中庭の少年
本編開始です
三方が館となっている中庭の中央。真っ白な狩衣を纏った少年が右手の指に挟んだ札に意識を集中させていた。
「ふう……」
小さく吐いた息とともに、札から得体のしれない力があふれ出す。霊力のない常人がこの場にいたとすれば、風もないのに彼の髪が揺れ始めたように見えただろう。
力の流れは旋毛風のように彼の周囲を渦巻き、やがて指向性を持ち始める。その流れは何かの生物のように庭の一角の松の木へと向かう。
やがて、少年の周囲を渦巻いていた力はすべて松を中心に渦まく流れへと変化する。
少年は札を持っていた右手をピッと松に向ける。
「五行開放。我が命に応じよ、急急如律令!」
そう叫んだ少年に呼応するかのように、力の流れが松の木にまとわりつく。そして木に吸い込まれる……という刹那、ありえないことが起こる。
高さ一丈はあろうかという立派な松の枝が、一瞬グンッと活気を増したかと思うとすくすくと伸び始めたのだ。枝が一尺ほど伸びたところで力尽きたように変化は止まったが、遠目に見る松は一回り大きくなっていた。
が、次の瞬間、それは幻であったかのように松の木はしぼんで、元の大きさに戻った。
こんなものか、と少年は札を持った手を下した。
そして、背後の物陰に向かって振り返ることもなく声をかける。
「日月、そこにいるんだろ」
「あ、ばれていましたか?高明殿があまりに真剣なものですから」
相変わらずおかしな格好をしているな、と振り返った少年――高明は思う。
着物も顔立ちも髪も、そのあたりにいる庶民の少年とそう変わらないだろう。むろん少年であれば、だが。
女性としてはありえないほど短く切った髪に、こちらも裾を短く切った小袖。極めつけは何といっても小袖の帯に挟むようにしてさしてある太刀である。
「……もう少しまともな格好はないのか」
高明が毎朝、同じような状況で発してきた、もはや決まり文句である。
そして彼女――日月も毎朝決まってこう答える。
「だって動きにくいじゃないですか。長い髪とか、裾の長い小袖とか、その辺の武官みたいに紐で吊った刀とか。」
そういった日月は今度は高明の服装に目をやる。
「高明殿だって動きにくいでしょ。そんな狩衣に指貫なんて言う堅苦しい恰好」
「これは気分の問題だ。先祖代々の陰陽術なんだから、おざなりに扱うわけにはいかないの」
「ふーん。そんなに言うんでしたら高明殿も陰陽師になればいいのに」
日月の言葉に、高明はうっ、と声を詰まらせた。
『高明』という名の通り、高明は大人になるための儀式、つまり元服をすでに済ませていた。本来であれば朝廷の官僚として働くか、親や親族の仕事を手伝うべき歳なのだ。
「ここに居候し始めてもう四年。そろそろ身の振り方を考えなくては」
高明は黙って目を伏せる。
「……何回も言ってるけど、陰陽師にはならない」
「四年前からその一辺倒ですね」
「なんか、駄目なんだよ。なんていうか、頭ではなろうと思っても体が自然に拒否しているような」
四年前、何かがあったのは確かなのだ。しかし、何があったか、まったく思い出せないのである。
わかっていることは、四年前の何かの後に残った事実のみ。すなわち自分が陰陽師になることを自然と拒否するようになったということ、父や兄と親交があったという賀茂氏の家で養われるいきさつとなったこと、そしていつの間にか見知らぬ少女が自分に付きまとうようになっていたということである。
「それに陰陽庁に入って『陰陽師』になるには相当な術の威力と精度が求められる。今の僕には到底無理な話だよ」
陰陽術はそもそも一握りの家系にのみ伝わる、大陸渡来の術である。そして今、都で最も必要とされる術でもある。
同様の術として、仏教に由来する法術や八百万の神に由来する神術もあるが、陰陽術がこれらと大きく違うのは、この国の中心であるここ、京にある朝廷の一部署を担っているということである。
陰陽庁と呼ばれるこの組織は国全体を守るために設置されたもので、時にはその占いや呪術で国政すら左右する力を持っている。そこは都でも最上位といわれる術師が詰めており、ここに使える者のみが朝廷公認の術師、すなわち『陰陽師』と呼ばれる存在なのである。
高い技術を持つ術師たちが集まる陰陽庁に比べれば、高明の実力などまだまだなのだ。
しかし、質問を投げかけた当の日月は、そんなことは全く信じない。むしろ高明がまだまだ潜在能力を持っていることを確信してるような口ぶりで話す。
「何度も言うけれども、僕は安部家に連なる家系というだけで、術は」
日月がさえぎる。ここまでの、普通の少女のような声音を一変させた。
「……本当に、高明殿の実力はその程度なのですか?」
すっ、と日月の目が細くなる。背筋が凍るような悪寒がはしり、途端に二人の間の空気が張り詰める。
