Binking
ピピピ、とアラームが鳴った途端にベッドルームに駆け込んでくるもふもふ一匹。ベッド脇に犬用の階段が置いてあるのだが、彼女はそんなモノは使わない。空飛ぶスーパーマンのような勢いでベッドに飛び乗ってくる。たとえ体重1キロちょいのもふもふでもあの勢いで腹にでも飛び乗られたらゲフッとなりそうだが、不思議なことに彼女は決して私の身体を踏まない。しかしコレがジェイちゃんだと、狙ったように腹に飛び乗り、毎回ゲフッと言わせている。
「あらーむ鳴ったで! おきる? おきる?」と私の鼻先をペロペロと懸命に舐めるあやたん。ウサギがヒトを舐めるのは最高の愛情表現だ。ヒゲがくすぐったい至福のひととき。寝起きの悪い私はベッド脇のお猪口からあやたんにコリコリおやつを一粒あげて、うとうとしつつウサ耳マッサージしてやる。あやたん至福のひととき。
ちなみに彼女がベッドに飛び乗ってくるのは朝だけではない。真夜中に病院から電話が掛かってくる度にコーフンの面持ちでベッドに飛び乗ってくる。そしてワクワクした顔で、私が出勤の支度を始めるか見ている。私が起きて顔を洗いに行くと、大喜びで部屋中を駆け回り、その後キッチンへ走っていって冷蔵庫の前で待機する。私の出勤前には必ず、自宅警備兵のエネルギー補給として新鮮な野菜を貰うのだ。野菜を忘れたまま家を出ようとすると、彼女は焦って玄関まで走ってきて後脚で立ち上がり、「あのう、なんかお忘れですよ?」と、もふもふの前足でそっと私のパンツに触れる。ちなみに私が帰ってきた時も、まず冷蔵庫の前に走っていく。警備兵としての務めを立派に果した正当なる報酬を貰うためだ。
電話が鳴らない時でも、あやたんは時々そっとベッドの端に座って寝ているヒトの顔を眺めている。
「昨日ね、夜中にふと視線を感じて目が覚めたら、アヤがボクの枕元に座って、じーっとボクのこと見てて!」
「可愛いでしょ」
「可愛くなんてない! 『Children of the corn』ってホラー映画を思い出して、ものすごく怖かった!』
もふもふの視線に恐怖を感じるオトコ、ジェイちゃん。しかし多少の物音くらいでは絶対に起きないジェイちゃんが眼を覚ますほどとは、うさぎの目ヂカラも侮れない。
ちなみに柳が大好きなあやたんは、ジェイちゃんが家に来ると、ジェイちゃんが新鮮な柳をくれるまでずっと彼の後ろをついてまわっている。柳の枝の収穫はジェイちゃんの仕事と決まっているので、ジェイちゃんイコール柳という方程式が彼女の中で完成したのだ。決してジェイちゃんを慕っているわけではなく、その証拠に柳を貰った途端にジェイちゃんのことなんてどうでもよくなっている。
「あーやーたん♡」とかジェイちゃんに猫撫で声で呼ばれても、振り向きもしない。そして夜中に時々柳を盗んで食べている。彼女は以前に一度、柳を入れているゴミ箱に飛び乗ろうとして中に落ち、一時間くらい行方不明になっていたという過去がある。
医療ミスで五度も前足の指の切断手術を受けるハメになったあやたん。彼女のルーティーンに、『クスリ』が加わった。朝夕二回、痛み止めと抗生物質を飲んでいるのだが、あやたんは甘い痛み止めが大好き。鎮痛剤のシリンジを見ると大喜びで走ってきて、「ヤク中め!」などとジェイちゃんに言われつつ、シリンジの先を噛みちぎらんばかりの勢いで薬を飲み、そして飲み終わった瞬間に大きくジャンプして逃げ出そうとする。次に来る抗生物質が大嫌いだからだ。一応抗生物質のほうもチェリー味だのバナナ味だのにしてるんですがねぇ。
エリザベスカラーを付けたまま、狭いところにもぐった結果(↑)。
投薬の必要と包帯のせいで、あやたんは約一年間毎日私と一緒に出勤していた。家にひとりで置いておいたら、エリザベスカラーを壁やソファーの角で折って噛み切り、包帯を取ってしまうからだ。そして平均十六時間、緊急手術が続けば三十六時間連勤がザラの私にとって、十二時間毎に薬を与えるとかハードルが高過ぎる。クライアントには、「この薬は半減期が短いから、キッチリ八時間毎に飲ませないとダメですよ」などと言いつつ、内心ではそんなの絶対に無理だろーとか思っている。五種類以上の薬を毎日間違わずにキッチリ飲ませている飼主さんを見ると、処方箋を書いた本人が一番感心している。
