王は如何にして王妃を逢引に誘ったか
王城の後宮の一室。
豪華な応接室に招かれたアレクシスは困惑していた。
奥の壁には女官長が能面の様な顔をして控えて、自分の動向を見張っている。
それもその筈、目の前に座るのはこの国の王妃。
若干十五歳の王妃マルヴィナである。
王妃は未だ少女と言うべき年齢ながら末恐ろしい美貌と色気を備えていた。
アレクシスの美しさを凛々しき戦乙女と喩えるならば、マルヴィナの美しさは花園に咲き誇る妖精の姫であろう。
銀髪の髪と純白の肌、黄金色の瞳は光の加減で絶妙に煌めく。幼い頃から整っていた面立ちは、やや幼さが残るものの女の色気に溢れ美しい。
全体的にほっそりとしながらも十分に女性的な曲線の肢体は歳相応の色気と幼さを同居させていた。
その彼女が薄化粧をして豪奢な衣装に身を包めば、まさに愛らしい妖精の姫君といった風情であった。
「お、お招き頂きありがとうございます。王妃様」
「そんな他人行儀にしないで、アレクシス。前の様にマリィで良いのよ?」
アレクシスは十七歳の頃、当時八歳のマルヴィナと親しく交流していた。
剣術にのめり込み過ぎたアレクシスを見かねた彼女の母が、親類の大公家に行儀見習に出したのだ。
そこで淑女としての作法を学んだのだが、こっそりと剣術の修練もしていた。
隠れて修練をしている所を見られて、マルヴィナと親しく話すようになったのだ。
結局淑女としての作法は大した身につかなかったが、彼女とは最後まで親しく交流をする事が出来た。
「それは流石に親しすぎるかと…マルヴィナ様とお呼びさせて頂きます」
「もうマリィと呼んでくれる相手はいなくなってしまったのね。アレクシスなら大丈夫だと思ったのに…」
妖精のように美麗な顔を泣きそうな程に曇らせるマルヴィナ。
その様子に内心頭を抱えるアレクシスだが、ややあって口を開く。
「マリィ。本日の用件はなんだい?」
アレクシスは表情を笑顔で固定させながら以前の様に気さくに語りかけた。
内心は冷や汗を流していたが。
「まぁ嬉しいわ、アリィ。まずはお茶にしましょう。喉が渇いていては口も思うように開きませんもの」
ぱっと笑顔になったマルヴィナがそう言うと、後ろに控えていた女官が紅茶の用意をし始める。
ややあって差し向かいで豪奢な長椅子に座る二人の前の机に、湯気を立てる紅茶と焼き菓子が置かれた。
「どうぞ、召し上がって」
手を出さないのも失礼に当たる。
アレクシスはそっと焼き菓子を手に取り口に入れる。
焼き菓子の味は上等だった。刻んだ胡桃が生地に練りこまれており香ばしくさくりとした食感も控えめの甘さもアレクシスには丁度良かった。
「気晴らしに焼き菓子を作って見ましたの。お味はいかが?」
市販品か、宮廷料理人が作ったと思われた見事な焼き菓子は実はマルヴィナ手製らしい。
「凄く美味しいよ、マリィ」
(何か負けた気がする…)
歳の離れた妹の様に思っていたマルヴィナがこれほどまでに菓子を作るのが美味いとは思って居なかった。僅かばかりの敗北感に晒されるアレクシス。
暫くの間、焼き菓子の品評と当り障りのない話が続いた。
そしてややあってマルヴィナが口を開いた。
「それでねアリィ。今日は相談に乗って欲しくて来て貰ったの」
「私で良ければ相談に乗るけど…どうしたんだい?」
これまでの会話で、彼女が昔のマルヴィナとさほど変わっていない。
そう判断したアレクシスは気軽に相談に乗る事にした。
「アリィの旦那様との初夜を聴きたいの」
マルヴィナが真剣な顔でアレクシスに言う。
