宙棲進化【7/8】戦乱 (2016u)
地球の人類を絶滅に追いやるような戦争……
争いを繰り返すうちに、そうした終末を迎える。人類いはそこまで愚かなのでしょうか……
『宙棲進化』の世界でも、地球人類は滅びることになります。形態を変え、陸棲から宙棲に進化した人類が生き延びることになります。
それも、存続なのでしょう。
●登場人物
■バンガス(30)火星で発掘調査を行う。地球生れ
□レオーネ(50代)月面定住者(20年)バンガスと同郷、彼の火星行きを支援
◇ミルーラ(20代)ルナリアン。観光案内所で働く
プロローグ
堆く積まれた赤い土の山が幾つも並ぶ。
その一つに大きなシャベルを備えた作業機が挑むように近付き、赤土の山を崩していく。シャベルに土を盛り、傍らの移送車に積む……
火星で使われる作業機には人が乗り込んで操作する操縦席が組み込まれていた。コンピューターによる自動制御が主流のご時世に、時代遅れも甚だしい。しかし、まずは自身の体で作業を覚える、それが火星のルールだ、と現場責任者が言う。
火星に来て、まだ二カ月。
気密服を着込んだバンガスは、巨大なシャベルとキャタピラの作業機に乗り、十年前に掘り出したという土の山を穴に埋め戻して元の状態にする作業に取り組んでいた。周囲にはコンピューターが操る作業機が何台かあるだけで、他の作業員は別の現場に出向いている。火星生物の発掘調査の後始末を押し付けられた格好だ。しかしこれも火星での試練の一つ……乗り越えなくてはならない。
もっとも、これはこれで難しい。
それなりの知識はあったが、高く積まれた土の山を実際に崩した経験はなかった。安全に効率よく作業をするには決まった手順、コツがある。わかってはいるが、実際にやってみると思うようにいかなかった。指導教官のコンピューターから何度も注意を受けている。気分が滅入るが、現場責任者の言葉は間違ってはいない。火星で暮らしていくには、何事も経験し身に付けておく必要があった。それを怠ると、いざという時に役には立てない。下手をすると命を落とすことになる……
メッセージが入った。
気密服のヘルメットに投影された文面を見て、バンガスは作業を止めた。眉を顰める。
帰還指令だ。
直ちに祖国へ戻るよう指示された。地球に帰れと言うのか?
バンガスは、しばらく思案した後で作業を再開した。
地球に帰ってどうする。苦労してやっと火星に来た。ようやくこの星の環境に馴染んだところだ。それに火星永住の覚悟をしている。
地球に帰る考えはない……
一
入場審査を終え、月面宇宙港の広いロビーに出た。ガランとしている。一年前に火星へ向かった時は、地球からの月面観光客で混雑していた。その情景が幻のように、脳裏に浮かんだ……
「バンガス、元気そうだな」
声を掛けられ、我を取り戻す。五十代の男性、レオーネだ。
「ええ、元気です。わざわざ出迎えていただくことはなかったのですが……」
地球の同郷出身者のレオーネは月面で二十年暮らす定住者だ。バンガスは火星へ行く際に、いろいろと面倒をみてもらった。
「そんなこと言うなよ。地球への渡航が全面休止となり、月面もすっかり寂しくなったんだ。火星から知り合いが来るのなら、出迎えたくなる」と笑みを零す。
バンガスは小さく頷く。その気持ちは理解できた。
「確かに寂しいですね。あの賑わいがウソのように感じます」
「そうだな……。どうする? 宿舎に行っても仕方ないだろう。ウチに来ないか、情報もまとまっている」
「ええ、一番最初に伺おうと思っていました」
「よし、行こう」
二人は肩を並べて広いロビーを進んだ。バンガスの歩みがぎこちない。火星の半分の重力環境に馴染むまで幾らか時間が必要だ。
「火星の様子はどんな感じなんだ?」
「平静を装っていますよ。みんな、普段通りの生活を続けています。火星からでは何もできませんからね。焦っても仕方ありません。傍観するのみ、です」
「そうだな。仕事のほうはどうなんだ?」
「まだまだ見習いですよ。実際に作業をして体で覚えなくてはならないので、時間が掛かります」
「相変わらずそこに拘っているようだね、火星は。思考体に全てを任せている月面とは大違いだ。最後まで生き延びるのは、きっと火星人だな」
笑みを見せたバンガスだが、直ぐに表情を固めて問い掛けた。
「地球は、深刻な状況なんですか」
「ああ、よくない。戦争は激しくなる一方だ。歯止めが掛からない……」