「うちの主人が間違えて飲ませちゃったんですけど〜」など聞くと、怒っている奥さんの横で小さくなっている旦那さんに非常に同情する。いや奥さん、ワタシなんて自分のウサギのために自分が処方した薬を自分が朝飲ませたかすら覚えてないんですけどねぇ。
と言うわけで、あやたんの場合、朝のクスリはともかく、夜は大体看護師さん達が飲ませてくれる。人懐っこい上に、隣で犬が遠吠えしてても完全にリラックスして爆睡するほど神経の太いあやたんは病院の人気者なのだが、しかし一度でも不味いクスリを飲ませると、シツコク相手の顔を覚えていて、その看護師さんだけ避けるようになる。
「知ってたら飲ませなかったのに!」とか言い出す看護師さん。
「うさぎって実はすごく執念深いよね。あやたんって子供の頃は常に私の膝に乗ってたのに、一度換毛期に尻の毛を毟ったら、その後余程の事がない限り膝に飛び乗ってこなくなったもん。もう二年以上前の話なのにさぁ」
「いや、それはよっぽどトラウマだったのでは……」
ヒトでも動物でも、全身麻酔はやはりそれなりのリスクを伴う。若くて健康ならリスクはかなり低いが、ウサギや馬など、動物の種類によっては麻酔はそう簡単ではない。肝臓手術も含めて11ヶ月間に六度も全身麻酔したあやたんは、回を重ねるごとに回復が遅くなっていった。
胃腸の動きを活性化させるため、ウサギは麻酔から覚めて数時間後には無理矢理にでも餌を食べさせる。日本の友人がウサギを避妊手術した時、「二日間くらいゴハン食べないかもしれませんよ〜」とか言われて流動食も貰わないままそのまま家に帰されたと聞いて、表面上は顔色一つ変えずに「へえーそうなんだー」とか言いつつ、内心ではコエェ〜と叫んだことがある。ウサギが二日もゴハン食べなかったら鬱滞で死ぬがな!
以前の手術では直後からシリンジを嚙み切らんばかりの勢いで流動食に襲いかかっていたあやたんは、三度目の手術あたりから食欲が戻るのに一週間以上かかるようになった。そればかりでなく、なぜか部屋の隅なんかにフンをするようになった。毎日ではなくて、二、三日に一度のことで、オシッコはちゃんとトイレでしている。子ウサギの頃から一度もトイレを失敗したことがないあやたんに何が起こったのか。何度も麻酔をかけ過ぎて脳細胞が幾つか死んだのか。
「えー? それって結構普通じゃないですか? ウチの子なんて、ピョンと跳んだ勢いでポロリとフンをこぼしてますよ?」とか言う生徒さん。あやたんをそんなオケツの穴のユルイ子と一緒にしないでくれ。
「まぁ本来ならやらなくて済んだはずの手術を何度もやって、これだけ痛い目にあってればねぇ。普通のウサギならストレスで死んでるか、ニンゲン嫌いになってるよ」
あやたんは良い子だねぇとあやたん好きの看護師さんになでなでされて、「そうやねん、あやたんイイコやねん」と満足げに目を細めるもふもふ。五度目の切断手術がようやく成功して、骨の露出がなくなって三週間後、ようやく取れたエリザベスカラーを部屋の隅で見つけた彼女はそれをビリビリに破いて破壊しつくし、短くなった脚をモノともせずに部屋中を駆け回り、飛び跳ねて空中キックし、そしてフン問題は完全に解決した。
「麻酔による脳溢血と脳細胞死を疑ったけど、単に怒ってただけだったのね……」
一粒のフンも落ちていない部屋を眺めてしみじみと感心する。不味いクスリはまだ毎日飲まなくてはいけないし、足はやっぱりまだちょっと痛いけど、手術や包帯や病院のケージで一日中ジッとしていることなんかよりも、唯ひたすらにエリザベスカラーがイヤだったのだ。
実は手術が重なるにつれて、あやたんはあまり私の顔を舐めなくなっていた。
「あやたんナメナメしてくれないの?」と聞いても、フンと顔を背けることのほうが多かった。けれども手術の直前などに、「ああ、今度こそダメかもしれない……」(ウサギは麻酔に失敗して死ぬことが結構ある)と密かに悲しんでいると、ハッとした顔で走ってきて、懸命に私の顔を舐めまわしていたのも本当だ。
執念深く、仕返しを忘れず、意外に怒りっぽく、感情豊かで、他者の感情にも敏感で、そしてヒトを許すことが出来る。小さな身体いっぱいに色々なモノを詰め込み、今日もあやたんは元気に跳ね回っている。
Binking (ビンキング)ー ウサギが全身から溢れんばかりの喜びを、跳んだり狂ったように走り回って表現すること。