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あやたん騒動

挿絵(By みてみん)


「あやたーん、たーだいまー」

 夜10時。あやたんの食い扶持を稼ぐために汗水流して働いて帰ってきた私を、あやたんはいつものように玄関にお出迎えに……来なかった。彼女のテリトリーの六畳間からちらりと顔を出してこちらを見ているが、「どうしたの?」と声をかけても何やらムッと押し黙っている。微妙に違和感を感じつつあやたんのトイレ砂を掃除する。いつもなら掃除中の私の背中によじ登ってくるのに、今日は隣で大人しく眺めているだけ。

「お野菜欲しいかな?」とキッチンに行っても、「ケール、ケール!」と興奮することもなく、しかも皿に入れられたケールを無視した。

「……あやたん、コリコリ欲しいかな?」

 コレも無視。

「……あやたん、バナナは?」

 最終手段、大好物のバナナを顔の前に出してもプイとそっぽを向いた。嫌がるあやたんを捕まえて腹を触診する。腹部はわりと柔らかいが、しかし肝臓を触診するとびくりと震えた。

「ねぇねぇ、うちのあやたんが腹痛起こしちゃって、ちょっと肝臓の辺りに痛みがあるんだけど、どう思う? グッタリはしてない」

 エキゾチック・アニマル科(ウサギ・鳥・爬虫類系専門)の友人に電話する。

「元気そうなら点滴と栄養食あげて様子みたら? ダメそうなら明日一番に連れてきてよ。もちろん急激に悪くなったら、今夜の緊急は私だからいつでも電話してね」

 友人に礼を言い、再びあやたんを捕獲。病院に連れて行き、点滴してシリンジで栄養食を食べさせる。そして家に帰ったところで電話が入った。間の悪いことに今夜の脳外科の緊急担当医は私なのだ。そしてこんな時に限って複雑な症例だったりして、結局そのまま一睡もせずに手術して、終わったのが朝の六時半。いつもならそのまま次の仕事を始めるのだが、家に残してきたあやたんの事が気になり、朝のミーティングをすっぽかして様子を見に家に戻った。フンはしているがやはり何も食べていない。コレはイカン。

 ベッドの下に隠れていたあやたんを捕獲して病院に連れて行く。

「とりあえず血液検査しておくね」という友人に後を頼み、私も自分の仕事に戻る。そして二時間後、自分の患畜さんのMRI検査のかたわら、あやたんの血液検査の結果にチラリと目を通した。肝臓値がメチャクチャ高い。無言で部屋を出て、まずMRI検査中のワンコの飼主さんに電話して手術の必要性などを冷静に話し合い、その後ジェイちゃんに電話。


「あやたんが死ぬーーーーッ」


 昨日の朝まで元気だったウサギが突然餌を食べなくなり、肝臓部に痛みがあり、そして肝臓値が高い。私はウサギの専門医ではないが、コレが99%くらいの確率で肝臓捻転だということくらいわかる。ウサギの右の肝臓は何というか腹腔内でぷらぷらしていて、捻り曲がりやすい。更にあやたんはホーランドロップなので(コーフンしている時の耳はあんまり垂れていないが)、ウサギの種類的に肝臓捻転を起こしやすいのだ。

 胸の深い大型犬は胃捻転や脾臓捻転を起こしやすいが、早く気付いて手術さえすれば死ぬことはあまりない。でもウサギは違う。ウサギの麻酔は難しく、麻酔中の突然死なんてザラだ。そして急性肝臓捻転は出血している場合が多く、犬や猫のように血液バンクが無いウサギはドナーが見つからなければ簡単に失血死してしまう。あやたんのように体重が1350グラムしかない小型のウサギなら尚更だ。でも今はまず超音波検査をして、肝臓捻転及びそれに伴う出血の有無を明確にしなければならない。


