める、敵も味方も全てが見ている。


「弓兵、百歩先へ向け曲射だ!」


 弓兵隊長が命令を繰り返し、指定の範囲へ次々と矢を撃ち込んだ。高価なものではあるが、ここぞとばかりに連射する。


「鉄甲兵、構え! 第一陣二十歩進め!」


 ニ百人が二列横隊になり身長程の鉄槍を構えて前進を始めた。全身鉄鎧に鉄槍、銀色の装備が眩しい。


 超重量と汗が籠る装備に体力が根こそぎ奪われていく。


 それでも動いていられるのは、蜀と南蛮の大男ばかりを集めた部隊だからだった。千人をようやく集められたがこれがほぼ限界。


 魏軍の反撃を一切通さず、横隊が戦線を押し上げた。


「槍兵側面を確保! 第二陣さらに二十歩進め!」


 鉄甲兵の二陣が、先頭の一陣の脇をすり抜けて更に進む。肩で息をしていた一陣を休憩させ、後続が先へと進んだ。


 この頃になると味方の矢がカンカンと鎧に当たるようになる。それでも射撃の範囲を変えることなく射続ける。


 取り残した敵兵を、南蛮軽歩兵が止めを刺して回る。負傷した鉄甲兵を数人がかりで引きずって後送するのも軽歩兵の役目だ。


 梯団方式の戦闘、蜀だけでなく魏でも呉でも未だに見かけない戦法。武将らが困惑しながらも対応する。


「第三陣、更に二十歩進め! 弓兵も二十歩前進だ!」


 象も前へと進める、常に最前線に身を置く総大将に蜀兵は気持ちが高ぶり続けた。


「魏軍を本陣に近づけるな! 密集円陣を保て!」


 李別部司馬が防衛に専念する。親衛隊の外郭に護衛部隊がつき、更にその外側に次々とやって来る味方が防壁を作り続ける。


 押している、いけるぞ!


 鉄甲兵が四陣と交代したところで、魏の騎兵団が姿を現す。


「蜀の弱兵を蹴散らす、突撃!」


 騎馬を唸らせて短い距離を全力で駆けさせる。


「鉄槍を地面に! 半直構え!」


 鉄甲兵が石突を大地に突き刺して腰を落とす。向かってくる騎馬を鉄槍で受け止めた。


 槍は折れることなく耐えきり、騎馬がもんどりうつと騎兵が投げ出されて四陣の頭上を越えて転がっていく。


 転倒しているところを南蛮軽歩兵の短刀に掻っ切られて殆どの者が命を落とした。


 ここが戦機だ!


 呆然とする魏の歩兵の様子を見て取り勝負所を感じた。


「鉄甲兵、扇状に前進しろ! 拡げた場所に本陣を置くぞ!」


 無理矢理に鉄甲兵を食い込ませ、押し戻される前に空白地帯に本陣を置いてしまう。すると不思議と下がるに下がれない兵が前に活路を見出しグイグイと押し続けた。


「兄弟!」


「応! 亜麺暴王、藤兵と諸部族の兵を率いて橋の裏手を目指せ! 母于夫羅王、軽甲兵と水兵を率い河沿いを東へと進め!」


 中央を蜀軍、左右を南蛮軍が穴を開けるように進む。後続が開けた穴を拡げに掛かった。


「二本目の橋が完成した!」


 一気に軽歩兵が橋を駆けだす。増援が二倍速になり、もはや押しとどめることが困難になる。


 ギギギギ。きしむ音と共に漢中城の北門が開かれた。


「今こそ反撃の時ぞ、我らも進め!」


 『張』『漢中』の軍旗が城から打って出て来た。


 最高のタイミングだ!


 橋を守っている魏の守備隊は籠るか退くかの選択を迫られた。後方にも南蛮軍がやって来た以上は、橋の戦略的価値はないに等しい。


 破壊して撤退したいのはやまやまだが、そんな時間すら残されていない。


「一気に勝ちに行くぞ、鎮南軍は北西へ、州軍は北東へ突き進め!」


 あとは数で押せ!


 渡河した兵が千人、二千人でまとまり戦闘を始めた。こうなればもう疲労が少ない新鮮な戦力である味方の軍勢に分がある。


 本陣の周囲に魏兵が居なくなると輪を広げて護衛部隊が簡単な木柵を置いて縄張りを作り始めた。


 『帥』旗は最初に据えた場所で靡いている。旗の下をみると味方の死体が山のように積まれていた。


 親衛隊も重傷者が結構居る。


「李別部司馬、負傷者を城へ後送しろ。初戦は勝利だ、死者を減らすことに傾注させろ」


「御意!」


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