「ぶほっ!えほっ!えほっ!」
「まぁっ大丈夫?!」
紅茶を口に含んでいたアレクシスは咽た、盛大に咽た。
マルヴィナに向けて紅茶を吹き出さなかっただけ配慮した言えよう。
「だ、大丈夫…。でもなんでそんな事をッ?」
「駄目かしら?」
驚いて問い返すが、マルヴィナの表情は真剣そのものだ。
「うぅん…駄目って訳じゃないけど、面白い話じゃないよ?色々大変だったし」
(グワーッ襲われて、ガバーッと伸し掛かられて、ザクーッっと…とか言えないしなぁ)
最近はともかく、アレクシスが純潔を失った夜は甘美な夜だったとは言えない。
驚いたし、痛かったし、ブラッドは許してくれないし、大変だったのだ。
「アリィにだから言うのだけど…」
そういって所在なさげにもじもじとしながら何かを言おうとするマルヴィナ。
その様子は同性のアレクシスから見ても酷く可愛らしく映った。
(私もこういう女の子が欲しい。あ、女の子ならブラッドに似ないで欲しいな。色々と可哀想だし)
結婚してまだ一ヶ月も経っていないと言うのに、そんな希望を夫をやや貶しながら思うアレクシス。
そしてもじもじしていたマルヴィナが口を開いた。
「私…まだ純潔なの」
「はぁ?!」
結婚した淑女としてあるまじき声を発するアレクシス。
その声に後ろの女官長が眉をひそめる。
最近はその辺を気をつけていた筈だが思わず出てしまった、それほどの驚きであった。
「失礼。陛下と…閨事をしてないという事?」
内容が内容である、下手をすれば不敬罪に問われる。
アレクシスは声を落とした。
「そうなの…」
「でも陛下と結婚したのは三年以上前だよね?」
顔を曇らせるマルヴィナに事実を確認する。
「初夜で、陛下が「もう少し待とう」って仰ったの…」
「あぁ…うん。陛下ならそう仰るのも納得かな」
レックス・ミトランド・エリニシディア三世は聖騎士の中の聖騎士と近隣諸国からも名高い。
その王が十二歳になったばかりの花嫁を初夜で引き裂く事をせずに成長を見守る。
ありえる話である。
「それで私の初夜を聴きたいのか…。あんまり良い話じゃないよ?」
「ううん、だから聴きたいの。周りに聞いてみても、陛下に身を委ねれていれば良いとしか言ってくれないし…私はどうして良いのか分からないの」
その声には真摯さと落胆が含まれていた。
マルヴィナの心情を慮ったアレクシスは重い口を開く。
「じゃあ…ブラッドとの出会いからで良い?流石に初夜だけだと…その…ね?」
「ええ、そこから聴きたいわっ!」
マルヴィナが曇った表情から明るい笑顔にころっと変わる。
恋愛の話題は年頃の女子共通の盛り上がる話題である。これは市井だろうが貴族だろうが変わりはない。
苦笑しながらアレクシスは話し始める。
「あれは南方の国境近くの酒場で…」
マルヴィナは興味津々といった様子で耳を傾けている。
話し終えるまでの間に女官長が二度ほど茶が淹れ直す程度の時間、話は続けられた。
「まぁこんな感じ…かな?現実はやっぱり大変だね。ブラッドを愛しているし不満はないけど、理想とはちょっと違ったかなぁ?」
そう言って自然体でお茶を飲むアレクシス。
マルヴィナにはその顔が立派な大人の女、男爵夫人としての顔に見えた。
愛され、愛する事を知った女の顔に見えたのだ。
「羨ましい…」
「そうかな?良い事ばかりではないよ?」
ふるふると幼子の様に首を振ってそうじゃないと主張するマルヴィナ。
「違うの。期待してた事と違うのも分かるの、でもアリィは旦那様に愛していると言われてるのでしょう?」
