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戦士の憂鬱とその処方箋  作者: ごんぞー
3/6

戦士は如何にして宝を手に入れ憂鬱を克服したか

三日後の昼。

フィデリア伯爵家の豪奢な屋敷の一客間。

大理石の大卓には白磁の器が整然と置かれ、紅茶が湯気を立てている。背後には使用人が控えており、まさに貴族屋敷と言った風情である。

その風景の中で薄汚い外套のブラッドだけが浮いていた。


「さて、戦の話は街で十分にしたのでな…アレクシスの話をしようか」


目の前の笑みを浮かべた伯爵の口調に有無を言わさず物が交じる。

見かけは穏やかに微笑んでいるのにもかかわらず、強い情念と意思が感じられた。


「は、はぁ…」


彼女は此処には居ない。

伯爵家に到着するなり伯爵夫人に連れられてそれっきりである。


「何日か二人きりで野宿したと聞いているが本当かね?」

「本当です」


流石に嘘を言う訳にも行かない、彼女に聞けば直ぐ分かる事だ。


「貴族の未婚の女子が山野で家来でもない男と野宿する。あってはならない事だとは思わんかね?」

「そういう事には疎いもので、思慮が及びませんでした」


少しばかり配慮は足りなかったとは思うが危急の自体だったのだ。

遅れていたら街がどうなっていたか分からない。

もっと言えば、婚約者を叩きのめす様な女子が、山野で男と居ようと何の問題も無いような気がする。

それをあえて言及する程ブラッドは馬鹿ではない。


「口さがない者の耳に入れば、婚約者が居ないのを良い事に誰とも知れぬ男と同衾する放蕩娘……などと言われてしまう。そうすれば父の私どころか妻も息子も、使用人も含めた伯爵家全体が辱めを受けてしまう」


立合いや決闘をして回るのは放蕩ではないのか。

そんな思いが心中に満ちる。


「はぁ…同衾はしていないのですが」


伯爵は静かに首を振る。


「そういう事ではないのだ。二人きりで何日も野営したと言う事が既に問題なのだよ」


まぁ事実と違う噂が流れる事はしばしばある。

それぐらいはブラッドも理解していた。

だが旅をしていた程度で噂になるかどうかは分からない。


「事実…『フィデリア伯爵の放蕩娘が遂に打ち負かされた!相手は血斧のブラッドだ!』などと言う話も領都では上がってきているのだよ」


悪事千里を走るとは言うが、そんな話がもう出ているのか。

まだ十日程でしかない。

噂はブラッドの予想を超えて走るのが早い。


「それはその…申し訳ない齟齬だったと謝罪します。また、確かに御令嬢を打ち倒しはしましたが…結婚相手を見つけろと言うのも、私が相手という事ではなく…」

「分かっている、分かっているさ。男爵が純然たる善意で娘を更生させようとしてくれた事は分かっている…だが」


そこで伯爵は息を吸って力強く口を開く。


「こうなったからには男爵と娘はせめて婚約者でなければならん」


違う、そうじゃない。

ブラッドの心の内が否定で一杯になる。


アレクシスは素晴らしい女だ、それは認める。

心を惹かれている事も認めよう、可愛らしい性根をしている事も好ましいと思う。婚約者どころか、娶っても良い、いや妻にしたい。俺の子を産んで欲しいと思う。

だがこれは違うのだ!

そんな気持ちがブラッドに突如として口を開かせる。


「伯爵、私の…話を…いや、俺の話を聞いてくれ」


ブラッドは自分の気持ちを語り始める。

それを聞いて伯爵の顔が驚きで満ちると、少しばかり経って苦笑とも微笑とも言えない笑みに変っていった。


◇◇◇


屋敷の別室。

アレクシスは久々に会う母と会話を楽しんでいた。

伯爵令嬢らしい衣装に身を包んだ彼女は美しかった。

またその母も年老いたとは言えその齢に相応しい美貌の持ち主であった。


「それで、ブラッドが『アレクシスはどこだ!』『アレクシスはどこに居る!』と騒々しく天幕に入ってきてなっ!真っ青な顔をしてなっ!たかが腕を折っただけで、神官に治療してもらえば直ぐ治ると言うのに…ふふふ」