 しゃくり上げて泣きつつ廊下を走っていたら、放射線科のトップの教授に出会った。いつも彼相手にMRIの結果を賭けのネタにして冗談ばかり言っている私が号泣しているのをみて、完全にフリーズする教授。愛兎が肝臓捻転を起こしたみたいだと言うと、「じゃあ超音波検査が必要だね、大丈夫だよ」と頭をナデナデして下さった。超音波検査のスケジュールはいつもギッチギチに忙しく、緊急でもなかなか割り込めない。しかし私が廊下をダッシュして超音波検査室に辿り着いた時にはすでに、「イズミ先生のウサギはまだかー」と言いつつ放射線科の他の教授が検査台の横で待機していた。廊下で出会った優しい教授から電話要請があったらしい。


 あやたんを検査台に乗せたところで、脳外科の看護師さんが呼びに来た。

「チワワの脊髄液の採取、他の先生だと上手くいかなかったみたいで……お願いしていいですか?」

 物凄く申し訳なさそうな看護師さんに慌てて謝り、脊髄液採取のために再び廊下を走る。このチワワ、そもそも私の患畜さんなのだ。私情で仕事に穴を空けてはいけません。三分で採取を終えて、再び超音波検査室へ……と思ったところで脳外科の教授から電話が入った。

「急性の脊椎ヘルニアなんだけど、今他に手が空いてる人がいないから、悪いんだけどやってくれる?」

 悪いも何も、今日の脳外科の緊急は私が担当医だ。

「イズミのウサコの方はこっちでちゃんとやっておくからねー」

 教授に礼を言い、そのままオペ室に入る。ちなみに他の科の人達には「あれだけ号泣していた人間にオペやらせるとか、脳外科って鬼」などと言われたらしいが、私をよく知っている脳外科のメンバーは全員一致で「イズミにはオペなんて気が紛れて丁度いいくらいだ」と人々の心配を笑い飛ばしたそうな。


 オペ室に入ると心がしんとする。私はかなり感情的なほうと言いますか、自分のペットが死んだとかでない限り泣くことは滅多にないが、しかし普段はいつも冗談を言い、大声で笑ったり怒ったりイライラしたりしている。けれどもオペ室に入った瞬間にスイッチが切り替わる。飼主さんの相手をする必要もなく、泣いている誰かの話を聞く必要もなく、冗談を言って場を和ませる必要もなく、生徒の質問やERからの要請に応える必要もなく、食事や睡眠やその他山積みの仕事の事を考える必要もなく、唯々目の前にあるモノだけが大事で、自分がやるべき事に集中出来るのがいい。だから、このしんとする感じが好きだ。


「あやめちゃん、やっぱり肝臓捻転おこしてました」

「麻酔科が今準備を始めています」

「手術は準備が出来次第、外科のトップの教授がやってくれるそうです」

「ちなみに輸血用のドナーは、私が自分のペットのホーランドロップを連れてくるから心配しないでね」


 時々誰かがあやたんの経過報告に来る。病院の皆の優しさが心に染みる。皆、手術中の私を動揺させないようにと気遣っているのがわかるが、スイッチの切り替わっている私はにこにこと笑顔で礼を言い、何事もなかったのように手術を続ける。だから学生には陰でマシーンと呼ばれ、ジェイちゃんには「イズミって絶対にサイコパスだよね」などと言われている。失礼な。しかし、「手術費は入院も含めて五千ドル前後……」と言われた時には一瞬手が止まった。

