朝ドラに思うこと
僕の朝は朝ドラから始まる。
今では、もう朝ドラを見ないで会社に行くこともできないぐらい、朝ドラ中毒だと思う。
幸い、会社は歩いて5分という朝ドラを愛する会社員にはうってつけのところにある。
「エール」が今週から再開したのは、僕にとってはこの上なく嬉しいので、この際朝ドラに対する
考察をしてみようと思う。(あくまでも個人の見解です…)
中国に駐在して帰国してから、今の会社に入ってもう11年が経つが、その間のシリーズはほぼ毎日見てる。
最初の頃は、偶然が一杯な物語で、まるで故意に物語を進めるために登場人物が出てきたり、感動を生むために、わざとらしい演出をするものだと冷ややかに見ていた。
でも、朝ドラを見続けるとなぜか感動して、朝から不覚にも涙することもあり、知らぬ間にはまっていった。その時は、なぜそんなべたな物語に感動してしまうのか、わざとらしい演出に騙されるのか、と不思議に思うこともあった。
ただ、僕自身も縁があり趣味として、小説を書くようになってから、朝ドラの感動作成の秘訣は3つあると思うようになった。
1つ目は、小説の先生が以前教えてくれたことだが、ドラマ作りの基本として主人公が事件に巻き込まれることがあるという点。朝ドラでは、一話ごとになぜか主人公を含めた登場人物が何かの出来事に巻き込まれる。それも、ほとんど偶然を装うように、新しい登場人物やその再開によって。
2つ目は、時間を自在に操る点。主人公や登場人物の回想シーンやいきなり子供から大人、そして一話で子供が生まれて、あっというまにその子供が大人になるという物語は、ドラマが多いとは言え、朝ドラにしかない強引な展開だと思う。大事な一話を見過ごすと、本当に何があったのか分からないぐらい、ストーリー展開上の時間の流れは速い。
3つ目は、沢山の出会いと別れを作る点。これは1つ目のところでも書いたが、朝ドラはこれでもかというぐらいに、物語を進めるために、偶然を装って登場人物が出てきて、話を進めるために、必要なセリフを入れてくる。こんなに偶然を装うドラマは、朝ドラ以外に見たことがない。僕は、この演出に何度もうんざりさせられることもあった。
ただ関西人が吉本新喜劇のべたなネタが来ると思っていても笑うように、この3つの要素があると、分かっていても、感動してしまう。それが一気に来ると、もう分かっていても、泣いてしまう。これは、もう中毒に近い感動の調味料だと思う。
とまあ、趣味で小説を書いている僕が言うのもなんだが、人は感動したいものなのだと思う。例え、ワザとらしい演出であっても、それが例え物語を進めるための技法であったとしても、人はそれを見て、感動してしまう。と思っていた。自分も小説を書いている途中で、そのわざとらしさの恥ずかしさみたいなものにとらわれることもよくあった。
でも、本当はそうじゃないと思う。これは小説を書く途中で思うようになったのだが、世の中には偶然が満ち溢れている。それは、意識していないとなかなか分からない小さいものだと思う。出会いや別れや、その時々の出来事。その一つ一つが当たり前すぎて、存在はしているけど、よほど注意しておかないと気付かないほどの小さなものだ。だから、大袈裟な演出でその小さなものを、人が普通に分かるように見えるようにしてあげないといけない。
それは、決して世の中のことを誇張して演出するのではなく、普段気付かないことをちょっぴり物語風に書いているだけ。だって、世の中にはあなたの傍には、そんな偶然に満ち溢れているから。
一見偶然だけど、じっくり見るとつながっている。そんな出来事は、僕の周りにも多く存在する。小説を書くようになってから、気持ち悪いぐらいにあることに気付くようになった。というよりも以前より意識的にそれをみるようになったからかもしれないが、世の中は朝ドラと同じぐらいドラマであふれていると日々思う。そんなことを、朝ドラは教えてくれた。そう思うと、朝ドラには本当に感謝で一杯だ。
朝ドラの話をすると、一晩では足りない気がするが、これからも朝ドラに勇気づけてもらいながら、日々頑張ろうと思う。朝ドラの脚本家の皆さん、関係者の皆さん、そして俳優の皆さん。いつもありがとうございます。って聞こえないと思いますけど、テレビの前でいつも思ってますから。これからも素晴らしい朝ドラを楽しみにしてます。