笑顔で何度も同じ話をする彼女に伯爵夫人は辟易していた。


「はいはい、その話は何度も聞きました。ですが殿方の心変わりは早い物、一つの事であっと言う間に心が凍るといいますよ」

「うっ」


些細な事で結婚生活が凍ると言うのは貴族の間でも、市井でもよくある話だ。

しかも二人は会ってまだ十日程度である。

今後、何が起きてもおかしくはない。


「妻として失態を犯さないように、男爵との事はあの人に任せて家で花嫁修業なさい」

「嫌だ!ブラッドと一緒に旅を続ける!」


母親の提案を駄々っ子の様に歯を剥いて拒否する娘。


「どうしてこんなじゃじゃ馬娘に育ったのかしら。あの人が剣術なんか教えるからこんなことに…はぁ」


アレクシスの家出から何度漏らしたか分からないため息を、もう一度深く漏らす伯爵夫人。

だが彼女にみっちり馬術を仕込んだのは自分だと言う事は棚上げしている。

また伯爵夫人は今もって夫婦での遠乗りが趣味である。無論二人乗りではなく、夫人も馬を駆って遠乗りするのだ。

夫人が後悔に満ちたため息をもう一度漏らす、それと同時に部屋の扉が叩かれた。


「どうぞ…男爵とはどうでした?」


使用人を伴って入きた伯爵に伯爵夫人が問いかける。

ブラッドを仕留める事が出来たのかと言外に問うていた。


「男爵は本日此処に泊まる事になった」

「まぁ…それでは晩餐の準備を急いでしませんと、エド!エドモンド!」


伯爵夫人は立ち上がり使用人を呼びつけながらアレクシスに向き直る。

こういう時の晩餐は簡易の見合いの席だ。

さらに言えば、伯爵が追い詰めた獲物を罠にかけるのは夫人の仕事であった。


「貴女は晩餐に向けて湯に浸かりなさい。少し肌が荒れ気味です」

「わ、分かりました」


アレクシスは夫人の厳しい視線に素直に頷いた。


伯爵の屋敷には大小二つの風呂場があるが、アレクシスは大きな方の風呂へ向かった。

大理石が敷き詰められた豪奢な風呂場の巨大な大理石の湯船がある。既に湯船には湯が満たされていた、その湯に豊かな裸身を滑りこませる。

彼女のにとってゆったりと実家の風呂に浸かるのは久々の事である。


(泊まるとは思っていなかった…)


彼女はブラッドが泊まるとは思っていなかった。てっきりまた旅に出るとばかり思っていた。


(父上は如何なる話で引き止めたのだろう?)


父がどのような話でブラッドを引き止めた事が気になった。

だがそれ以上に彼が今後どうするのかが、アレクシスの心を支配していた。


強さ満点、顔まぁ良し、性格良し。爵位持ちで更に救国の英雄の一人。

彼女にとってはほぼ満点に近い結婚相手である。ブラッドを見た後ではどんな相手もかぼちゃ同然に見えてしまうだろう。十日前後の関係に過ぎないのにアレクシスはブラッドに異常なほど執着し始めていた。

絶対に逃さない。

そんな決意が全身に満ちる。その思いの強さが普通の乙女と彼女の違いと言えた。


「よしっ!」


気合を入れて化粧をする事を決意して湯船から上がるその姿は戦士の様な凛々しさが漂っていた。


◇◇◇


伯爵家の晩餐室。

主賓として招かれたブラッドは、湯に入り念入りに身繕いをして、魔法の鞄の奥底にしまい込んでいた貴族用の礼装に着替えていた。刈り込まれた髪は香油で撫で付けられ、顔は無精髭を丁寧に剃られている。

