醍醐味
「あやた〜ん♡」
ケージで手足を伸ばして昼寝していた我が愛兎が、ピクリと耳を動かす。けれどもそのまま起き上がろうとはせず、片耳だけこちらに向けている。彼女は一応ブリーダーから貰ってきた純血種のホーランドロップなのだが、左耳が垂れずに立っている。私の膝でリラックスして寝ている時は垂れているが、興奮すると両耳が立つ。けれども普通のウサギのようにピンとした感じではなく、走るとダンボのようにバタバタと耳が羽ばたいている。
「あやたん、Come!」
肩越しにチラリと振り返り、ジッとこちらの様子を窺っているあやめちゃんに向かって、勉強机に常備している青いお猪口を揺すってみせる。お猪口の中身(ラビット用カリカリ固形食)がカシャカシャと音を立てた途端に元気に両耳を立て、「ぷぷぷぷぷぷ」と鳴きながら慌てて駆け寄ってくるあやめちゃん。たった三粒の固形食を貰うのにキラキラと目を輝かせ、猛烈な勢いで私の足の周りをグルグルと駆け回っている。食生活に厳しい母により固形食は一日に大匙一杯半と決められているとは言え、ちょっとコーフンし過ぎではないだろうか。
あやめちゃんは生後五ヶ月で避妊手術をした。ウサギはちょっとした環境の変化やストレスですぐにお腹が痛くなり、食欲がなくなり、胃腸が動かなくなり(=鬱滞)、アレヨアレヨと言う間に死んでしまったりする。そんなデリケートなウサギの手術で怖いのは術中麻酔(自発呼吸が止まることが多いので人工呼吸器が必要な上、コロリと死ぬことが結構ある)、そして術後の鬱滞だ。ウサギは胃腸の活動が止まるのを防ぐ為、麻酔が覚めたら数時間で餌を与え始めるのだが、普通のウサギは中々食べたがらない。手術と麻酔のダメージでぐったりしているウサギの口をこじ開け、専用の流動食をシリンジを使って少しづつ飲ませていく。
ところでこの流動食、バナナとリンゴ味ですごく美味しそうな匂いがする。
「では和泉先生のあやめちゃんにコレを飲ませて下さい。嫌がると思うので、二人でペアになって、暴れないようにしっかり抱っこして」
ウサギの専門医にシリンジを渡された学生さんが、恐る恐るあやめちゃんの鼻先にシリンジを近づけた。と、それまで死にかけのウサギのようにぐったりしていたあやめちゃんは、ハッとした顔でシリンジを見つめ、次の瞬間目の色を変えてそれにむしゃぶりついた。
逃げないように抑えつける必要全くナシ。と言うか、学生がモタモタしていると、「早くよこさんかいッ」と凄い勢いで突進し、更にガガガガガッとシリンジの先を噛み切ろうとするので、一人がそれを止め、もう一人がシリンジで飲ませ、三人目が餌を切らさないように次々と流動食を入れたシリンジを用意する係りとなった。うむ。まるで私がまともな食事を与えていないようではないか。
「うわ〜、あやめちゃん可愛い〜♡ ウサギの餌やりって面白ーい」と喜ぶ学生達。
「……あやめちゃんは特殊な例です。普通はこんなに簡単じゃないので、勘違いしないように」とか言ってる先生。ちなみに普通は1cc の細いシリンジを使って飲ませるのだが、それでは供給が間に合わず、あやたんが癇癪を起こすので私は家では60ccのシリンジを使っていました。
話を戻そう。
以前は呼べば即座に膝に飛び乗ってきたあやめちゃん。最近は呼ばれても知らんぷりしていることが多い。それどころか、私が手を伸ばすと横っ飛びに逃げる。私が嫌いになったわけではない。目覚まし時計が鳴ると毎朝必ずベッドに飛び乗ってくるし、シャワーを浴びていても洗濯物を畳んでいても、常に私の後ろに付いてまわっている。床に寝転ぶとお腹の上に飛び乗り、更に私の鼻先を小さな舌でペロペロと舐めてくれる。ウサギがヒトを舐めるのは、最高の愛情表現のひとつだ。でも私に抱かれたくはない。頭を撫でて欲しくて仕方ない癖に、私の手に近づきたくないから、代わりに私の足の裏に頭を擦りつけている。