「まぁそれは…そうだけど」
照れくさそうに答えるアレクシス。
この間も何やらしょんぼりした顔で帰ってきたブラッドに愛を囁かれて十分に愛しあった。
俺はみすぼらしいか?と聞かれたので、『そんな事はない、雄々しい戦士に見える』と答えたら、何やら感激されて抱きしめられて愛を囁かれて困った。
いや本当は困ってはいない、嬉しかったのだが。
「私、陛下に愛の言葉を頂戴したことがないもの…」
俯いてか細い声でそう呟くマルヴィナはまるで泣いているかの様だった。
夫と妻の間に愛が通っていない。政略結婚ではままある事である。
アレクシスもそれは理解していたが、本当に愛が通っていないとは目の前のマルヴィナの様子から思っていなかった。
「マリィ。君は陛下を愛しているかい?国王陛下としてではなく、夫としてでもなく、男性として愛しているかい?」
悲しむ妹を慰める様な顔でアレクシスはマルヴィナに問いかけた。
「えっ?男性として?ど、どうかしら…分からないわ」
戸惑うマルヴィナに彼女は続けて語りかける。
「私はね。ブラッドに恋したのは、決闘で打ち倒されたからだけど…本当に愛したのは最近じゃないかなぁって思うんだ」
「どういう事?」
「私もさ、自信が無かったんだよ。女としての自信がまるでなかったんだ。マリィも知ってるでしょ?料理も出来ない、化粧や着飾るのも得意じゃない、出来るのは剣術だけのじゃじゃ馬のアレクシスをさ」
そう言って皮肉げに肩をすくめて苦笑を漏らす。
「でも、剣術をやっているアレクシスは凛々しかったわっ!」
それに怒った様に反駁するマルヴィナ。
「ありがとう。でもそれで男の人に好かれるかって言うと微妙だよね。だから余計に剣術にのめり込んだ。婚約者を叩きのめして、決闘を繰り返して、自分より強い男じゃないと嫌だと言い聞かせて。自分には価値がある、自分に見合った男が居ないだけだって逃げた」
「………」
「そして実際に私を打ち倒してくれた男の人が本気で愛を捧げてくれた。だから私も本気で彼を愛する事ができたんだと思う。恋に恋する乙女から変わる事が出来たんだ」
照れくさそうに嬉しそうに笑うアレクシス。
その表情は凛々しい戦乙女というよりは幸せな新妻その物であった。
「やっぱり羨ましいわ…」
「マルヴィナ…君はもし陛下から離縁される事があったらどうする?新しく寵姫が着てしまったらどうする?」
「そんな事考えられないわ。考えたら…とても怖いもの」
青い顔を顔を俯けるマルヴィナ。
それが現実味を帯びてきていると本人は思っているた。
現実に、つい先日も閨事の途中でレックスに部屋に帰られてしまっている。
「うん、僕もブラッドと別れる事になったと考えたら…震えが来る程に怖いよ。だからね、それから考えるとマリィ、君はちゃんと陛下を愛している。自覚が無いだけさ」
「そうなのかしら?」
「私はそう思うよ。だからね、もう少し積極的になって見よう?」
「でも、今更駄目だわ…」
「何故?君程の愛らしい女性はそういやしないよ?きっと陛下だって憎からず思っているさ」
消沈するマルヴィナを慰めるアレクシス。
「だって…この間、陛下が閨に来られて…何もせずに…出て行かれたもの。私がお気に召さないんだわ」
麗しい黄金の瞳から涙を零しながらそう言うマルヴィナの顔は、慰めるアレクシスにすら罪悪感を抱かせるほどに悲壮で美しかった。
「泣かなくて良いから詳しく話して…ね?」
立ち上がり、彼女の隣に席を移したアレクシスが抱きしめるようにして肩を抱いて声をかけた。
