桜−幸福の在り処−
目の前に広がる光景、それを一言で表すなら、「春」、それに尽きる。
なんだかとても簡単というか、馬鹿みたいな感想になってしまったけど、なんていうのか、それ以上の表現が見つからない。
それほどまでに、目の前のそれは「春」を主張している──っていうよりは体現しているって言った方が正確なのかな。
どちらにしても春爛漫、である。
「パパー! 早くぅー!」
「おー、そんな急ぐなって。嬉しいのは分かったからそんなにズボンを引っ張るなって」
俺の足元でそうやって喜色満面にズボンをぐいぐいやって先を急かすのは、何を隠そう(本当に何も隠れちゃない)俺の娘だ。
可愛い可愛い、愛娘だ。
勿論目に入れてもちっとも痛くない。
本当に目に入れようとしたら愛が怖がるだろうからしないけど。
あぁ、愛っていうのは俺の娘の名前だ。
愛娘の愛──あまりにも直接的だろうが、それでも目一杯愛を込めて育てようという意気込みと、沢山の愛を受けて育って欲しいという俺たちの願いがこれでもかと込められた名前。かなり気に入っている。
愛自身も気に入っているようで、俺が「自分のことは愛じゃなくて私って言うんだぞ」って教えてるのに「愛はね」とか「愛だって」だとか。一向に改善を見せない。ま、まだ幼稚園生だし、そう焦ることもないか。可愛いし。
「ふふふ、愛ったらはしゃいじゃって……あなたと久しぶりに遊べるからって昨日からずっとはしゃいでいたのよ、あの子。この元気印は、一体誰から受け継いだのかしらね?」
そう言って傍で優しく微笑むのは俺の妻、杏。
俺より頭一つ分小さいから、自然上目で俺を覗き込むような形になっているのだが、堪らなく可愛いんだ、これがまた。きっと愛は母さんに似て将来美人になるな、なんて考えつつ。
「うーん、生憎俺の身に心当たりはないな。杏に似たんじゃないか? ほら、おっちょこちょいだし」
「そんなおっちょこちょいじゃないです! それに腕白はどう考えてもあなたからの遺伝です! 高校時代どれだけ引っ張り回されたか……」
「はは、家の中で一日に三回くらいのペースで頭ぶつけててよく言うよ。それに案外高校時代は杏も楽しんでたじゃん。なんやかんや言って結局最後まで付いてきたし」
「それは……あなたを見てると退屈しないからですよ。ずっと、好きでしたし……」
頬を赤らめて、はにかみながら。
俺は軽くしゃがんで、彼女の小ぶりな唇に自分の唇を優しく重ねる。
そして刹那の邂逅の後に、目を合わせて笑い合って。
「あーもー、パパ急いでって言ったのに! それにママもパパ取らないでって言ったのに! 愛は将来パパのお嫁さんになるんだから!」
「あらあらごめんなさいね。でも、パパは愛には渡さないよ?」
いたずらっぽく笑う杏と、本気で怒っている愛。
ついつい笑ってしまう。
いずれ大人になったら「パパのお嫁さんになる」が「パパキモい」に変わるんだろうなぁ、とか考えると少し複雑な気持ちになるけど。
ま、そうなったらそれはそれでその時考えよう──なんて問題を後回しにして。
「パパ! パパは愛の方が好きだよね?」
だけど、この娘の質問で空気が変わる。
杏は何も言わないけど、すごい視線を感じるし。
どうやら笑っている場合じゃないらしい。
「はぁ」心の中で小さくため息を吐いて。
俺は愛を抱き上げて、言う。
「俺はこうやって三人で仲良く遊んでる時間が一番幸せで、一番大好きだよ」
卑怯だろうか? だけど、それが俺の偽らざる本音ってやつだった。
でも、そんなの認められないよな……杏も、その娘である愛も。
案外こういうところ、親娘揃って強情だからな……。
「うー、パパずるい! そういうのよくないよ! えーと、たらし、だっけ?」
「時にははっきり答えを出すのも大事だと思いますよ?」
「あ、はは……ってかたらしなんてそんな言葉誰から教わったんだ!?」
「すみれ組の近藤くんが、ばら組の吉岡くんはたらしだから気を付けろって」
案外幼稚園児って言っても結構ませてんだな、なんて逃避をしてみたり。
「いいか、愛。その言葉はあんま人に使っちゃだめだぞ」
「まさや先生に言っちゃったのもだめ?」
「もう手遅れかよ……っと、そろそろここら辺でレジャーシートでも広げるか」
そうこうしている内に目的地に到着した。
何とか話が逸れてくれたお陰で、もう杏も普段通りに戻っている。
……助かった。
「じゃあ、杏はそっち、愛はあっち持ってくれ。いくぞ、せーの」
ばさぁ。
可愛らしい猫が描かれたレジャーシートが音を立てて広がる。
こうやって家族で一緒に何かするって、悪くない。
そうそう、目的地ってどこか、だな。
今日は何をしに来たのかっていうと、端的に言っちゃえば花見だ。
折角久しぶりに日曜日に休みが取れたて、じゃあ二人とどこに行こうかって考えた時に昔よく杏と春になるとデートしてたこの公園を思い出してさ。
すげー桜が綺麗なのにあんまごった返してない、っていうのも危なくなくていいかな、って思って。
さりげ愛、お花見初めてだし。
それで、この公園って全体的に桜が咲いているんだが、その中でもちょっと奥まったところに広場になってるところがあって、そこがいっとう桜が咲き誇っている。いつもここ来るとそこまで行って桜見てたから、俺と杏の思い出の場所なわけだ。
この機会だし、愛にも教えとかないとって。
「ふーどっこいしょ」
「あら、もうあなた、まるでおじさんみたいですよ」
そうやってレジャーシートに腰を落ち着ける俺ら二人を尻目に、愛は早速そこらへんを駆けずり回っている。全く、子供っていうのは元気なもんだ。
「パパー、見て見てー! 桜が雪みたいできれいー!」
「あはは、本当だ本当だ、綺麗だなぁ」
「愛、転ばないように気を付けなさいね?」
「うん、ママ。分かってる!」
分かってる──ねぇ。
目の前で言われる前となんら変わらぬ勢いではしゃいでいる愛。
本当に分かってるのか?