最初は、長い歴史の中で何度も繰り返してきた紛争の一つだと思われていた。しかし、第三国が武力をもって介入したのが悪化の発端だった。その情勢に敵対側でも武力の後ろ盾をする国が現れ、様々な思惑が入り乱れ参戦する国が増えていった。気付くと、地球は二つの勢力に分断され各地で戦火を交えていた。
小競り合いがこんなにも大きな戦争を招くとは、バンガスも想像できなかった。戦争終結への道筋が見えない。
宇宙港を出た二人は定住者居住区に向かう。天井の高い大きなドーム施設の中に小ぢんまりとした街がある。その一角にあるアパートに入った。
「座ってくれ、コーヒーを用意するよ」
レオーネは壁際に置かれた横長のソファーを指で示し、小さなキッチンに入った。
一年前と変わりない……バンガスは部屋の中を見回してからソファーの端に腰を下ろす。ドリンクサーバーの籠った作動音が聞こえ、二つのカップを持ったレオーネが戻ってきた。彼はコーヒーと言っているが、カップの中身はカフェオレだった。それも一年前と変わらない。
その味を一口確かめてからバンガスが気掛かりを口にする。
「通信管制が続いていますね。両親とも連絡がつきません」
「ああ、通信だけでなく報道管制も厳しい。どういう状況にあるのかはっきりしない。地球から漏れ出てきたニュースをまとめたものがある。見てみるか」
「ええ、見せてください」
元々、火星に行くような人は地球での出来事に関心が薄かった。様々な事情から地球から逃げ出して火星に流れ着いた人も少なくない。地球からのニュースは月を経由して火星にも届いていたが、戦争で正規のルートが途絶えてからは地球の情報が入手できなかった。断片的な悪い話が僅かに届く程度だった。
バンガスは仕事が一区切りした段階で月面に行き、地球の情報を掻き集めることにした。火星で暮らす人も心の奥底では、地球のことで気を揉んでいるのは確かだった。
「通信障害で画像が乱れているものばかりなんだ。それに悲惨な場面も少なくない。その点は覚悟してくれ」
レオーネは断りを入れてから、地球から漏れ出た映像を再生した。
激しい戦闘、破壊された街、泣き叫ぶ人々、転がる無数の死体……。レオーネの言う通り、画質の悪い映像には凄惨な場面が多い。これが三八万キロメートル離れた故郷の星で起こっていること、その現実を突き付けられバンガスはショックを受けた。
「なぜ、こんなことに……」バンガスは言葉を絞り出した。
「人は、争うことで成長してきた。それが過激になるのは必然なのだろう」レオーネが冷静に答える。
「何れは、争いによって死滅することになる……」
「人類の滅亡……。それが現実になるのでしょうか」
「思考体はその可能性が高いと考えているようだ……」
レオーネのその言葉には含みがあった。
時空跳躍は、空間と共に時間も跳ぶ。広大な宇宙での活動に支障が出ないように、通常は跳躍で生じる時間変移を相殺するようコントロールしていた。
ただ、思考体は多くの時空跳躍船を運用している。その中には未来を調査する船があるのではないか。一つの憶測ではあるが、技術的に不可能ではない。
思考体は未来の地球の姿、人類の行く末を知っている。そう考える人は少なくなかった。
「……だから地球への往来を完全に止め、切り離した。地球でのいざこざが宇宙に広がるのを食い止めるためだ。宇宙で暮らす人々に冷静になるよう求めている」
「つまり、手は出さず傍観していろ、ということです。戦争被害者が数多くいるなかで、それは正しい行為なのでしょうか」
レオーネはその問い掛けには答えず、じっとバンガスの顔を見ていた。
「医療活動をするぐらいは出来るはずです」
「戦争を終わらせないと、死傷者が減ることはない」
「だったら、戦争を止めさせる手段を講じるべきです」
「そうだな。しかし、具体的に何をする? どうするんだ? 戦争反対と大声で叫ぶのか」
そう言われ、バンガスは言葉を呑み込んだ。戦争を止める有効手段など思い付かない。
「見てるしかないのでしょうか……」
「感情を抑えることだ。たとえ地球で暮らす親が惨殺されても、冷静に振る舞わなくてはならない。ここには敵対する国の出身者もいるが敵視してはいけない。その人が戦争をしているわけではない。宇宙に争いを持ち込んではダメだ。地球の柵を断ち切らなくてはならない」
「柵を断ち切る……。薄情ですね」
