かちかち山の怒り
あやたんは怒った。
行き場のない憤りに小さな身体を震わせながら、ウ〜ッと唸り、ダンダンッと床を蹴る。事の元凶はジェイちゃんだ。
彼女がまだ子ウサギだった頃、あやたんは二週間に一度という頻度で週末にちょろっと家にやって来るジェイちゃんの存在を中々認めようとはしなかった。ウサギは往々にして習慣や環境の変化を嫌う。家具の配置と家族構成が変わらない家で、毎日同じ時間に餌とおやつを貰い、同じ時間に同じ場所で遊び、昼寝する、というのが多くのウサギの理想。いつも忘れた頃にひょっこり現れるジェイちゃんは、あやたんの穏やかな生活を乱す敵以外の何者でもなかった。
「あやたんはね、この頬っぺたのフクフクしたところをムシュムシュされるのが好きなんだよ」
「ふーん」
寝ているあやたんの頬っぺたを指でムシュムシュしようとしたジェイちゃん。途端に跳び起き、シャーッと叫びながらジェイちゃんに連続うさパンチを食らわせるあやたん。驚きのあまり尻餅をつくジェイちゃん。
「コワッ! 撫でてあげようとしただけなのに、なんで怒ってるの?!」
「ああ、ウサギはね、『撫でてもらう』なんて思ってなくて、『撫でさせてやっている』って思ってるから。ウサギ社会ではグルーミングをしてもらってるヤツが一番上で、そのウサギに気に入られた特権階級のウサギだけが強者をグルーミングすることを許されてるわけ。つまりウサギを撫でるのは選ばれた者だけに与えられる特権なんだよ。その権利を与えられていないジェイちゃんが頬っぺたムシュムシュなんてしようとしたから、あやたんは怒ったんだよ」
「べ、べつに、ムシュムシュする権利なんて欲しくないっ」
非特権階級者の僻みを全面に剥き出すジェイちゃん。しかし彼は私が見ていない隙に懸命にリンゴの皮やらバナナのカケラ等の貢ぎ物を供え、ようやく『機嫌の良い時だけはムシュムシュさせてやらんでもない』という準特権階級にアップグレードしてもらっていた。
あやたんの主食はチモシーという干草。一番健康的で、そして多分一番美味しくない。しかし彼女は一日に自分の体積の四倍ほどのチモシーをペロリと平らげる。他にオーチャードグラスという柔らかくて甘めの干草をほんのひと握り。あやたんは目の色を変えてコレを食べる。他にもマメ科の干草でアルファルファなどもあるが、これは家でゴロゴロしているだけのウサギに食べさせるにはあまりにもカロリーとカルシウムが高いので、あやたんにはあげない。ちなみにウサギは尿結石を作りやすいので、成長後のカルシウムは控えめがいい。
干草の他にも一日二回、新鮮な野菜をあげる。あやたんはケール、ルッコラ、シアントロが好き。ちょっとでも萎びると絶対に食べないので、萎びた野菜はニンゲンが食べ、彼女には常に買いたてのブツを提供している。
ちなみに以前、野菜売り場でタンポポを見つけて買ってみたのだが、あやたんは一口食べた途端、「ゲ、ナニコレマズイ」と顔をしかめた。子供の頃に読んでいた絵本のふわふわウサギは可愛いタンポポを嬉しそうに食べていたのに……と思って私も試食してみたのだが、本当に苦くて不味かった。アク抜きでもしなければ、とてもじゃないが食えん。ってか、そこまで手間暇かけて食べたいと思えるシロモノでもない。なのでお土産と称して家に遊びに来たジェイちゃんにあげた。
あやたんは柳の枝も好き。1メートルくらいの枝なら10分程度で完食する。と言っても、どの柳でも良いわけではなく、ジェイパパの川に生えている柳か、ジェイちゃんが働いている会社……の隣の会社の敷地内に生えている柳が好き。私が働いている大学構内の柳は嫌い。なので、ジェイちゃんは毎週金曜日、夜中に隣の会社の柳の枝を失敬してきている。四本もある大きな柳の枝を数本失敬したところでどうということもないだろうが、「いつか不審者として捕まるかもしれない」と怯えるジェイちゃん。目立たないように黒っぽい服で行くらしいが、それってかえってヤバイ感じではないだろうか。
あやたんの一番の大好物はバナナ。甘い果物等の嗜好品は二週間に一度、ほんの一欠片しか貰えないのだが、「あやたーん、バナナだよー」と呼ぶと、目の色を変え、壁にぶつかる勢いで走ってくる。そして私の手からバナナを皮ごと奪い、走って逃げようとする。
「そんなのダメに決まってるでしょ!」とバナナを取り上げたら、シャーッと叫んでうさパンチを繰り出してきた。そんなにバナナが好きでも、私の指先についたバナナは小さな舌でペロペロと舐めるだけで、絶対に指を噛んだりはしない。意外に冷静だ。
ところで厳しい母により、厳選された食生活を送るあやたんのフンは物凄く立派だ。たった体重1.2キロのドワーフ種なのに、体重が3キロほどあるウサギよりもフンが大きい。ウサギ専門の同僚にも、「あやたんほど綺麗で立派なフンは見たことない! スゴイ!」と感心されている。もちろん下痢や便秘をしたことなど一度もない。たまにピスタチオ級のフンをして、「切れ痔にならないの?」とジェイちゃんに心配されている。
「こんな不味そうなモノじゃなくって、甘〜いサツマイモとかジューシーな梨とかあげてみなさいよ〜、目の色変えて食べてすごく面白いんだから〜」などと言う我が母。私が幼少時に飼っていたピコちゃんがしょっちゅうお腹を壊していたのは、彼女のせいだろう。