杏を見ると、呆れたかのような笑みを浮かべていた。
「全く、これって反抗期なんですかね?」
「まだまだ可愛いもんだろ。反抗期ってより遊びたい盛りって感じだろうよ」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
「ま、なんにせよこうやってはしゃいでくれてるってことは楽しんでくれてるってことだよな? 連れてきてよかったな」
「そうですね」
そこで何故か杏は悪戯っぽく笑う。
なんか嫌な予感。
「でも、遊びたい盛り……ですか。そういえばあなたも高校生の頃ああやって落ち着きなくはしゃぎ回ってませんでしたっけ?」
「そ、そうだったっけな……?」
頬が熱くなるのを感じる。
二人でここに来た時、杏が元気なかった時は笑わせようと、元気な時は更に楽しませようとよく変な踊りを踊ったり……ああ、鮮明に覚えているのが余計に恥ずかしい!
「そうですよ。折角ですしあの子にもあの踊り、見せてあげたらどうです? なんでしたっけ、太陽と桜のワル……」
「やめろぉ! それすげぇ恥ずかしいんだよ!」
「あら、やっぱり覚えてるじゃないですか」
「何? パパ踊るの!? 見せて見せて!」
いつの間にか愛はレジャーシートに腰を下ろしていたようで、そうやって膝歩きで目をキラキラさせながら見てくる。
やめろ! 笑顔が眩しい!
「いや、パパダンスとか踊ったことないし、運動苦手だし……」
「えーじゃあたいようとさくらのわるつとかなんとかっていうのは見れないの?」
「ど、どうしてその名前お前まで知ってるんだ!」
「ママが昨日話してくれた!」
「杏〜〜〜〜?」
油の切れたロボットみたいな感じで杏を向くも、杏は口笛を吹いて知らん振り。
俺の嫁は案外強かなのだ。……じゃなくて!」
「嫌だからな! 俺は踊らないからな!」
「えー、じゃあパパ、教えてよ! その踊り!」
「そうですよ、折角ですし私にも教えて欲しいです!」
「あー……」
まさかの展開にたじろぐ。
けど、ま、みんなで踊るってんなら恥ずかしさもそこまででもないのかな……。
周りに人もいないことだし……。
「じゃあ、教えるぞ?」
春満開。
桜咲く。
今日というなんでもない日はこんな風に幸せいっぱいに過ぎていく。
いずれこの日を振り返った時に、俺の考えた「太陽とさくらのワルツ」が大爆笑されて馬鹿にされたこととかもいい思い出になるんだろうな……多分。
いずれ、いずれさ。愛も好きな人を見つけて結婚して、子供が生まれて、ふとした時にこの光景を思い出して。
今度はその子供とこの桜を見上げて────。
なんだか想像が付かないけど、そうなったら面白いかな、なんて。
流石に飛躍しすぎかな、とは思うけどさ。
もう一回桜を見上げる。
太く硬い幹から幾重にも広がる枝葉はまるで俺たち三人を包み込むように広がっていて。
そこから更に華々しく咲き誇る桃色。やがて飽和したそれは雨やら雪になったりして俺らの上から降り注ぐ。
まるで幸せそのものみたいだな──なんて本気で思った。
だから。
「いつまでも、元気でいてくれよ。ずっと、見守っててくれ」
呟いて。
「おい、そろそろお昼にしようぜ」
「さんせーい!」
「あ、こらこら、まず手を拭いてからね?」
「はーい!」