「薄情か……。そうだな。しかし、戦争を終結し、二度と繰り返さないためには、強い気持ちで冷淡に対処しなくてはならない。そう思わないか」
バンガスはそう問われ、眉間に皺を寄せて思案した。確かに生半可な対応では戦争を繰り返すことになる。これまでのように……
「しかし、助けを求めている人たちを見殺しにするのは辛い。非人道的だ。その中に家族や友人がいると思うと尚更です。何とかできないのかと思います」
「それは皆、同じだ。だが、どうする? 戦禍が広がるなかで、安全な場所はどんどん狭くなる。争いのない月面に連れて来るのか? 何人連れて来れる? 月面施設は限られている。収容できる人数は多くない。地球で助けを求めている人全員を連れて来ることはできない。では、選別するのか? 月面にいる人の家族を優先するのか?」
矢継ぎ早の問い掛けにバンガスは沈黙した。
「我々は安全な場所から傍観している。それを後ろめたく思うが、だからと言って安易な手段に出ても問題は解決しない。かえって疑心と混乱を招く」
レオーネの話に顔を顰めたバンガスが口を開いた。
「見ているしかないのでしょうか……」
苦々しい気持ちがバンガスの心を傷つける。無力感に苛まれた。
二
遣る瀬無い気持ちを抱え、バンガスは短期滞在用の宿舎に向かった。割り当てられた個室に入る。
地球に向けて反戦・平和を呼びかける活動をしているグループがあった。バンガスはその拠点を調べ、出向くことにした。
そこは、地球人旅行者向けの観光案内所の中にあった。戦争が激化し訪れる人がなくなった施設だ。入ることができるのか、と心配したが、施設の扉はスムーズに開き、広々としたロビーに入ることができた。しかし、誰もいない。
バンガスはカウンターの前に立ち、奥を覗き込んだ。呼び鈴があったので押してみる。電子音のチャイムが虚しく響くだけで誰も出てこなかった。
バンガスは大きな溜め息をついた後で周囲を見回した。月面観光の案内資料が今も残っている。その中から月面周遊コースのパンフレットを手に取り、何下無く読む。大型の密閉式バギーで出発し、気密服を着用して月面の砂地を歩く。メインイベントとして打ち捨てられた古い月面基地へ立ち寄る。人類の宇宙進出の歴史を感じることができるプランだ。
「月面観光ですか?」
声を掛けてきたのは、若い女性だった。細身で背の高い体型、生粋のルナリアンなのだろう。疑問を浮かべた表情で見ていた。
「いえ、違いますよ。観光じゃありません」と苦笑いをする。
「そうですか……。失礼ですが、お目に掛かったことがありませんね。月面定住の方ではないのですか」
「ええ、火星から来ました。先程、到着したところです」
「まあ、火星から。休暇ですか。息抜きに月面観光をするつもりだったのですか」
バンガスはもう一度笑う。観光案内所の係員だったのだろう。旅行者がいなくなり手持ち無沙汰で、寂しいのだ。
「違いますよ、観光に来たわけではありません」
彼女は残念そうな顔をする。
「地球の様子を調べに来たんです。火星にいては情報が届きませんからね」
バンガスの言葉に、女性の表情が暗くなった。
「そうでしたか……」
「地球に向けて反戦・平和を呼びかけているグループが、こちらを拠点にしているようですが、どちらにいらっしゃるのでしょうか」
彼女はそれに頷いた。
「その拠点は確かにここですが、普段は活動をしていません。どういったご用件でしょうか。私でわかることならお答えしますが……。一応、私もメンバーですから」
「そうでしたか……」バンガスは少し思案してから言葉を続けた。
「実は、通信事情について伺おうと思っていました。地球への呼びかけは、周回軌道上の通信衛星を利用しているそうですね」
「ええ、記録した音声プログラムをラジオ用の周波数で流しています。励ましの言葉が基本になりますが……」
バンガスは頷いてから質問をした。
「一般の通信回線は、まだ使えないのでしょうか」
「使えないと思います。多くの通信施設が破壊されたようですし、稼働していても通信管制があって自由に使えません。地球に住む家族の方と連絡を取りたいのですか」
「ええ、戦争が激しくなってから家族や友人との連絡が途絶えています。何とかして連絡をつけたいと思っていたのですが……」
「そうですか、心配ですね。月面定住者の中にも、地球の家族と連絡を取ろうと努力している方がいますが、難しいようですね」
「そうですか……」
