居候
とある事情でダックスフントを預かる事になった。九才オス、キニーブルくんだ。
ダックスフントは遺伝的に椎間板ヘルニアにかかりやすい。これはダックスフントに限らないのだが、もしあなたがテリヤ、チワワ、フレンチブルドッグ等の小型犬を飼っていて、その愛犬がソファーから飛び降りた直後に妙に背中が痛そうだったり、ある朝起きたらなぜか後脚をズルズルと引きずっていたりしたら、即座にケージに入れて動き回らないようにして獣医に診せて下さい。症状が軽い場合は4〜6週間ほど安静にしていれば自然治癒することもあるが、下手すれば一生下半身不随になりかねない。私が夜中に急患で叩き起こされる理由の七割がコレだ。残りの三割はテンカン発作と交通事故による脊椎骨折とか。
下半身不随になって一番困るのは、自分でオシッコが出来ないということ。ヘルニアで圧迫された脊髄の部位にもよるが、犬のヘルニアで一番多いのはちょうど背中の真ん中辺り。ここら辺を損傷すると尿道が締まってしまい、反対に膀胱の筋肉は縮まらず、放っておくとどんどん尿が溜まって膀胱が伸び切ってしまう。そして膀胱の筋肉は回復不能、更に膀胱炎等の二次災害へと続くので、そうならないように飼主さん達に犬のお腹を押して膀胱を空にするやり方を教える……んですが、これが結構難しい。
「13番目の肋骨の背後に沿って指を滑らせた時に指先に触れるのが肝臓で、その真後ろのプルンとした猫の舌みたいなのが脾臓です。腹部の真ん中のゴチャゴチャしたチューブ状のものが腸で、腹部の後方の下辺りにある水風船みたいなのが膀胱です。あ、この子の場合は直径5センチくらいのミカンみたいな触り心地ですね。腸や脾臓を避けて、膀胱だけを両手の間に隔離して、ゆっくりと押して下さい。あ、ちなみにこの時に間違えて尿道と膀胱の繋ぎ目を押しつぶしちゃってると、膀胱破裂するんで気を付けて下さいねー」
大抵のヒトは「コイツ何ほざいてるんだ?」って顔をしつつ、しかし愛犬の為にと頑張って腹部を押してみる。しかしどう見てもどれが膀胱か解って押している感じではなく、というか脾臓ちょっと潰れてんなーって感じが無きにしも非ず。
「水風船なんてありません。もうオシッコ全部出ちゃったんじゃないですか?」
「どれどれ、じゃあちょっと選手交代で」
ピッと押せばとシャッと飛び出るオシッコ。
「……先生がやるとものすごく簡単そうなのに……」
「まぁ私はコレが仕事ですから。って言うか、冗談でなく毎日がオシッコの出ないワンコ達との戦いですから」と涙目の飼主さんを慰める。
腹を押されまくって迷惑顔のワンコを宥めつつ、頑張って頑張って、遂にピャッと飛び出る黄色い液体。きゃーと歓声を上げる生徒達と上気した顔で小躍りする飼主さん。
「まさか飼い犬のオシッコを見てこんなに喜ぶ日がくるとは思ってもみなかった」
だから私はコレを黄金水と呼ぶ。
話は戻ってキニーブルくん。彼は脊髄の損傷が激しく、緊急手術したにもかかわらず下半身が麻痺したまま一週間が過ぎようとしていた。飼主さんはかなり年配のおじいちゃんで、少ない貯金を崩してキニーブルくんのMRIと手術費(日本円で約九十万)を捻出したらしい。しかし残念ながら一向に良くなる気配がない。
「自分も歳で、もうそろそろ介護が必要になりそうなのに、この先何年も犬の介護ができるとは思えないし、入院費もこれ以上はお支払いできそうにないし、そもそも自力で歩けないようではキニーブルも不幸なので、二週間経っても足に感覚が戻って来なかったら、安楽死させます」
それは決して間違った選択ではない。おじいちゃんは愛犬の為に出来ることは全てやったのだし、手術前には手術しても駄目かもしれないという説明はきちんと受けている。
「そうですか。解りました。では、これから二〜三週間、私がキニーブルくんを預かります。と言っても私も日中は病院なので、出来れば病院のケージを使うデイケア費だけ払って下さい。入院だと1日150ドルですが、デイケアだと23ドルなので。それも無理そうなら、デイケア費は脳外科持ちに出来ないかどうか、脳外科のトップ(超優しい)に頼んでみます」
別に手術をしたにもかかわず状態が回復しないことに責任を感じているわけではない。そもそもキニーブルくんを手術したのは私ではないのだ。私はキニーブルくんの手術の前日に手術用ルーペを落として割ってしまい、あの夜の緊急手術はスゴ腕の教授に代わって頂いたのだ。
「じゃあなんで?!?! なんで半身不随の犬とか連れて帰って来てるの?!」
『新同居犬。キニーブルくんとあやたん♡』なる写メを見て悲鳴を上げるジェイちゃん。
「彼を連れて帰ってきたことに特に理由はない。まぁ敢えて言うなら、キニーブルくんは顔も可愛いし、性格もめっちゃ良い。キニーブルくんには『知らないヒト・動物』という感覚がなくて、みんな『まだ会ってないトモダチ』なんだよね。足が動かなくても下半身不随の犬用カートがあるし、たとえおじいちゃんが飼えなくても、この子ならオシッコの世話さえ出来れば大変でも可愛がって飼ってくれるヒトが見つけられる」