高明は日月の態度に、一瞬だが狼狽を見せた。普段から底のしれない彼女であるが、今の彼女は向かい合っているだけで刀を向けられているような圧迫感に襲われるほどの迫力を持っている。間違っても普通の町娘、どころか仮に熟練の武士であっても出せる迫力ではない。
「日月……君は本当に何者なんだ」
高明は圧迫感に耐えながら、かろうじて言葉を絞り出す。率直に、今心の内を占めている本音だった。
数舜の沈黙。
が、次の瞬間。日月は人が変わったかのように圧迫感を引っ込めた。後に残ったのはいつも通りの無邪気な笑顔だけ。
日月は高明に背中を向けて、屋敷のほうに歩きだす。
「ちょ、日月」
「自分でも薄々わかっているんじゃないですか?――ねえ、安倍高明殿?」
安倍高明――その言葉に狩衣の少年は今度こそ沈黙して離れていく少女の後姿を見送った。
彼女が屋敷の陰に姿を消してからさらに数瞬の後。我に返った高明は、庭の池のそばまで歩み寄ると、額にかかる前髪を掻き上げる。
池のすんだ水面に写る彼の額には、印が施されている。一筆で書かれた五芒星――都で、少し学のあるものならば一目でわかるであろう文様。陰陽師名門中の名門、安倍家の象徴のような文様であり、四年前以前の記憶があいまいになっている高明が、自分と安倍家の関係を読み解く、唯一の手掛かりである。
「安倍……陰陽師の名門か」
「その通り。都で一番といっても差し支えないほどの名門だね。忌々しいことに」
突然声をかけられた。日月ではない。だが間違いなく誰かいる。背後だ。
日月と違って気配を全く感じない。どころか五行の流れすら平静と何ら変化はない。結界でも張っているのか。どちらにしろ声の主はただ者ではない。陰陽師か、はたまた妖の類か。
「……どちら様でしょうか。陰陽術をたしなまれる方とお見受けしましたが」
高明はあえて丁寧な口調で、水面を覗き込んだまま話しかける。しかし口調とは裏腹に、その手は術を込めた符をしまい込んでいる懐へと延びる。
「俺かい?陰陽術を使ってるってのは確かだけどな。ただ巷の陰陽師っていうのとは違う。あんなきれいごとまみれの宮仕え連中と一緒にしないでくれ」
あくまで飄々と、おどけた調子で続ける声。
このままでは、埒が明かないと見た高明は水面から目を離すと、前髪で額を隠してから立ち上がって振り返った。
そこにいたのは高明と同じような狩衣に指貫の青年。歳は高明よりも一回りほど上か。声をかけられたときのような結界は感じない。懐で符を握りしめた高明と違い、両腕は無防備にだらんと下げられている。
「……この家に客人として住まわせていただいている高明というものです。主人に用があるならばお取次ぎいたしますが」
「いや、結構。用があるのはどちらかというとここの姫なんだけど……さすがに取り次いではもらえないだろ?」
ぴくっ、と高明の眉が動いた。相手の無防備さを見て懐から出しかけていた手を素早く戻す。
「……姫様は病気がちゆえに屋敷の奥におられます。お会いするのは難しいかと」
自然と高明に声に敵意がにじみ出る。
確かにこの屋敷には、家主である貴族にして陰陽師である賀茂忠成の娘にあたる姫君がいる。しかし、彼女はある特異体質を抱えており、屋敷から出ることはほとんどない。
そしてその特異体質ゆえに、彼女への訪問者の大半は危険極まりない相手であると判断せざるをえない。
「……だから勝手に見に行くんだ」
そんな高明の雰囲気に気が付いたのか、青年もにこやかな様子を一変させた。
つかの間の沈黙。この間に高明は男の位置づけを「主人を訪ねてきた陰陽師」から「危険なモノ」に変更していた。高位の陰陽術らしき術の使い手であることはわかっている。手加減の必要はない。実力は相手のほうがはるかに高い。ならば手は一つ。
「先手必勝!五行開放!」
訓練のように精密な操作をする必要もなければ、そんな余裕もない。懐から引き抜いた火行符を前触れもなく投げつけると同時に、高明は叫んだ。
途端、先刻の木行符とは似ても似つかぬ力が爆発した。
互いの姿が見えなくなるほどの炎が札から吐き出される。なんの制御もなく指向性だけを持った灼熱の嵐が青年を襲う。
「ほう。主人の賀茂忠成のほかに陰陽師はいないと聞いていたが」
青年は符を抜くでもなく、無造作に右手を前に出す。
一瞬だった。彼の周囲の五行が右手を中心に渦を描くと、たちまち円形の不可視の盾を形成する。直後、炎の渦が、盾もろとも青年を呑み込まんと迫るが、青年の体はおろか白い狩衣に焦げ跡一つ残せぬままにはじき返される。
二人の間を荒れ狂っていた炎が晴れる。相手の姿が見えたと同時に高明は次の一手を放った。そもそも火行符一枚で倒せるとは思っていない。
「五行開放!」