予想はしていたが、何か手段がないものかと希望を持っていた。それが崩れていく。浅はかだった。
「やはり、月面でジタバタしても連絡は取れないようですね。わかってはいたのですが、火星にいると情報が少なく何もできませんから気を揉むばかりです。家族や友人が気になるのなら、地球に降りるしかないようですね」
「地球に降りる? そんなことをするつもりなんですか」
驚く女性の顔を見て、バンガスは苦笑いをした。
「いや、そんなことはできませんよ。地球への船が動いていませんし、頼んでも出してくれないでしょう。それに、火星重力に体が馴染んでいますから、地球に降りて戦場を駆け回るのは厳しい。真っ先に、標的になるでしょうね。そんなことでは家族と会えたとしても迷惑をかけるだけです。何の役にもならないでしょう」
バンガスは笑顔をつくった。それを見て、彼女は幾らか安心したようだ。
「しかし、こんなに気を揉むぐらいなら、故郷から帰還命令が届いた時に、素直に帰っていればよかったのでしょうね。でも、そうしていたら徴兵されて前線に飛ばされ、とっくに戦死していたかもしれません」
バンガスは険しい顔になる。
「ともかく、私には家族や友人の無事を祈ることしかできないようです……」
女性が小さく頷き、言葉を返した。
「戦争が終わり、以前のように旅行者が行き来できる日がくることを願っています」
バンガスも彼女に向かって頷く。二人はしばらく顔を見合わせていた。
「すみませんでした、いろいろとお話ししていただいて。お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いいえ、旅行者のいない観光案内所ですから、これといった仕事はありません。大丈夫ですよ。……もう、火星へ戻るのですか」
「そうですね、次の仕事が始まるまで、こちらにいるつもりでしたが、何もできないとなるとここにいても仕方ないですからね……。どうしようかと思っています」
その女性は何かを思いつき、表情を和ませた。
「どうでしょう、せっかく知り合ったのですから一緒に夕食をしませんか。月面産の食材で料理を提供するレストランがあるのですが、旅行者がいないので手持ち無沙汰なんです。たまには行ってあげないといけないのですが……」
バンガスは微笑んだ。思い掛けない誘いだが、遠慮するのが礼儀だろう。頭の中ではそう考えていたが、口から出たのは違う言葉だった。
「嬉しいですね。ぜひ、ご一緒させてください。……ああ、私、バンガスと言います」
「ミルーラです」と彼女は魅力的な笑みを浮かべた。
三
「地球で争いが絶えないのは、厳しい重力環境のせいだと思うわ……」
食後のコーヒーを口にしてから、ミルーラが言った。
月面で生まれ育ったルナリアンにとって六倍の重力環境となる地球は、正に地獄の苦しみを味わう場所になる。人によっては命を落とす危険があった。その厳しい環境が人々の心を蝕む、彼女はそう思っているようだ。
眉間に皺を寄せたバンガスは、月面産コーヒーの味を確かめつつ思案した。
確かに弱い重力の月面で暮らす人々は穏やかだ。争いごとなど起こらない。人口が少ないのも要因の一つだろう。宇宙施設を運用管理する思考体の密かな策略ではないか、空気や水、食べ物に鎮静効果のある薬物を混ぜているのではないか、そうした疑念を口にする者もいた。
「そんなことはないと思うが……」
「それじゃ、何が原因なのかしら?」
「そうだな……。やはり、人口が多いのが問題でしょう。人が多過ぎるとギスギスしてしまう」
「人が多くなると人殺しが始まって人口を減らすの? それが戦争の役割なの?」
バンガスは顔を顰めた。答えに困る。なぜ人は争うのか、なぜ戦争が起きるのか、そうした疑問に真正面から取り組んでこなかった。
「不条理なのは確かだね。正直に言えば、よくわからないよ」と放棄する。
「ダメね、原因がわからないと戦争は回避できないわ。終結も遠退いてしまう……」
ミルーラの言葉にバンガスは何度か頷き、コーヒーを啜った。
旅行者用施設にあるレストランは貸し切り状態だった。地球の常識なら、とっくに店仕舞いするところだが、営利とは無関係な月面では、たまに訪れる定住者のためにシェフが腕を振るっている。
落ち着いた雰囲気の店内で、火星では味わうことのできない料理を一緒に食べ、バンガスはミルーラとの間に親しみを覚えていた。
「思考体は、何を考えているのだろうか……」