「あー、そう言えばあやたんの健康保険、三日前に切れたんだよなー」

「え?! まじで?!」

「うん、アメリカってウサギが入れる健康保険ってひとつしかないじゃん? それで足元を見てくる感じがムカついたから、更新しなかったんだよね」

「うわー、それは大変ですね……」

「まぁでもワタシ、それなりに金を稼ぐヒトと結婚してるからさ。結婚も保険の一種だよねー」

 あははは〜と笑って手術を続ける。ちなみにこの後ジェイちゃんにこの話をすると、「え?! あやたんの手術費はイズミとボクとで半々だよね?!」などと言ってきた。

「半々なわけないでしょ。ジェイちゃんのほうが稼ぎがいいんだから。稼ぎの比率で幾ら払うか決める」

「でも来年からはイズミの方がはるかに稼ぎよくなるよね?!」

「そんなの関係ない。今現在払う金の話をしてるんだから」

「……確かに今はボクのほうが給料は良いかもしれない。でも給料の高低だけじゃなくて、あやたんに対する愛情の深さも計算に入れるべきだと思う」

「今まさに生死の境をさまよっているあやたんに対して愛してないとか言うなんて、ジェイちゃんは鬼畜だ」

「ボクだって愛してないわけじゃないけど、でもどう考えてもイズミのほうがあやたんを愛してるじゃないか! そもそも手術は上手くいったんでしょ?!」

「外科のトップがやってくれたからね。手術自体は25分で終わったけど、体温が下がり過ぎたから麻酔はかけたまま状態が安定するまで人工呼吸器にかけてある。ちなみに私のあやたんに対する愛は無限大だから、数値を無限大で割ることは出来ないから、だから考慮するのは現在の給料比率のみということにします」


 あやたんは無事手術を終え、静脈カテーテルを入れていた右前足の包帯がキツ過ぎてパンパンに腫れ上がるという事故はあったものの、それ以外は後遺症もなく四時間近くかけて麻酔から目覚めた。そして痛み止めのモルヒネ系の薬で機嫌良くラリっていた。

 ちなみに普通は右側の肝臓の極一部が捻転するものなのだが、あやたんは豪快に右側全てを捻転させていて、お陰で肝臓を約35%ほど失った。

「こんな威勢良く捻転させる子、初めてみたわー」とか友人の医者にまで言われてしまうあやたん。

「他にぷらぷらしてて危なそうで要らない臓器とかあったら、ついでに全部取っといて欲しいんだけど」などと獣医らしからぬことを言い出す飼主。


挿絵(By みてみん)


 エキゾチック・アニマル科に他に入院患畜がいなかったということもあり、三人の生徒さんに付きっきりで構われるあやたん。数時間毎にシリンジで餌を飲ませてもらい、点滴を打ち、薬を貰う。あやたんはシリンジの餌には抵抗していたが、飲み薬の抗生物質と痛み止めは大好きだった。ニンゲンの子供用の薬で、バニラ・チェリー味とからしい。このクソ不味い人工甘味料を好むあたり、ジェイちゃんに似ている。

 あやたんは二日ほどすると少しづつ自分で餌を食べ始めた。しかし少し変わりモノのあやたんは、病院が使っている柔らかな干草が嫌いだった。干草は刈る順番によって硬さが変わる。一番目に刈られたモノは花穂は多いが茎っぽくて硬く、三度目に刈られたモノはフワフワと柔らかい。普通のウサギは柔らかな干草が好きだが、あやたんは子ウサギの頃から茎っぽいバリバリした干草が好きなのだ。

「馬の家畜病棟まで行けばファーストカットの干草があるかも知れないから、生徒に探しに行かせるわー」とかいう友人を止めて、家からファーストカットの干草を持って行く。ちなみにファーストカットの方がウサギの歯には良い。

 しかし翌日。

「昨日は結構食べてたのに、今日は野菜をあげても全然食べないんだよねぇ。よく動き回ってて元気そうではあるんだけど……」

 かなり広いケージの中には、あやたんが埋まって見えないほど多種多様な野菜が置いてある。

「……あー、ごめん。うちの子、なんと言いますか、冷蔵庫から出されて一時間以上経った野菜とか、萎れた野菜は食べないんだよね……」

 エキゾチックアニマル科の看護師さんはそれを聞いた途端に無言で財布を掴み、市場に新鮮な野菜を仕入れに行った。


挿絵(By みてみん)