右手に持った金行符を投擲する。投げられた符は一瞬で硬質な金属のような鋭利な刃物に代わり、勢いよく風を切った。
しかし今度も青年は眉一つ動かさない。
「君の霊力の強さは素晴らしい。だけどそうやって振り回しているだけのうちは武器を振り回すならず者と大差ないな。五行開放!」
今度も、青年はあくまで無造作に符を構えただけだった。
たったそれだけの動作。しかし次の瞬間、高明の視界が真っ赤に染まった。先ほどとは比べ物にならない火柱が高明の投げた符を呑み込む。その瞬間、炎は一段と火力を増して、高明に襲い掛かかり、符を取り出す間も与えずに呑み込んだ。
勝負は一瞬だった。
「霊力が強いから警戒していたが、たいしたことはなかったか。もう二、三年も生きていれば高名な陰陽師となったかもしれんがな」
手ごたえはあった。あいつは符を抜く間もなく、最低でも瀕死の重体だろう。
が。高明に背を向けかけた青年は、背後から膨大な霊力の塊が迫るのを感じた。気は水行。だがそれよりも物理的な質量を感じる。
「……ちっ」
青年はこれもまた振り向きもせずに不可視の盾を形成して難なく弾き飛ばした。あたりに霧のような水滴が四散する。が、攻撃には五行とは別の重さがあった。単純な質量。青年は盾が大きくきしむのを感じた。が、その表情にはまだまだ余裕が見える。
「なるほど……ただ霊力を振り回すだけが能の未熟者と思っていたが。思ったより策士だな」
「ちっ。届いてない……」
高明は大半の水が干上がった池の中から立ち上がると、その手にあったずぶ濡れの水行符を脇に捨てた。
青年との術のやり取りが始まる直前、青年の実力が自分の何倍にも及ぶことを感じた高明はあらかじめ池の中に水の流れを司る水行符を沈め、池の水をある程度自分の制御下に置いていた。
そして炎の勢いを見て、自らの術では対応が間に合わないことを悟った高明は反射的に背後へと飛び、池の水で身を守りながら水中に仕込んであった水行符をつかむと、反撃の一手として用意していた池の水を総動員する攻撃を力任せに飛ばして炎を相殺し、青年の背後をねらったのだ。
無言のまま相手の隙を伺う二人の陰陽術師。高明は唇をかんで顔をしかめる。このわずかな攻防で高明は使える手札をすべて使ってしまった。そもそも鍛練用には攻撃に適さない木行符を用意しているのだ。他の符はわずかしか持ち合わせがない。
しかし、青年のほうの顔には頬笑みすら見える。油断ゆえに高明に一杯食わされたが、実力は完全にこちらのほうが上だ。
「案外、反撃せずに池に沈んでたほうがよかったかもな」
青年が再び火行符を構える。一枚ではない。五枚の火行符が手妻のように手の中で扇状に広がる。
対する高明はもはや打つ手がない。一枚の火行符による攻撃ですら隠し玉を使わなければならなかったのだから当然ではある。
「……ここを通して、姫を一目見させてくれれば今日のところは引いてもいいのだぞ」
「断る」
高明の即答。青年はため息と同時に、手の中の符をばらまいた。
「五行開放!焼き尽くせ」
高明は必死だった。青年が動くと同時に狩衣を裏返すようにして手持ちのすべての符を自分の前に展開する。
「五行開放!」
技術も何もあったものではない。ただ力任せに、なんの符かなど考える余裕もなくありったけの五行を爆発させた。制御を失った力の奔流が四方にはじけ飛ぶ。
と、同時に高明は全力で後ろに飛んだ。そして自分の目の前で起こった力の奔流を全身で受ける形で後ろ向きに加速する。
まさしく紙一重だった。背後の池にもう一度倒れこんだ高明は一瞬前まで自分がいた場所を大きな炎が呑み込むのを目の当たりにした。しかしそんなものにかまってる余裕はない。打つ手がない相手に全力の攻撃を打ち込んだ相手は今こそ油断の極みにあるはずだ。
高明は立ち上がり、懐から最後の武器である儀式用の小刀を抜く。本来は武器として使うものではないため、柄や鞘は白木でできた弱いものだが急所への一撃程度なら問題はない。炎が消えかけている。消えるよりも早く、視界が回復するより早く接近戦に持ち込まなければならない。
池のふちに足をかけ、一気に間合いを詰めようとした、その時だった。
頭の中で、ぷつんという音が聞こえた。
突然、高明の目の前が真っ暗になった。同時に前に出かけた足も空を切り、力なく崩れ落ちた。疲労や敵の術の類ではない。高明はこれと同じ感覚を過去にも味わっている。
体はまだ動く。思考も鮮明だ。しかし……
くそ、やっぱりやりすぎたか。額に強烈な痛みが走る。前に味わったのは二年前、火行符を暴発させたときだったか。もはや目の前の敵どころの話ではない。高明は最後まで鮮明な思考回路のままに意識だけを手放した。
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