今度はバンガスが疑問を口にする。地球で生まれ育った人には、思考体の想いが見えてこない。理解できないことも多かった。
「何って、どれを言ってるの?」
「たとえば、地球の人々を助けようとしないこと、戦争終結のために動こうとしないこと……」
「地球には干渉しない、それは二二世紀に交わされた約束よ。それを守っているだけだわ」
「しかし、目の前で多くの人の命が失われている。何とかしようと思わないのかな?」
「そうね、怖いぐらいに冷淡ね。やっぱり、肉体を持っていないからでしょうね」
やはり、ルナリアンであっても理解できないようだ。
「戦争を繰り返す地球人類を見限っている、そんなふうに思ってしまう……」
「そうね。あっちもこっちも、わからないことだらけね」
その一方で、宇宙で暮らす人たちを手厚く支援、保護している。それに宇宙へ出ようとする人に広くチャンスを与えていた。バンガス自身がその恩恵を受けている。地球と宇宙、その対応のギャップが不気味だった。
会話が途切れ、カップのコーヒーも無くなった。そろそろお開きだ。二人は席を立ち、シェフにお礼を言ってからレストランを出た。
「六倍の重力は無理でも、二倍の火星なら何とかなるわ。もし、火星に行くようなことがあったら、案内してね」
「もちろんだよ。美味しい食事はご馳走できないけど、見所は沢山あるからね。全部、案内するよ。ぜひ、来て欲しいね」
ミルーラが微笑む。
「嬉しいわ。楽しみが一つ出来たわ……。それじゃ、ここで。私、あっちだから」
バンガスが頷く。
「ありがとう、楽しかったよ」
「ええ、私も楽しかったわ……。お休みなさい」
「お休み……」
二人はそこで別れ、違う方向へと歩いていった。
四
月面滞在二日目。
バンガスは月面施設を当ても無く歩き、一日を過ごした。
月面は平穏この上無い。激しい戦闘が続く母星とは無縁の静けさだ。三八万キロメートルの距離を感じる。地球で戦う人たちも月面のことなど頭にないのだろう。彼らが躍起になるのは、地表のことだ。生まれ育った大地を我が物にしたい。余所者の自由にさせるわけにはいかないのだ。
思考体は、地球人類を見限るというより、悪しき縁を切りたいのだろう。温厚な人たちだけで平和に暮らすコロニーを造る……それが月面での手間隙をかけた活動になる。
地球で人類が滅んでも月面で生き延びる。
それが彼らの目論見かもしれない。
宿舎に帰り、バンガスは自身を見詰めた。
火星に骨を埋める覚悟で宇宙に出たはずだ。それなのにノコノコと月面に戻っている。地球へ向かう船が出ていたら、迷う事なくそれに乗っていただろう。家族や友人の安否を確かめて何になる? 自分に何ができるのか? 感情に流され戦闘に加わり人殺しをする……何の問題解決にもならず、最後は自身の命を落とすことになる。
火星の殺伐とした風景に取り囲まれ、地球への未練が頭を擡げたのだろう。何かの理由をつけて地球へ帰りたかったのだ。僅か一年で覚悟が砕けた、情けない……
バンガスはもう一度、決意を固めた。
火星に戻ったら二度とそこから出ない……
月面滞在三日目。
月も、これが見納めと思い、バンガスは気密服を着用して外に出ることにした。月面での単独行動は禁止されているが、救助体制が整っている観光用の柵の中は例外だった。
無人の作業車が砂地を均した上を歩く。自分の足跡だけ、最初に月面に降り立った冒険家の気分だ。立ち止まり頭上を見上げると、半円の地球が青く輝いている。時には戦禍の赤い炎が見えるというが、今、肉眼で見る限り、母星は平穏に見えた。バンガスはその風景を目の奥に焼き付けていた。
施設に戻り気密服を脱いでいる時に、レオーネから連絡が入った。
「外に出るのか?」
「いえ、戻ってきたところです。久しぶりに月面の感触を味わっていました」
「そうか。それなら、ウチに来ないか。地球の状況について新しい情報が入ったんだ」
「どんな情報ですか」
「それは、来てから見たほうがいい。残念だが、よいニュースではない」
「わかりました。直ぐに伺います」
バンガスは急いで着替え、定住者居住区に向かった。
「地球の放送局の中には、悲惨な状況を記録に残そうと活動しているところがある……」
レオーネは、訪ねてきたバンガスに背景事情を説明する。
