せっかちの習性
病的にせっかちな男。男は待つことに耐えられなくなっていた。何事もない日常。だったはずだが……
「とろとろ歩いてんじゃねーよ……」
ため息混じりにそう呟きながら、男は今日も帰路を辿る。街頭に照らされてできた闇は、光に現れたかと思うと一瞬にして目の前の闇と融合する。それを機械的に繰り返し、地面を這っていた黒の塊はアパートの前で静止する。
7分53秒。
「チッ。いつもなら7分かからないところ……」
扉を開け、そんな愚痴を溢しながら男は闇のなかに姿を溶かす。
「今日も1日おつかれさん」
誰に向けることなく発した言霊はしばらく宙を漂った後、むなしく空気に飲み込まれた。
「待つことがどうしようもなく苦痛になっちまったのはいつからだろうな。昔はもう少しマシだったはずなんだが。いつから、こんな……」
これがもうせっかちや短気という次元の話じゃないことは理解している。ただ、何度直そうとしたところで、その決意は1日も経たないうちに折れてしまう。
「こいつはもう、末期だな……ははは」
自嘲気味に笑いながら、グラスの中の赤黒い液体を乾いた唇に近づける。
「大体、なんであんなにゆっくりしてられんだ。時間は有限。時は金なり。いや、時は金以上だ。時があれば金も得られる。金があっても時がなけりゃ意味ねえだろ」
時も金も、二律背反なものではないが、時こそが全てだろう。それを、なぜ見ず知らずの他人に奪われなければならない。
「どうして気が付かねえ。考えてねえだけなのか。分からん。遅い行動には何の意味もねえだろ」
そうだ。急ぐことは誰かに迷惑をかけているのか。遅い行動の方が、よっぽど他人に迷惑をかけているだろうに。
「おっと、もう無くなっちまったか」
思索に耽っているうちに、気付けば男の目の前のグラスは透明な身体で佇んでいた。
「今日は、そろそろ寝るか」
帰宅後のルーティンを終えた男は横になり、再び思索を巡らせる。
日常。退屈だとは思わない。与えられた時間を、最大限に謳歌している。
時間は有限だ。それに気付き、それをいかに有効的に活用するか。それが全てだ。それよりも大切なことなんて無い。
しかし、この世界は不平等だ。生まれによって、才能によって、環境によって、何かをこなしたり得たりするのにかかる時間が異なる。あいつと同じ時間を使ったはずなのに、あいつの方が俺より何倍も上手くやっている。ならば無駄な時間を無くし、時間を有効的に活用することでしか、俺はあいつに敵わないじゃないか。
「でもよ。そんな努力はもう疲れたぜ。俺は俺の時間を、俺が思う限りで有用に使う。それでいいんだ。それで……」
時間が大切だと言ったって、それを何に充てるべきかなんて最適解は分からない。しかし、いずれにせよ、無駄な時間を減らして行動を早くするべきことには変わりない。そうすれば後悔なんてしなくて済むんだ。
そうだ。後悔。俺はもう後悔なんてしたくない。だから、俺は……
男の意識はそこで途切れた。
意識の途切れた男。男は眠りについたのか、はたまた意識を失ったのか。男が目を覚ますと……