 ところであやたんの手術をしたのは火曜日だったのだが、私はその週の土曜日の朝五時に日本へ帰国する予定だった。帰国を取りやめるべきかかなり迷ったのだが、金曜日の朝にはあやたんはかなり元気になっていたので、一応月曜日まで入院させ、その後様子を見てジェイちゃんに迎えに来て貰うことにした。

 金曜日の真夜中、誰もいない病室であやたんを膝に抱き、一人と一羽で少しウトウトする。只今換毛期真っ只中のあやたんは、いつもなら私に毛を毟られることを警戒して抱っこを嫌がるのに、今日は自ら膝に抱きついている。元気にしていても、やはり独りぼっちは不安なのだろう。それにしてもいつものことながら、今週もかなり寝不足気味だ。月曜と水曜は一睡もしなかった。木曜の夜も手術が長引き、結局家に帰ったのは朝の二時で、文献を調べようとしてそのまま机で寝てしまった。おかげで今朝起きたら首がバキバキに凝り固まっていた。

 金曜日は本来ならカルテだけ書いていればいい日のはずだったのだが、緊急手術が多過ぎて、私のほうにも要請が回って来た。これはお互い様だから仕方がないし、手術そのものは全く苦にはならない。けれども担当したワンコの飼主は高校生くらいの女の子で、ワンコの状態もかなり悪くて、ドリルで削って露出させた脊髄はちょっとギョッとするほど青黒くて(本来なら脊髄は白色で表面に細い血管がうっすら見える程度)、アレを見た瞬間、涙を堪えていた女の子の顔を不意に思い出してしまって、思わず自分の命を一年分くらいあげてもいいから代わりにこのワンコに良くなって欲しいなどと思ってしまったのだ。

 あやたんの一件があったばかりで、少しばかり客観性を失っていたのだろう。別に本当にこっちの命が縮むワケでもないし、思うくらいなら別にいいのかも知れない。でも私はそんな風には思いたくない。神頼みというか白魔術というか形の無い祈りというか、己の力量以上のモノをそんなあやふやなモノに求めてしまう心の弱さや客観性の無さが嫌だと思う。そしてそんな事を思って仕事を続けていたら、命とは言わないまでも、全く誰の得にもならない形で自分の中の何かが少しづつ削られていってしまうような気がする。ちなみにこれは私自身の問題なので、他の人達が何を考えて手術しているのかは全く気にならないし、はっきり言ってどうでもいい。


挿絵(By みてみん)


 二時間ほどあやたんと過ごし、明け方に日本に発つためにシスコの空港に向かった。そして、仕事しなきゃ……と思いつつ、ラップトップにヨダレを垂らす勢いで空港で爆睡。

 あやたんは月曜日に無事退院した。あやたんはジェイちゃん宅の階段を駆け登ったり駆け下りたりするのが大好きなのだが、そんなことをして腹の手術痕が開いたりしたら大変だ。ジェイちゃんのベッドルームに閉じ込められた彼女は隙を見ては部屋を飛び出そうとしているらしい。そして美味しい薬はいいが、苦い薬は逃げ回って飲もうとしない。

「だからね、廊下の階段の前にゲートを作って降りれないようにしてから、ベッドルームを開けたんだ。そしたらあやたんが弾丸みたいな勢いで飛び出してくるでしょ。で、その直後にドアを閉めれば、狭い廊下に閉じ込めて捕まえやすいから。そしたらね、即座に罠にかけられたことに気付いて、『ダマしたな ?!』って感じでボクに向かってダンダンッて足を踏みならして憤慨してた」


 傷口が完全に塞がるまで十日程、ジェイちゃんとあやたんの攻防は続く。


挿絵(By みてみん)

脊髄が紫色に腫れていたワンコはその後一週間もしないうちに脚の機能を取り戻し、無事退院していきましたとさ。

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