飛ばない鳥
飛べない鳥という言葉には何やら悲壮感が漂う。我が家には飛ばない鳥がいる。飛べないのではない。自らの意思で飛ぶことを拒否ってる……と言うか、「飛ぶとかメンドクセー。やってらんねーぜ」と怠惰で自堕落な生活に堕ちつつある鳥だ。
ハチドリの伊吹くんことジュニパーくんが我が家にやって来て十日。家に来たばかりの頃、私の手の中で時折ブーンブーンと翼を振り回し、ゆっくり落下運動を繰り返していたジュニパーくんだが、なぜか最近は滅多に飛ぼうとしない。彼のお気に入りの定位置であるラップトップのモニターの上にちょこんと座って私を眺め、うとうとし、約二十分毎に目を覚まし、「ンマ」と嘴を開けて餌を要求する。そして実に頻繁にブッとフンを飛ばす。ハチドリのフンはほぼ透明な水状態で量も少ないのだが、だからと言って机の上にフンを飛ばされて良い気はしない。ジュニパーくんの定位置の背後は消毒薬で常にピカピカ……またはペーパータオルが敷き詰められている。
ところでカラスやインコなんかのフンは大体ボテッと真下に落下するモノだが、ハチドリは一味違う。彼らのフンにはジェットのような勢いがあり、軽く三〜四十センチくらい後方に飛び散るのだ。そして左足の指を骨折しているジュニパーくんの場合、糞を背後に飛ばす度にその勢いで自身がキーボード上に転げ落ちてくる。仕方無い。二本指でも上手く掴めるようにとモニターの上にペーパータオルの切れ端を貼ってやる。
ジュニパーくんが自らの意思で動くのは、私が机から立ち上がった時だけだ。置いていかれてはカナワンと、その時ばかりは急いでぶーんとモニターから飛び立ち、私の肩に乗る。そしてリビングルームやキッチンはおろか、トイレの中までついて来る。いやもうコレ可愛すぎだろ。
可愛いのはイイが、しかし飛ばない鳥から本格的に飛べない鳥になってもらっては困る。そもそもジュニパーくん、フォルムが全体的にボテボテしてきている。普通のハチドリのようにシュッと鋭い流線型を描いていないどころか、ふくら雀化しているのは気のせいか。寝ている姿など、まるで爪楊枝を刺したタコ焼きではないか。
可愛い子には旅をさせよ。私自身はダイニングテーブルの一番端に座り、反対側のリビングルームの端にジュニパーくんを無理矢理置き去りにするという放置プレイを始めた。
「ピー」
無視無視。
「ピーピーピー」
心を鬼にする。
「ピイイイイィィィィッ」
「ちょっとイズミ、何やってるの?」
ピーピーヤカンと化したジュニパーくんの雄叫びに驚いて、ガチャリと戸を開けてローラが部屋から出て来た。
「ジュニパーに飛ぶ練習させてるの。リビングルームの端から私のところまで飛んできたらご褒美にゴハンをあげます」
「ジュニパーちゃん、厳しいママで可哀想!」
ローラが絨毯にひざまずいてジュニパーを覗き込んだ途端、彼はぶーんと飛んでローラの肩に止まった。
「うわ! ジュニパーが自分から私の肩に乗ったの初めて! ちょっと記念写真撮って!」などと言いつつローラが嬉しげに私に近付くと、ジュニパーは即座に私の肩に飛び移った。ヒトをタクシー代わりに使うハチドリ、賢い……! じゃなくて怠惰すぎる。
連続一ヶ月のER夜勤中、初めの二週間ほどはジュニパーくんを連れて仕事に出ていた。ジュニパーくんは止まり木付きの箱の中にちょこんと座り、大人しく私を待っている。殺人的に忙しいERの合間を縫い、「ちょっとトイレ行ってきます!」とか「ちょっと水飲んできます!」などと看護士さん達に嘘をつき、我が子の待つオフィスへと走る。机の隅に置かれた箱をそっと覗くとジュニパーくんが即座にパカリと嘴を開け、「ンマ」と言う。約0.5ccの餌を三回に分けてジュニパーくんに餌を飲ませる。どんなに忙しくても一時間毎に餌を与える必要がある。自分の食事は抜いてもジュニパーくんの餌を抜くわけにはいかない。だって抜いたら、多分死ぬ。
以前にも書いたが、飛行中のハッチー達のメタボリズムは虫以外の動物の中では最も高い。ブゥンブゥンという羽ばたきの所為だ。ある研究によると、ハッチーの運動中の心拍数は一分間に1200回を超え、起きている間は常に花の蜜を求めて動き回らなければ数時間で餓死してしまう。餌が少ない時や夜寝る時は、半冬眠状態になって呼吸数や心拍数を落とし、メタボリズムを抑える。ジュニパーくんは箱の中でじっとしているだけだが、しかしむくむくと成長中の幼鳥の基礎代謝は成鳥を遥かに上回るだろう。現に我が家に来たばかりの頃、ジュニパーくんは一度死にかけた……ような気がする。
ジュニパーくんが我が子となって最初の三日間、私はきっちり二十分毎に餌をやり、夜も三時間以上は寝なかった。ハチドリの親だって夜は六時間以上寝るだろう。だけど私はハチドリではない。つまりハチドリの親ほど最大限に無駄無く餌の供給が出来ているとは思えない。だから休むことなく餌を与え続けた。