「激しい戦闘で記録が消失する危険性があるため、彼らはそれを月面に送ろうとする。安全な場所できちんと保管して欲しいと考えているのだろう。先日見せた映像も、そうした意図で地球から送られてきたものだ。ただ、放送・通信施設が破壊されたり、管制下にあるため思うようにレポートを送れないのが実情になる。これは、そうした状況の中で送られてきた最新のレポートだ」
レオーネはそこまで話し、記録映像を再生した。
そのレポートは、破壊された街の映像から始まっていた。男性の声が解説をする。
『ウイルス攻撃が行われたという報告はこれまでに何件かありましたが、その実態を把握することができませんでした。そこは激しい戦闘が続く危険な地域だからです』
映像は、破壊された街と戦闘によって死傷した人々を映し出していた。
『ここでの戦闘で多くの人が死傷しましたが、映像の中には戦闘の被害ではないと思われる人も映っています。この死亡した民間人は、顔に奇妙な発疹があります。さらに、戦闘から逃げてきた人の中にも同様に発疹が見られます。また、戦闘の目撃者から、敵の歩兵が防毒マスクをしていたという証言も聞かれます。一つの可能性として、敵対する戦闘部隊の拠点周辺に殺人ウイルスをばら蒔き、弱体化したところで進攻するという作戦が考えられます』
「殺人ウイルス……」
バンガスの呟きにレオーネが頷いた。
『事実として、この映像を撮影したカメラマンは、その後、現地で病死しています。体に奇妙な発疹があったそうですが、死因についてはわかっていません』
『同様の報告は世界各地にあるようです。また、動物が大量死したという報告も入っています。この戦争は、そうした局面にあるのかもしれません。それは事実なのか、どのようなウイルスが使われたのか。さらには、散布されたウイルスが独自に進化を始め、耐性や感染力、致死率が高まった強力な変化ウイルスが出現したという話もあります』
『もし、このような事態が実際に進んでいるのなら、死者はさらに増えることになります。平時ならウイルスを阻止・撲滅する手段に取り組むことができますが、世界的な戦争状態にあってはウイルスの拡散を止めることができません。悲惨な状況に陥ることも考えられます』
『我々人類は、この先どうなるのでしょうか。激しい戦闘と殺人ウイルスによって、絶滅への道を突き進んでいるのでしょうか。生き延びる術は残っているのでしょうか……』
凄惨な現場の様子を伝える映像が途切れ、レポートが終わった。
バンガスは顔を顰め、首を横に振った。
「バカな……、本当なのでしょうか」
「混乱した状況の中で、状況分析を誤っている可能性はある。しかし、これが現実に起きていることなのかもしれない」とレオーネが答えた。
「もし、これが事実なら、地球人類は死滅してしまうのでしょうか」
「強力な殺人ウイルスが蔓延したのなら、絶滅は避けられないかもしれないな……」
バンガスがまた顔を顰める。
「何か打つ手はないのでしょうか」
その問い掛けにレオーネは目を細めた。口は固く閉じている。
「思考体なら、殺人ウイルスを撲滅することもできるでしょう。違いますか」
レオーネは無言のまま小さく頷いた。
「やはり、見殺しにするのですね……」
「戦争を終結させないと問題は解決しない」とレオーネが答える。
「違うでしょう。戦争を繰り返す人類を見捨てた、そう思います」
思考体は動かない。しかし、地球上から野蛮な人類が消えた後なら、殺人ウイルスを撲滅するかもしれない。地球は思考体のものになる……
バンガスはレオーネの部屋を出た。ドームの街の中を無闇に歩き回る。
無力だ。何もできない。むしゃくしゃする。
バンガスは歩き回った末に、整えられた芝の上に倒れ込んだ。
思考体の庇護のもと、平然と生きている自分を歯痒く思う。遣る瀬無かった。
エピローグ
火星の荒れた大地で、大型の作業機が赤く大きな盛り土と格闘していた。その操縦席で気密服姿の男が操作に集中している。
何日もかけて赤土の山を大きな穴へと埋め戻す。別の作業車で埋め戻した土を押さえ付け、平らにした。以前は岩石が転がるだけの荒れ地だった。大きな穴を掘り、生物が生息していた頃の地層を浚い、埋め戻して元の状態にする。
それに何の意味があるのか、穴を埋め戻したバンガスには理解できなかった。
ただ、何万年か先の時代に、同じように穴を掘り、死滅した生物の調査をする者が第三惑星に降り立っているのではないか。その時、その星は、まだ青いのだろうか。もしかすると、眼前に広がる大地のように赤茶け荒れ果てた世界になっているかもしれない……