上半身には白い絹の襟付きの上着を赤い飾り布で締めて、下半身は藍色の男性貴族用の衣装を身に着けていた。

伯爵家の使用人に手伝って貰ったので、十分な装いができた。

外見だけは邪神討伐の英雄ブラッド・ブラディネス男爵といった風情である。


「お招き頂きありがとうございます」


貴族になる際に男爵家の家令から厳しく教えられた行儀作法でぎこちなく伯爵に挨拶をする。


「私としても敵の大将を討伐してくれた恩人にしてかの英雄を招くことが出来て光栄だ。さぁ座ってくれたまえ」


伯爵も定形の返事を返す。

あの執念とも言える何かが消え去って、何処か親しみが表情と仕草に溢れていた。

その場にいた全員が長卓に着く。


「アレクシスは支度に時間がかかっておるな」

「申し訳ございません、お客人をお待たせしてしまって…」

「お気になさらずに」


伯爵と伯爵夫人がアレクシスがまだ来ない事を心配するが、ブラッドは平静を保ったままである。

その表情は何処か吹っ切れたような、覚悟が決まったようなそんな表情であり、慣れない晩餐という場所でも悠然と構えていた。

その時、晩餐室の扉が開いて使用人と共に彼女が入ってきた。


「お待たせ致しました」


入ってきたアレクシスは美しかった。

淑女用の濃い水色の衣装に身を包み、短めの髪を軽く結い上げて銀細工で止めている。背中と胸元がやや開いて腰も細く、彼女の豊かな肢体の魅力を十二分に引き出していた。

母親譲りの端正な顔には化粧が施され、凛々しさも損なわずに色気だけがぐっと増していた。


「ブラディネス男爵、本日は当家の晩餐にお越しくださりとても嬉しく思います」


そう言って微笑む彼女はどこから見ても立派な貴族令嬢であった。


「……ああ、お招き感謝する」


ブラッドは彼女の艶やかな姿に見とれながらもなんとか定形の回答を返す。


「では…ささやかではあるが、晩餐を始めようか」


伯爵の合図で晩餐が始まった。

貴族のしきたり通りに晩餐が始まり、順番通りに料理が運ばれていく。

ブラッドは作法を思い出しながらゆっくりと味のしない食事をした。

そうして最後の皿が終わり、食後の甘めの葡萄酒が全員に行き渡った所で伯爵が口を開く。


「ブラディネス男爵は決まった相手などは居られるのかな?」

「いいえ、あいにく成り上がり者の男爵です。その様な相手はおりません」

「そうかそうか…」


満足そうに頷く伯爵はどこか芝居じみていて口元に笑みが浮かんでいる。


「男爵は歳はお幾つになるかな?」

「二十八の齢を数えました」

「ほうほう…歳は釣り合うか。ふむふむ…」


伯爵がちらりと夫人の方を見る。


「うちの娘はもう二十四にもなるのに…愚かな遊びにかまけて嫁ぎ先も決まっておりませんの。このまま行かず後家になるのか、家を出たきり何処かで死んでしまうと覚悟しておりました。男爵には放蕩娘の愚行を止めていただいて感謝の言葉も御座いません」


ため息をつくようにして夫人が感謝の言葉を述べる。

その言葉にびくりとアレクシスが震えた。


「お母様、流石にそれは言葉が過ぎるかと…」

「事実です。男爵が止めてくれなかったら一体どうなっていた事か…想像するだけで恐ろしくなります」


彼女の反論をぴしゃりとやり込める夫人。

その様子を見て伯爵が口を開く。


「それで男爵。率直な所、娘を見てどう思うかね?野卑な遊びに耽溺する破天荒な娘で、もう若くも無いが…器量はさほど悪く無いと思っているのだが」


真面目な顔でそうブラッドに問いかける伯爵。

その応答を緊張した表情で見つめるアレクシス。

伯爵夫人は優雅に葡萄酒を嗜みつつ様子を伺っている。


「私が彼女を初めて見た時、戦乙女が天界から降りてきたならば、彼女の様な姿をしていると…そう思いました。無骨な甲冑に身を包みながらも凛々しくも美々しい姿は…私のみならず周りの男たちも目を引かれていました」