◇◇◇
伯爵家の新婚夫妻の寝室。
行為後の身繕いを終えた二人が重なりあって横になっている。
「良かった…陛下はマルヴィナが嫌いって訳じゃないんだね」
ブラッドの逞しい体の上に心地よさそうに自らの裸身を乗せながらアレクシスは安堵の溜息を漏らした。
「ああ、あいつは本気で悩んでいたな」
「マルヴィナに伝えていい?陛下はお嫌いになられて無いって」
アレクシスは伏せていた顔を上げて問いかける。
「構わんと思うぞ、ただ逢引についてはまだ黙っていてくれ」
「もちろん、そういうのは新鮮さが大事だからね」
猫のように笑うアレクシス。
大体の女はこういう催し物が大好きだ。彼女もその例に漏れないらしい。
「ただ…俺の話をあまり見ず知らずの他人にするな」
「なんで?」
「気恥ずかしい」
視線を彷徨わせながらそう答えるブラッド。
自分の色恋を見ず知らずの他人に知られるのは気恥ずかしいらしい。
この無双の戦士は妙な所で繊細だった。
「やだ。エリニシディア王国最強の戦士が、私にこんな風に愛の言葉を囁いてくれたんだって自慢する。『俺の宝だ』とか」
ブラッドの口真似をして再び猫のように笑うアレクシス。
「むぅ…」
珍しく恥ずかしがり頬を紅潮させるブラッド。
その様子を見てアレクシスはとても愛おしい気持ちになり、彼の頬に口吻する。
そして何度も口吻をしながら彼に甘く囁きかける。
「最近分かったけど、ブラッドって案外可愛いね。おっきい犬みたい」
その一言でブラッドが凍りつく。
アレクシスは自分の体の下に感じていた圧力がみるみる萎んでいくのが分かった。
「あ、あれ?」
「寝る」
ブラッドは自分の上の宝を丁寧に寝台の横に除けると毛布を被った。
「えぇ…」
アレクシスは昂ぶりかけていた情欲をどうして良いか分からずに、とりあず毛布に包まった彼に寄り添った。
まだ新婚の二人はお互いの些細な機微への配慮が足りていない様である。
◇◇◇
王宮の一室。
豪奢な部屋には小さな円卓が設えられており、壁には女中服に似た服を着た女官が控えていた。
その円卓に座っているのはレックスとマルヴィナである。
王と王妃は毎朝、朝食を一緒に取る。これは先代からの慣例である。
以外に質素な朝食を終えると、女官の手によって熱い紅茶が二人の前に音もなく置かれる。
「……」
今日も愛らしく美しい姿の王妃マルヴィナ。
彼女は黙って紅茶に口を付けながら、レックスの様子を伺う。
アレクシスから聞いた『少しだけ待っていると良い事があるから』との言葉を信じてみる事にしたのだ。
「…うん。良い朝だね」
今日、四度目の同じ挨拶を視線を左右にゆらゆらさせながら答える国王レックス・ミトランド・エリニシディア三世。
その姿はいたずらを隠して罪悪感に震える少年の如く挙動不審であった。
「本当に良い朝ですわね」
それにも動じずに挨拶を返すマルヴィナ。彼女とて彼の様子から何かがあるとは察せられる。
それが何かまでは分かっていないが、何時もの穏やかで明快な様子とは打って変わって違うレックスの様子に僅かな期待を抱いていた。
「マ、マルヴィナ。き、今日の予定は何かあるかい?」
レックスは悪魔王に斬り掛かる時よりも何倍もの勇気を振り絞って、不審者の様な口調で自分の妻に今日の予定を確認した。
「いいえ、今日は何も予定はございません」
穏やかに微笑みながらそう返すマルヴィナ。
「そ、そうか。では今日は僕の為に時間を取ってくれないだろうか」
この時レックスは内心喝采をあげた。
(良しッ!良しッ!良しッ!)