何故あやめちゃんはヒトの足の裏に癒しを求めるようなウサギに成り下がってしまったのか。
その原因は換毛期にある。
ウサギは年に四回の換毛期があり、特に春と秋の換毛期の毛の抜け方は凄まじい。どれほど凄まじいかというと、頭から尻尾の先まで、全身の毛が一本残らず生え変わるのだ。一ヶ月ほどかけてゆっくり抜ける子もいれば、数日で全て抜けてしまう子もいる。性格がダイナミックなあやめちゃんは、毛の抜け方もダイナミックだった。
ボソッボソッと束になって全身の毛が抜ける。頭や頬っぺたの毛まで束で抜ける。ウサギは猫のようによくグルーミングする生き物だが、換毛期には自分の毛を飲み込んでしまう。猫は飲んだ毛を吐けるからいいが、ウサギは胃の内容物を吐くことが出来ないので、溜まった毛で胃腸が詰まり、鬱滞を起こして死んでしまうこともある。だからそんな悲劇を防ぐ為に、私はあやめちゃんを捕まえて、ブラシ等でのグルーミングでは間に合わないから指で普通に毟ることにした。
毟った先にはまだ短いがちゃんと新しい毛が生えている。これでも一応獣医なので、間違っても生え変わる準備の出来ていない毛を毟ったりはしない。そうやって、ムシムシッと二時間くらいかけて背中の毛を毟ったら、あやたんは呼ばれても返事をしない子になってしまった。
顔コシコシ
耳フキフキ
「あやたん! 今日の分もヤるから、サッサと来なさい! あやたんの為なんだからね!」
ベッドの下に逃げ込もうとするあやたんを捕獲。一旦捕まってしまうと、彼女はムッとした顔をしつつも抵抗することはない。
「そんな、シチューになる前のウサギじゃあるまいし、毛を毟られるなんて誰だってイヤなんだよ! そもそもイズミってあやたんの為とか言ってるけど、本当は毟るのが楽しいだけでしょ?! 病的なママでカワイソウなあやたん!」などと言ってあやめちゃんの肩を持つジェイちゃん。ヤツは以前に私に眉毛を抜かれて以来、毛抜き行為には敏感なのだ。
「そんなサドじゃあるまいし、可愛いあやたんを痛めつけて私が喜ぶわけないでしょ。そもそも抜ける毛しか抜いてないんだから、肌も赤くなってないし痛くなんてない」
新しい毛はまだ短く、抜ける準備の出来ていない毛はツルツルしている。それに対し、古くて抜ける毛はパサパサした感触。パサパサの毛が束で生えている部分を探し、ムシッ。
……ヤバイ。これはかなり楽しいかもしれない。
そうやってあやたんを毟りまくった夜。
電気を消して目を瞑った途端、あやたんの毛皮のビジョンが瞼の裏に浮かび、指先にパサパサの毛の感触が甦った。そしてウズウズと疼く指先……。思わずベッドから飛び起き、あやたんを捕まえにいきそうになった。
これはアレですな。ゲーム等にハマった経験のあるヒトなら解って下さるのではないだろうか。私はテトリスやぷよぷよ系の落ちモノゲームが大好きで、それこそ寝食を忘れてハマってしまうのだが、そんな時に寝ようと目を瞑るとテトリスのブロックが次々と瞼の裏を過っていき、眠れなくなる。そして結局明け方まで独りゲームをしてしまったりする。こういう場合、ジェイ爺は「イズミには付き合いきれない」とか言ってサッサと寝てしまう。
まさかウサギの換毛期にテトリス的コーフンを覚えようとは思わなかったが、まぁこれもウサギを飼う醍醐味のひとつなのではないかと思っている。
ウサギシチュー……ではなくて、これがウサギのX線の撮り方。
和泉ユタカ
趣味: 乗馬、読書、ウサギの毛ムシリ