ブラッドは自分がこれほど饒舌に話ができる事が信じられなかった。

自分は喋る事が得意な方ではない、だがアレクシスの事なら喋る事ができた。

理由は分かりきっている、彼女に心を奪われているからだ。


伯爵と夫人は口元に笑みを浮かべて話に聞き入っている。

アレクシスと言えば頬を染めて所在なさげに視線を彷徨わせていた。


「次の装いは騎士服でした。これも彼女に素晴らしく似合っていた、そう思います。ですがやはり…今日の装いとは比べられないと…そう思います」


そう言ってブラッドはアレクシスを見つめる。


「あぅぅ……」


男の情熱の篭った視線に慣れて居ないのか、彼女は見つめられて小娘の様に恥じらい肩をすくませて俯いてしまう。


「男爵にはこの娘の今日の装いはどう映りましたか?剣術と馬術ぐらいしかとりえのない娘で、言葉通りの馬子にも衣装なのですけれども」


そう夫人が問いかける。視線には興味がありありと浮かんでいる。

じゃじゃ馬娘を見れるように仕立てたけれどどうか?との問いである。


「戦乙女が女神の如く着飾って来てくれたのだと…。もし、それが私の為であればこれ以上無く喜ばしい事だと思います」


アレクシスから視線を外さずにそう言い切る。

もう一生分の言葉を吐き出した、そんな思いが心に満ちる。

彼女はその言葉を聴き終わった瞬間顔を伏せてしまう。

綺麗に切りそろえられた金髪から見える耳が真っ赤に染まっていた。


「アレクシス、男爵の言葉を聞いていたでしょう?何か返事は無いのかしら?」

「む、無理…」


母親に促されても彼女は両手で顔を覆い、顔を振って何も言えないと主張する。


(じゃじゃ馬娘がこうも簡単に小娘の様になるか…)


伯爵は嬉しさと寂しさが綯い交ぜになったなんとも言えない表情で黙って葡萄酒を傾ける。


「仕方ないわね、明日までにお返事を考えておきなさい。あなた、そろそろ…」

「うむ、今宵の晩餐はここまでとしよう」


伯爵の言葉で晩餐は終了となった。


◇◇◇


伯爵の私室ではくつろいだ衣服に着替えた伯爵と夫人が、白い丸卓に差し向かいに座って葡萄酒を酌み交わしていた。


「男爵は肯定的だとは聞いていたのですけれど、昼間に何がありましたの?」

「気になるか?」


含み笑いを漏らしながら美味そうに葡萄酒の入った酒杯を傾ける伯爵。

その表情はなんとも言えず面白かったと云う風情である。


「もちろん、あなたがそんな顔をするのは珍しいですもの」

「そうか…。いやな、男爵に叱られたのだよ」

「叱られた?」

「そう、あれは叱られたな。それも凄まじい怒り方でこっぴどく叱られた…ふふふ」


わずかに笑い声を漏らしながら楽しげに語る伯爵。


「私はアレクシスを無理にでも男爵に押し付けようと、些末事を責めてみたのだがな。そうすると男爵がな、まるで人殺しでも咎めるような口調で『あの女は類まれなる貴い女だ!そのような仕方なしに押し付けるように扱われる様な女ではない!』と私に怒声を叩きつけおった」

「まぁ……」


夫人が驚きのあまり口を開いてしまい、慌てて扇で隠す。


「その後もな『あの女は善なる神々が俺に授けてくれた幸運の中で、最も得難く最も価値あるものだ!』とか『その宝をその様にぞんざいに扱うようなら俺が貰い受ける!いや、どうあっても貰い受ける!』とかな…冒険者の使う荒い言葉で散々に責められてな」

「それでどう答えましたの?」


責められたと言いながら嬉しげな伯爵に、扇を閉じた夫人が問いかける。


「男爵が望むならば婚姻を許そう…そう答えた。そうしたらどうしたと思う?鞄から出した白金貨を丸卓の上に、卓の足が軋むほどに積み上げて『嫁入りの支度金だ。足りるか?』そう言いおった!」


伯爵の高笑いが部屋に響く。


「なんとも…元冒険者の男爵らしい率直さと言えば良いのでしょうが、あまり褒められた行為ではありませんわね」

「確かに品がない行為ではあった、だが不思議と悪い気はしなかったぞ。真剣さ故であろうなぁ…」

「それで晩餐であの様な態度でしたのね」


伯爵は酒杯を傾けながら満足気な表情で話を続ける。


「だが、晩餐でのアレクシスの恥じらいも尋常ではなかったな。齢二十五の娘があそこまで恥じらうとはなぁ…」

「殿方から情欲や侮蔑を向けられた事はあっても、真剣な恋慕を向けられた事が無かったのでしょうね。取り乱して席を立たなかっただけ良しとすべきですわ」


この期に及んで夫人の評価は厳しい。


「それでその支度金、受け取りましたの?」

「受け取ったよ。支度金としては多すぎるので、一時預かる形にすると言ってな。受け取らなければ戦斧で頭をかち割ると言わんばかりの凄まじき気迫でな!肝が冷えたわ!ふはははは!」