しかし非常に元気なジュニパーくんを見て、少し気が緩んだ。これなら夜から朝にかけてはもう少し長く寝かせておいても大丈夫だろうと思い、久し振りに五時間ほど爆睡した。
そうして迎えた四日目の朝、ジュニパーくんの眠る箱を開けて思わず息を呑んだ。
ジュニパーくんは眠る時は必ず羽毛を立ててモフモフになって寝る。朝起きた時もしばらくモフモフ状態で、目を閉じたまま「ンマ」と嘴だけ開ける。しかしその朝、ジュニパーくんの全身は水でも浴びたかのようにぺったりとフラットだった。更に目を閉じたまま、笛で踊る蛇のように細い首をおかしな具合にくねらせ、嘴は半開きで足元もヨロヨロと覚束ない。死にかけの鳥の見本のようなその姿に血の気が引いた。
ヤバイ。低血糖症だ。
即座に糖分が必要だが、ヨロヨロとして嘴を上手く開けることも出来ない極小ハッチーに下手な飲ませ方をすれば、水が気管に入って肺炎を起こす。普段よりもずっと濃い砂糖水を作り、一滴づつ慎重に飲ませた。
ハチドリはプロでも難しいって言うけど、本当だなぁ。子猫や子犬の低血糖症は静脈注射で糖分を与えるけど、さすがにハチドリの子に静脈注射はムズカシイしなぁ。ってか病院に行き着く前に死ぬような気がする……等々の私のネガティブな予想を裏切り、三滴の砂糖水を飲んで七分後、ジュニパーくんは首をくねらせるのを止めて、不意にポワリと羽毛を膨らませた。そして何事も無かったかのように私を見上げ、「ンマ」と餌を要求した。
体重約2グラムの癖にこの生命力。さすがにライバルの脳天にダイブして突き殺してしまうというファイト精神を秘めているだけある。中々侮れないではないか。
しかし死にかけ鳥の首クネクネ踊りがトラウマとなり、この日以来、私はジュニパーくんの世話と健康には殊更神経質になった。
母のスパルタ教育のお陰か、ジュニパーくんは少しづつ飛距離を伸ばし、落下飛行や平行飛行だけでなく、上向き、更にはハチドリらしくホバリングも出来るようになってきた(下手だけど)。ハチドリは鳥類の中で唯一飛びながら後退できる鳥なのだ。なんとなく無器用なジュニパーくんにはまだそのような高度な技術は無いが、しかし上手く飛行及び着地に成功した時など、なにやら得意気に胸を膨らませている。
しかしそれなりに飛べるようになることで新しい問題がひとつ発生。
仕事に行く前、着替えたりお弁当を詰めたりとバタバタして、ふと気がつくとジュニパーくんがいない。さっきまで歯を磨いている私の横でウロウロしていたのに。さっさとヤツを見つけて移動用の箱に詰めないと仕事に遅れる。ジュニパーくんはまだ自分で餌を食べることが出来ない。飛べるようになってきても、鳥はしばらく親が付いて回って餌をやるのだ。
「ジュニパー?」
バスルームにはいない。
「ジュニパー? ジュニジュニ?」
ベッドルームで名前を連呼していると、リビングルームの方から「ぴぴっ」と返事が聞こえた。
「ジュ〜ニ〜、ジュ〜ニパ〜、ジュニジュニ〜」
時折聞こえるピピッという返事を頼りに家中を探し回る。ジュニパーは気まぐれで、私が呼べば必ず返事はするが、しかし三度に一度くらいの割合で隠れたまま出てこないことがある。一体どこの隙間に隠れているのか分からないので、気付かずに踏み潰しそうで椅子一つ動かすのも恐い。
必死になって探し回り、ようやく本棚で和んでいる我が子を発見。
病院でもジュニパーくんは人気者だ。私がハチドリの子を育てているという噂はあっと言う間に広まり、他の獣医や看護士さん、フロントのお姉さん達が次々と見に来る。
「ハチドリって庭でよく見かけるけど、でも動きが早過ぎてボンヤリした影しか見えないから、まさかこんな長い舌をしてるなんて思ってもみなかった……」
ハチドリの舌は長いだけでなく、先がブワッと箒のように分かれていて、一秒間に十五回というスピードで嘴から出し入れすることが出来る。以前はハチドリは毛細管現象を使って花の蜜を吸い上げていると思われていた。しかし近年の研究で、実は舌のポンプのような動きで蜜を吸い上げていることが解った。
オフィスの中を飛び回り、皆の机を検分してまわるジュニパーくん。
T先生はスターウォーズファン。そしてハチドリが大好きで、この写真は彼の秘蔵の一枚となった。
K先生:「みてみて! ジュニパーが私の作品を崇めてる! ジュニパーには芸術がわかるのね!」
さすがハチドリ。高い所が好き。
「なんか上のベントに吸い込まれそうで怖い……」と皆が言う。
赤ん坊はなんでも口に入れてみるらしいが、ジュニパーくんは珍しいモノを発見するととりあえずその長い舌で全て舐めている。そして時々私の肩に戻ってきて、「ピチュ、チチチ」などとお喋りしながら私の首筋を舐めている。