一国の王は少女を逢引に誘う青年に成り果てていた。
王としての立ち振る舞いは十分に教育を受けていても、元々が市井に近い環境で育った貴族青年である。
その考え方の根っこは庶民とさほど変わらない。
その事は野蛮人同然の生活を送っていたブラッドとも親友になれる事で察する事が出来た。
「まぁ…嬉しいです」
両手を口に当ててマルヴィナはそう返す。
その黄金の瞳に涙が浮かぶ。
それを見てレックスが表情を変える。
「マルヴィナ、嫌だったらそう言ってくれて良いんだッ!僕は大丈夫だからッ!」
「違うんです…本当に嬉しくて。陛下からのお誘いなんて初めてでしたから…」
「ごめんよ、マルヴィナ。これからはこういう時間を一杯作ろう」
レックスはそう言って椅子から立ち上がり駆け寄ってマルヴィナの手を取る。
そうして二人は見つめ合い、お互いにはにかみの笑顔を浮かべた。
(夫婦になってもう三年にもなるのに、一体これまで何をなさっていたのでしょうか…)
女官長が内心で冷静に指摘するが表情と口には出さない。
やっと動き出した二人の時間に少しばかり安堵して眉を緩く動かした。
◇◇◇
王宮の庭園の白い温室。
その中の円卓には四人の男女が集まっていた。
国王レックスと王妃マルヴィナ。宮廷魔術師ミランディアとブラッドである。
「陛下、段取りはお分かりですわね?」
ミランディアが余所行きの表情でレックスに問いかける。
「無論だ、やってくれ」
そう言ってレックスはマルヴィナと身を寄せる形にする。
「?…何をなさるのですか?」
「王妃様、少しご辛抱ください。危険はありませんから」
そう言って右手で杖を振り上げると左手で呪印を描きながら呪文の詠唱を始める。
「『此方より彼方へ、近きより遠くへ、我らが身を移せ!』」
その瞬間、四人全員の足元に光の魔法陣が浮かび四人の姿が掻き消える。
一瞬の後、四人は一瞬の内に小高い丘の上に転移していた。
丘の下には大きい都市が見える。
「ここは?」
流石に転移の魔法だと気がついたマルヴィナが問いかける。
「王国最大の交易都市コルバーネッドの近くですわ」
「今は祭りの真っ最中らしい」
ミランディアが答え、レックスが追随する。
「まぁ…お祭りなんですのね」
丘から見える街の様子を興味深げに見つめながら答えるマルヴィナ。
市井のお祭りなど大公女であった彼女には馬車の外から見る風景でしかなかった。
馬車から見える楽しげな光景を見て参加したいと駄々をこねた事もあった。だが、一度として参加した事はなかった。良くて窓から眺めるぐらいであったのだ。
故にこれから起こる事は予想出来なかった
「さて…『彼の者の姿を変えよ』」
ミランディアが再び杖を振るうとレックスとマルヴィナの衣装が豪奢な王族の衣装から市井の民が着るような服装に変化する。
レックスは白い上着と下は茶色の革の衣装と長靴。腰には質素な拵えになった聖剣がぶら下がっている。
マルヴィナは豪華な紫色の衣装から白い簡素な衣装に変化している。
「王妃様、暫くご辛抱ください。何時もの服だと目立ちますので」
ミランディアが微笑みかける後ろでレックスが何度も深呼吸をしていた。
(大丈夫だ、大丈夫。問題ない、何も問題はない)
「さて、マルヴィナ。行こうか」
「えっ?どちらに?」
服が変化した事に驚いているマルヴィナに向き直る。
「決まっているさ。お祭りに行くのさ」
「えぇっ?!」
淑女を丁寧に導くのは騎士としての、男としての役目である。レックスはそう思い切る。
今は王ではなく一人の男として淑女であるマルヴィナを祭りに誘うのだ。
(大丈夫、大丈夫だ。男子が淑女を祭りに誘う、良くある事だ。何の問題も無い)
レックスは貴族と騎士の作法に則って、マルヴィナの前に跪くと顔を上げた。
「マルヴィナ嬢。私に御手を預けて頂けますか?」