「私はあの娘を嫁がせる機会ができて胸を撫で下ろしました。しかも相手はあの陛下の覚えもめでたいブラディネス男爵。冒険者あがりとはいえ婿となれば伯爵家にとっても多大な貢献をしていただけるでしょう」


そう言って夫人も優雅に酒杯を傾け、美味そうに葡萄酒を飲む。


「お前は素晴らしい妻だと思うが、少々実利を取り過ぎる」

「女はいつでも現実を見据えていましてよ。あの子はまだ乙女でお花畑に居ますから、早々に男爵がお花畑から連れ去ってくれると良いのですけれど」


伯爵は厳しい夫人の言葉に苦笑いを漏らすとゆっくりとまた酒杯を傾けた。


◇◇◇


その部屋は貴族令嬢の部屋にしては簡素に過ぎた。

部屋の隅に飾られた鎧立てには銀色の甲冑が立てられており、壁には盾と長剣が飾られている。寝台の他には衣装箪笥があるだけで、化粧台も無ければ、丸卓も椅子も机も無い、部屋の隅に明かりの着いた燭台があるだけである。

そしてやたらと部屋は広くぽっかりと真ん中が開いている。まるで貧しい独身の貴族男性の様な部屋であった。

更には寝台の枕元に鞘に入った長剣が置かれており、誰がどう見ても若い貴婦人の寝室ではなかった。

その武張った自室の寝台で絹の寝間着のアレクシスが体を横たえて悶えていた。


「あんなのは反則だっ!卑怯だ!狡い!」


白いだけの飾り気の無い枕に顔を埋めて大きな寝台を転げまわる。


『戦乙女が居れば彼女の様な姿をしているのだろう』

『戦乙女が女神の如く着飾って来てくれた』

『それが私の為であればこれ以上無く喜ばしい事だと思っています』


「ッ~~~~~!!」


顔を押し付けた枕をばしばしと手で枕を叩いて、枕の寿命を急激に縮めながら声にならない声を漏らす。

真剣な表情で自分に向けられた言葉が頭から離れない。

その時のブラッドの声と顔ばかり浮かんでしまう。


「一体全体どんな心変わりがあったのだっ?!急にそんな事を言われても困るっ!困るぞ!」


そして急に寝台から上体を起こして悲鳴の様な不満を口にする。

自分から結婚を望んだと言うのに、何故困っているのかも彼女は理解できていない。


「いや、確かに結婚したいとも理想の相手とも言ったが…そもそも私はなんでこんなに困っているのだ?」


寝台の上で頭を抱えて考え始めたアレクシス。

それ故か窓に張り付くようにしてぶら下がる大きな影に気がつかない。

その影は腰から抜いた薄い刃を窓の隙間に滑りこませると掛けられた鍵を音も立てずに、まるで紐でも切る様に軽々と切り裂いた。

ややあって窓がゆっくりと開く。

それと同時に影は素早い身のこなしで部屋に侵入すると、床を蹴って寝台の上のアレクシスの上に伸し掛かった。


「なっ!」


急に大柄な影に伸し掛かられ、押さえつけられた彼女は咄嗟に枕元の長剣に手を伸ばす。だが影の剛力にがっちりと肩と腹を抑えられて動けない。


「長剣は今必要ない」


目の前の影がそう声を出すと彼女の顔が驚愕に染まる。


「ブラッドなのかッ?!」

「そうだ」


アレクシスはお互いの吐息がかかる距離で見つめ合い、目の前の男がブラッド・ブラディネスである事を確認する。

その驚愕の視線をまるで気に留めない風にブラッドは片手で腰の薄刃の短剣を部屋の隅に放る。


「ど、退いてくれないかっ!は、早くっ!」


逞しい体の重みと厚みを直に感じ、顔を薔薇色に染めあげながらアレクシスは彼に自分の上から退いてくれるように頼む。

その声は酷く上ずっていて、彼が何をしに来たのかはいかな彼女とて理解している。だがそれを無理やり気づかない振りをして頼んだ。


「断る」


間髪入れずブラッドが返事を返す。


「い、いやそれは困るんだが…そもそもなんでこんな事を?」


ブラッドの顔は真剣そのもので、彼女は視線を逸らす事が出来ずに、組み伏せられたまま正面から問いかける。