バナナ以外であやたんが一番好きなのは、実はウサギ用ペレット。チモシーベースのコリコリ固形食だ。一日に小匙一杯貰うだけなのだが、なぜかコレが大好き。コリコリを猫用のプラスチックボールに入れて渡せば、以前はサッカー選手並みの器用さでボールを転がしてコリコリゲットに情熱を燃やしていた。しかし最近、ボールに蓋があることに気付いた彼女は、ロックの部分を咥えて凄まじい勢いで振り回して蓋を開け、悠々と中身を食べる技術を学んだ。そこらの犬よりよほど賢い。賢いついでに、コリコリを使って『伏せ』を教えてみた。
コリコリ大好きあやたんは、家中どこに隠れていても、固形食の袋をガサゴソと動かせば一瞬にして目の前に出現する。だから、あやたんをおびき寄せたい時は、袋をガソゴソすれば良い。
ここで話は始めに戻る。
ジェイちゃんが二週間ぶりに我が家へやって来た。ベッドルームの床にエアマットレスを膨らませ、そこに寝転んでフットボール観戦したいジェイちゃん。私のベッドはマットが固くて嫌らしい。しかしあやたんはジェイちゃんのエアマットが大好きだ。隙をみてはエアマットに飛び乗り、ジェイちゃんの腹を踏みつけ、頭の上を障害物走のように飛び跳ね、ついでに時々顔を蹴っていく。
「アヤメがいるとゆっくりしない!」
ベッドルームから出て来たジェイちゃんが、あやたんのコリコリの袋をガサガサと鳴らした。そしてぶっ飛んでリビングルームに出て来たあやたんと入れ違いにベッドルームに戻り、ガチャリとドアを閉めた。そしてその数秒後。
ウ〜ッ、ウ〜ッと唸りながら、ダンダンッと床を踏み鳴らすあやたん。あやたんは元々お喋りな子だが、普段の声は耳を澄まさないと聞こえないくらい小さい。それがキッチンで料理している私がびっくりして振り返るほどの大声で喚いているのだ。
「あやたんどうしたの?」と聞くと、あやたんは怒りに身体をふるふるさせながらベッドルームに走って行き、閉じられたドアをガリガリと引っ掻きむしった。その血走った眼にベッドルームから締め出された以上の憤りを感じて、ふと気付く。もしや、ジェイちゃんは袋をガサゴソしただけで、あやたんにコリコリをあげなかったのではなかろうか?
しかしリビングルームに戻ってよくよく見てみれば、なんのことはない、ジェイちゃんはコリコリを床にパラパラと撒き散らしていた。しかしあやたんはいつもきちんとお皿かボールにコリコリを貰うので、まさかジェイちゃんがそんなだらしない真似をしたとは思ってもみなかったのだろう。だから床のコリコリに気付かないまま、ジェイちゃんが自分を騙したと思って怒っているのだ。
「あやたーん、コリコリあるよー」と呼んで、拾ったコリコリをお皿にいれてやる。慌てて走ってきて、コリコリを貪るあやたん。
「よかったね」とあやたんをナデナデしてやる。しかしそんなことで、彼女の怒りはおさまらなかったのだ。
その後一時間ほど、あやたんはソファーでくつろいでいた。しかしジェイちゃんがベッドルームのドアをガチャリと開けた途端、物凄い勢いでソファーから飛び降り、ベッドルームに駆け込んだ。
「アッ! あや! うわ! ばか!」と悲鳴を上げるジェイちゃん。
あやたんはベッドルームに駆け込むなり、いきなりジェイちゃんのエアマットに噛みつき、一瞬にして大穴を開けたのだ。
あやたんは決して家具や電気コードを噛んだりしない子で、もちろんジェイちゃんのエアマットも乗って遊ぶだけで噛んだりしたことはない。そのあやたんが、エアマットを噛み切った。
「今のは完全に『穴を開けてやる!』って明確な意志を持って噛みついてた……行動になんの迷いもなかった……」
プシューッと空気の抜けてゆくエアマットの前で呆然とするジェイちゃん。
「そんなのジェイちゃんが悪いんじゃん。あやたんはジェイちゃんに騙されたと思ってるからね。食べ物の恨みは恐ろしいんだよ」
たとえ私にコリコリを貰ったとしても(本当はジェイちゃんが床に転がしたコリコリを皿に入れてあげただけだが)、それはジェイちゃんがくれるべきだったモノとは別モノだ、とあやたんは信じているのだ。
騙された(と思い込み)恨みを忘れず、きっちり仕返しするあやたん。中々凄まじいではないか。童話の世界でタンポポを食べる愛らしいホワホワうさたんの真逆をいく。と、ここまで考えたところで『かちかち山』を思い出した。アレって、善良なおばあさんを騙して殺し、さらにそれを鍋にしてお爺さんに食わせた性悪タヌキにウサギが全身全霊で報復するって話ですよね? それもヤケドに辛子を塗り込むという地味にダメージのある嫌がらせから始まり、泥舟でゆっくりと溺れ死ぬ恐怖を演出するなど、中々ダークで容赦がない。
泥舟ならぬ、空気の抜けるエアマットで床に沈んでいくジェイちゃんを眺めつつ、かちかち山のウサギさんはきっとあやたんのような性格だったんだろうなぁ、と昔話に想いを馳せた。
成敗された狸ならぬジェイちゃんから一言。
「ボクは誰も殺してないし、あやたんを騙したわけでもない! あやたんの勝手な勘違いじゃないか!」