そしてぎこちない笑顔でそう言う。
「あのっ…そんな陛下がそのような…」
「今日はただのレックスとして君と過ごしたいんだ。駄目かな?」
はにかみの笑顔を浮かべてそう言うレックスは魅力に溢れていた。
元々美男子の彼が傅いて甘い言葉で自分を誘うなど夢の様な出来事である。
「駄目じゃないですっ!えっとその私もただのマルヴィナとして…過ごしたいです」
そう言って首を振って答えるとおずおずとレックスの手に自分の手を乗せた。
「私の手をお預け致します。どうぞよろしくお願いします…」
そう言ってマルヴィナもはにかんだ笑顔を浮かべた。
お互いの手の感触を、まるで初めて手をつないだ男女の様にぎこちなく確かめ合う。そして手を繋ぎ見つめ合うと、どちらともなく自然に苦笑の様な微笑みが浮かぶ。
「はは…少し照れるね」
「そう…ですね」
「じゃあ行こうか?」
「は、はい」
手を繋ぎながら丘を下っていく、初々しい夫婦の様子を黙って見つめるブラッドとミランディア。
「それで俺の役目は?」
「二人の護衛。遠巻きから見つめるだけにしなさいよ?」
「あの状況の二人に近寄ろうとは思わん」
そう言っていつもの様に灰色の外套の覆いを引っ被るブラッド。
「ちょっと待ちなさい」
そう言ってミランディアが腰に下げた鞄から黒色の外套を取り出す。
「これ着て行きなさい」
「なんだそれは?」
「陽炎の外套。頭から被ればほとんど透明化するから屋根とかから見張りなさい。アンタなら屋根から屋根へ飛び移るのも、遠くから見張るのも楽勝でしょ?」
「………」
屋台の飯に期待していたブラッドは表情に出さずに落胆する。
彼は少しの間、影の外套を見つめていたが、結局はその外套を受け取って灰色の外套の代わりにそれを引っ被った。
すると彼の体が陽炎が揺らめくような透き通った姿になった。少し遠目になれば全く視認出来ないだろう。
「アレクシスへの薬…助かった。ありがとう」
陽炎の様になったブラッドがミランディアにそう言うと、丘から陽炎が降りて次第に分からなくなっていく。
「珍しいわね…アイツの口から『ありがとう』なんて聞くのいつ以来かしら?」
そう言いながらも満更でもない気分でミランディアは転移の呪文の詠唱を始めた。
◇◇◇
交易都市コルバーネッドで行われている祭りは秋祭りと収穫祭の合同の祭りである。この祭りはこの街で行われる年四回の祭りでも最大規模を誇っている。
それ故に広場は屋台で埋め尽くされ、大通りはおろか小さな通りにも大小様々な屋台が並んでいる。
色とりどりの屋台の天布が丘の上からは美しい細工物の様に見えた。
「陛下、本当にあそこに行けるんですの?」
「そうだよ。でもマルヴィナ、今日は陛下じゃなくて名前で呼んで。今日はただのレックスだから」
「で、ではレックス様とお呼び致します…」
二人は手を繋ぎながら丘を下っていく。
マルヴィナの顔は赤く染まり、鼓動は自分に感じられるほどに昂ぶっている。
それが手を繋いで居るためか、祭りに参加出来る興奮からなのか、彼女にも分かっていない。
手を繋いだ二人は祭りを祝う市民に紛れて街の中へと入っていく。恋仲の男女が祭りを楽しむなどありふれていて誰も気にしない。
そのぐらい若い王とさらに若い王妃は自然で、少し歳の離れた恋人達に見えた。
「わぁ…」
街の入口付近から中央広場まで、通りにはびっしりと屋台が並ぶ。
その壮観な景色にマルヴィナが思わず声を上げる。
腸詰め焼きや焼き菓子や砂糖菓子の屋台、子供向けの安物の装飾品を売る店や、虫籠に入った変な色の小動物を売る店など多種多様な屋台がずらりと並んでいる。
「お昼には少し早いから…まずは中央広場に行こうか」
「えっ…あ、はい」
マルヴィナの視線は屋台に釘付けになっており、レックスの言葉に生返事で答えてしまう。