「アレクシス、俺の子を産め」


ブラッドから放たれた言葉は至極簡潔だった。


「流石に直截に過ぎると思うぞッ!」


何の虚飾もない真っ直ぐ過ぎる言葉がアレクシスの顔を更に赤く染め上げる。


「いやな、一応は未婚の貴族の女としてそういう要求には叫びをあげるとか、人を呼ぶとかも出来るのだ。でもそれをするとブラッドが困るだろう?だからどいてくれないか?」

「叫びたければ叫べばいい、俺は困らない」


平然と答えるブラッド。


「いや、そこは困る所ではないかなッ?なんで困らないのか不思議でしょうがないぞッ?」

「お前が叫んで人が来るまでの間に、お前を絞め落とし気絶させて攫うことなど造作も無い」


平然と伯爵令嬢を誘拐すると答えるブラッド。

そう言う彼の表情は真剣そのもので言葉には何の誇張も虚飾も無かった。

その言葉を聞いてアレクシスは叫びを上げるのを断念する。流石に誘拐されるのは不本意である、そして対応を交渉に切り替える。


「い、いやね?私達はまだ結婚してないからっ!貴族的にはそういう事は婚儀の後に行うべきものなのは知っているだろう?」

「俺は辺境の樵の養子だ、そんな事は知らない。知っていても考慮する気はない」


そう言いながらブラッドは野太い手で、自分の上着を破りながら脱ぎ捨てて、戦傷に飾られた逞しい上半身を露わにする。


「待ってっ!待ってくれ!」


それを見たアレクシスが彼の下から必死で逃れようとするが、元々体重が違う上に、逞しい腕で丁寧に押さえつけられていて身動きが出来なかった。


「伯爵は支度金を受け取ったし、お前は俺と結婚したいと言った。今更なんの問題がある」

「支度金とかそんな事は聞いてないぞッ?!いや、確かに結婚したいと言ったのだがなッ!初夜とは違うだろう!これはこう、イケナイ行為だ!婚前交渉だからな!」

「それは知らぬと言ったぞ?」

「いや!淑女的な用意とか化粧とか香水とかそういうのがあるのだっ!あるのだっ!」


もう自分が何を言っているか彼女にも分かっていない。

自分が淑女的な装いや用意をした事など両手程度だと言うのにこの言い様である。

もはや理由はなんでも良かった。


「用意は要らない。お前はそのままで十分以上に美しい、化粧などの準備は不要だ」

「いやそう言ってくれるのは嬉しいけど!ほら乙女だから純潔だから覚悟とかっ!必要だからっ!」

「今、覚悟すればいい」

「今っ?!組み伏せられながら乙女的な覚悟しろと?!」

「お前も一角の戦士なら奇襲に対して瞬時に覚悟しなければならぬ」


ぐいっと体を押し付けるブラッド。

柔らかい彼女の体に密着し彼の血の熱が昂ぶっていく。


(以外に柔らかい…)

(当たってるッ!なんか当たってるッ!)


体を密着させると彼の逞しさも感じられたが、興奮状態にある事もはっきりと感じられた。

だが乙女のアレクシスには短剣を突きつけられているのとさほど変わらない。

必死で逃げを打った。


「戦士の覚悟と乙女の覚悟はだいぶ違うのだぞ!あと…その…あれだ!私は料理ができぬし、育児もわからぬ!色々花嫁修業とか必要だっ!」


昼間自分で母親に言った事を翻すほどに追い詰められたアレクシス。

だが無情にもブラッドの言葉が退路を断つ。


「俺の領地で誰かに習えばいい。俺の屋敷には口やかましい老いた女中がいる、あれに習えばいい」

「えぇ…だったら、えっとそうだ!愛の言葉!素敵な感じの言葉!そういうの!乙女の心には凄く大事だ!」


その言葉にブラッドの攻勢の勢いが弱まる。

思案顔になった彼の様子を見て胸を撫で下ろすアレクシス。

だが、ややあって彼が口を開く。


「アレクシス。お前は俺が善なる神々から賜った幸運の中で、最も貴重で最も価値のある唯一のものだ。俺はお前の様な得難き財宝を逃す気はない、今掴まねばきっと俺の手から溢れて落ちてしまう。俺はそれが心底恐ろしい」