「その『飼ってくれるヒト』って、つまり和泉先生のことですか?」と笑う生徒達。
いや、朝六時から夜十二時まで働くのが普通で、酷い日はそのまま家に帰らず一晩中緊急手術し続けて、一睡もしないまま翌朝から普通に診察が始まるという生活をしている自分には無理です。
キニーブルくんを初めて連れて帰った夜。
突如の侵入者の姿に「ぬおおおナンダナンダ?!」と驚いてベッドルームに隠れるあやたん。非常に強気なあやたんだが、やはり狩られる側の生き物。大昔はウサギやキツネ狩りに使われたダックスフントを見てストレスを感じて腹痛とか起こされたら、この計画は失敗に終わる。
しかしあやたんはほんの五分ほどでベッドルームから出てきた。そして後脚で立ち上がり、ケージに入れられたキニーブルくんを実に興味深げに眺めている。キニーブルくんも不思議そうにあやたんを見ているが、吠えたり飛びかかったりする様子もなく、大人しくしている。それに気を良くしたのか、ちょっと目を話した隙に、キニーブルくんのケージの中にソロソロと入っていくあやたん。狩られるイキモノの自覚ゼロ。しかしキニーブルくんだって下半身不随と言えど、動こうと思えば意外なほど速く動けるのだ。
「あやたん! 危ないからやめなさい!」と私に叱られて渋々ケージから出て行くあやたん。しかし数分後にはまたケージに入り込み、キニーブルくんの皿やブランケットの匂いを嗅いで遊んでいる。そうして少しづつ、少しづつ寝ているキニーブルくんに近づき……不意にひょいと頭を上げた彼にペロリと顔を舐められた。
ぎゃっと飛び上がって驚くあやたん。さすがに顔を舐められるのは嫌だったらしい。懸命に顔をこすって洗い、その癖、一分も待たずにまたキニーブル見物に行く。まさにコワイモノナシのあやたん。もしかしたらキニーブルくんのことを「ちょっと変わったウサギ」くらいに思っているのかも知れない。時々思うのだが、ペットの動物ってどうしてここまでアホになれるのか。絶対に野生では生きていけない。
「キニーブルくんはイイコだねぇ」
あやたんを襲う様子を全く見せないキニーブルくんをよしよしと撫でてやる。と、それまで機嫌良くぴょこぴょこしていたあやたんが、不意に耳を伏せてこめかみを引きつらせた。続いてウーウーと唸りながらダンダンッと後脚で床を蹴りつける。あやたん最大級の怒りと不機嫌の表現だ。
「なに? どうしたのあやたん?」
撫でてやろうと伸ばした私の手から飛び退き、うにゃにゃにゃにゃ!と叫んで再びダンダンッと足を踏み鳴らす。そんな彼女の姿に思わず吹き出してしまった。我が家の生き物の中では一番好き勝手に生きているようにしか見えないあやたん。でもやっぱりヤキモチは焼くらしい。
翌朝。普段は五時に起きるところを、キニーブルくんの世話をするために四時半に起きる。オシッコさせて、餌をやり、ケージのドアを閉めないままバスルームにちょっと物を取りに行って帰って来たら、バスルームの前までキニーブルくんが這って来ていた。そして彼が這いずった後にはリビングルームからバスルームまでドロドロの下痢が……。
「Shit!」と叫んでキニーブルくんを抱き上げる。
「Oh shit! Oh shit!(タイヘンだタイヘンだ)」とコーフンしたあやたんが下痢の上を駆け抜け、家中を走りまわり、更に被害を広める。やめれ。
二匹を捕まえ、シャワールームに放り込んでシャンプーし、床にモップをかける。仕事には遅れた。
キニーブルくんにはやはり貰われっ子的な遠慮があって、面と向かってあやたんに嫉妬したりしない。しかし冷蔵庫の野菜室が開く音であやたんがぶっ飛んでキッチンに来ると、自分も慌ててやって来る。そしてあやたんと並んで私を見上げる。あやたんの食べるモノはボクも食べれる! と信じている彼は、ルッコラを美味しいそうに食べるあやたんを見て、自分も即座にルッコラを頬張る。
「……なにこの草」
変な顔をしてペッとルッコラを吐き出すキニーブルくん。しかし干草を固めたウサギ用固形食はなぜか気に入っているようだ。
キニーブルくんが我が家に来て二週間が経った。リハビリセンターから借りてきたカートを使って元気に歩き回るキニーブルくんを見て、おじいちゃんはアマゾンでカートを購入したらしい。今日は膀胱を押してオシッコをさせる練習もした。来週の半ばあたりに一度家に連れて帰って、ダメモトで介護を試してみることにしたらしい。
うん。本当は最初から、きっとそうなるだろうと思っていた。
補助カートを使える犬にとって、痛みさえないならば、歩けないことは不幸ではない。そして多少生き方は変わってしまっても、元気な愛犬の姿を見て、考えて、納得する時間さえあれば、多くの人はやはり飼い続けたい思うものだ。でも覚えておいて欲しい。もし試してみて大変なら、ひとりで無理する必要など全くないということを。