彼はその様子を嬉しげに見つめる。普段の彼女からは考えられない対応であり、祭りに興味津々と言った風情である。
レックスはこの様子なら今日一日楽しんで貰えそうだと思った。
「気になるなら何か少し食べてみる?砂糖菓子とか」
幼い子供の様にきょろきょろとそこら中の屋台に視線を向けるマルヴィナを見て微笑みを浮かべながらそう問いかける。
「え、良いのですか?お昼にはまだ早いですけど…」
「砂糖菓子ぐらいなら大丈夫だよ」
そう言って砂糖菓子の屋台を見やるとでっぷりとした屋台の親父が鍋を振って白い砂糖菓子を鍋の中で転がしている。
星形と円形の中間の様な独特の形をした砂糖菓子が鍋の中で湯気を立てて転がっている様は美しくもあり、どこか奇妙な光景でもあった。
その様子を見て興味深げに二人が屋台に近づいていく。
「らっしゃい!」
野太い声で笑顔で二人に声をかける親父。
「そんなに量は要らないんだけど…少し貰えるかい?」
「あいよ、じゃあ二人で一人前にしとこう。銀貨一枚で良いよ!」
レックスはその言葉を聞いて、腰の革鞄から銀貨を一枚取り出す。
それと引き換えに親父が茶色の安陶器の器に入った砂糖菓子を彼に手渡した。
「わ、まだ暖かいね」
「暖かい内に食うのが格別さ!」
手に取った陶器の暖かさに驚く彼に、親父が商売人の笑顔で自信ありげに答える。
「だってさ。マルヴィナ食べてみようか」
「はいっ」
黄金色の目をきらきらと輝かせ、初めての屋台の砂糖菓子に手を触れるマルヴィナ。
「わぁ…本当に暖かい」
「うん、美味しい。マルヴィナも食べてご覧」
手に白い砂糖菓子を乗せて驚く彼女を尻目にしてレックスはぽりぽりと砂糖菓子を食べる。
まだ暖かい砂糖菓子は風味も良く、噛めばさくりと甘く口の中で溶ける。
「……」
意を決した顔で小さな砂糖菓子を口に入れるマルヴィナ。
「美味しいっ!レックス様美味しいです!」
「そうだね。僕も久々に食べるけど美味しい」
十五歳までは殆ど市井で過ごしていたレックス。
彼は幼少の頃に何度もお祭りには参加した事があるし、冒険者になってからもそれなりに祭りを楽しんだ経験があった。
それを見越してミランディアが今回の逢引を企画していた。
「僕はもういいかな。残りはどうぞお嬢様に差し上げます」
砂糖菓子を二、三個に口に入れた後、恭しくマルヴィナに砂糖菓子の陶器を差し出すレックス。
レックスは元々甘すぎる菓子は好みではない。
「ありがとうございます…」
それを大事そうに抱えるマルヴィナ。だがその表情は何処か恥ずかしげだ。
「どうしたの?」
「こんな風に立って何かを口にするなんて初めてで…」
そうはにかむと実に歳相応の娘の顔になる。その表情にレックスの鼓動が高まる。
「そうか…でも今日一日はそういう事は気にしないでいこう」
「はいっ」
そう言ってマルヴィナは砂糖菓子を口に入れ目を細めて微笑んだ。
レックスはその笑顔を同じ年頃の少年の様に頬を染めて眺め、二人は通りを広場に向けて歩いていった。
そんな幸せそうな空気とは正反対の男が近くの屋根に一人でうずくまっていた。
陽炎と化した王国最強の戦士ブラッドである。
(虚しい…)
そう思いながら、彼は腰の鞄から取り出した干し肉を齧った。
自分が居る屋根の下では、腸詰めが、乾酪を挟み込んだ麺麭が、香辛料が効いた羊の串焼きが今も焼かれ香ばしい匂いを漂わせている。
その美味そうな匂いが鼻をくすぐるのにもかかわらず、今咀嚼しているのは味も素っ気も無い、塩辛い干し肉である。美味そうな飯を尻目にして食べる干し肉程、虚しい物はない。
ブラッドは干し肉と共に己の不運を噛み締めていた。
(明日、アレクシスを連れて来よう)
祭りの期間は五日間程あり、今日は二日目である。
ブラッドはそう固く決意しながら中央広場に向かって歩く二人を追うために隣の屋根へ飛び移った。