ブラッドはまっすぐにアレクシスを見つめ、真摯で率直で情念の篭った言葉を紡いだ。

その言葉で彼女の冷めかけていた頬の熱がまた上がる。


「あ…うぅ…」


顔を染めて動揺するアレクシス。

ブラッドはその隙を逃さない、自分の腕の中に抱いて捕らえてしまう。


「あっ!」


腕の中のアレクシスの体がこわばっていた。


「これ以上の言葉はもう出ぬ」


そう言って強引にアレクシスは唇を奪われる。


「ンッ!……ッ………」


口吻からしばらくすると、ブラッドの腕の中の僅かばかりの抵抗が消える。

そして徐々にお互いが求め合う口吻に変わる。

押しのけようとしていた両手はいつの間にか逞しい背中に回されてしっかりと抱きしめていた。

一度、少し離れて視線を交わすと彼女の蒼い瞳から拒否の色は消えていた。そしてまた口吻を交わす、今度は長く、深く。


永劫の様な一瞬の様な口吻が終わると、ブラッドはその腕を離してアレクシスを寝台に横たえる。


「もう一度だけ…もう一度だけ、愛の言葉が欲しい」


潤んだ瞳でブラッドを見上げるアレクシス。


「アレクシス、お前を愛している」


簡潔にして明快な愛の言葉が部屋に響く。


「最初にちゃんとそう言え、馬鹿」


彼女は泣き笑いの様な顔で微笑んだ。


寝台の上の二つの影が重なると同時に、雲の切れ間から月が現われて二人を照らした。


◇◇◇


それから数日、ブラディネス男爵領に向かう街道に、馬上の二人の姿があった。

伯爵家最寄りの神殿で婚姻の誓いを立てたその次の日である。


「聞いているのかこのケダモノめ!手加減を覚えろと言っているのだ!新妻だぞ!もっと労れ!」


淑女衣装のアレクシスが横抱きになって、魔法の鉄の馬に乗るブラッドの前に抱えられている。その彼女が何やら不満げに声を荒らげていた。


「閨で手加減しろと言われてもお前相手では無理だ」


ブラッドは最上級の料理を食べるときに作法を気にして食べる様な真似はしない。それは閨事でも同じ事である。

無論、最低限の相手の考慮はするが本当に最低限である。


「最初の時も私は何度も許して欲しいと言ったぞ!このケダモノめ!お陰で馬に乗れんじゃないか!」


本当ならば彼女も馬に乗ってブラディネス男爵領に行くつもりが、閨事の影響で馬に乗れていなかった。


「だから昨日は一度だけだったではないか、それにお前も拒まなかった」

「~~~ッ!このケダモノめッ!」


ブラッドの腕の中に居る彼の最大の財宝は縦横無尽に両手を繰り出して拳を振るってきた。痛痒はないがあまり暴れられても困る。


「暴れるな」


それでも顔や胸を叩く事を止めない彼女を見て、酷く愛しい気分になる。

そして衝動的に彼女の唇を己が唇で塞ぐと、胸を叩く拳が徐々に収まっていく。


「こんな事では誤魔化されんぞ」


膨れっ面でそっぽを向くアレクシス。

その表情を見てブラッドの中に確かな感情が生まれる。


「王都へ行くぞ」

「急になんだ?男爵領に行くのでは無かったか?」

「王都へ行った後に男爵領に行けばいい」

「何の為に行くのだ?」


訝しげなアレクシスがそう問う。

ブラッドは何もかもが満ち足りた満面の笑みで答える。


「俺の宝を仲間に見せびらかしに行く」


彼の腕の中の最愛にして最高の財宝は、耳まで真っ赤に染めて俯いた。

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