細胞達のお話
興味の無い方には何が面白いのか本気で全く理解できないであろう趣味の世界の話をひとつ。
私は病理学と細胞学が好きだ。興味があって詳しいとかではなくて、単に採取した細胞を染色して顕微鏡で眺めるのが好き。子供が美術館でピカソを観て「へんな絵〜」と笑ったり、レンブラントの人物画を観て「このオッサンの顔すっげー」などと感心するのとたいして変わらない。私がギリギリのラインで知的会話を繰り広げることが出来るのは、脳細胞についてだけだ。
皮膚の怪しげなデキモノ、腫れたリンパ腺、超音波検診で見つけた肝臓や脾臓の変異……いかにも危なそうなモノを見つけてしまった場合は、まず生体組織検査が必要になる。生検結果によって、治療が必要かどうか、またはどんな治療(手術・内服薬・放射線治療等々)が適切かを決める。
生体組織を採取する方法は幾つかあるが、麻酔いらずで一番手っ取り早いのは、注射針をターゲットに刺して細胞を手に入れるというモノ。腫瘍科はもちろんのこと、内科でも外科でも日に何度かはコレをやる。そして私は作ったスライドを病理科に送る前に、必ず自分で眺めて写真を撮る。
私が細胞学好きというのは病院内でも有名なので、面白いスライドがあると、他の科の先生達が机に置いておいてくれたりする。決して私の意見を聞きたいとかではなくて、純粋にワタクシの個人的趣味と愉悦の為にスライドを提供してくれるのだ。親切な先生方のおかげで、私の細胞コレクションは着々とその数を増やしていく。
ちなみに腫瘍放射線科のA先生も細胞学が好きなので、面白い細胞の写真をゲットした時は写メを送り合っている。この喜びが分かち合える人は滅多にいないので、彼は私の数少ない貴重な友なのだ。
あぁ、でもワタシ、細胞達の可愛さについて語り合える友が一人だけとか、ちょっと寂しいの。A先生に不満があるわけでは決してないけれど、でもこの素敵な細胞コレクションをもっと多くのヒトと分かち合いたいの……!
……と言うわけで、まず髄膜腫。脳や脊髄を覆う膜に出来る腫瘍。ちなみに猫の髄膜腫の手術は脳腫瘍の中では一番簡単だと思う。これは犬の脳に出来たモノ。髄膜腫は特徴的な渦を描く。
続いてリンパ腫。もしもある日突然ワンコのアゴの下とか太腿の後ろにボコッと丸い塊が出来たら要注意。リンパ腫(または感染症)の可能性大。
普通のリンパ腺(↓)
移行上皮癌。犬の膀胱や尿道の一部、前立腺等に出来る癌。これは膀胱の癌が背骨の横のリンパ腺に転移した疑いがあったので、その道のプロに超音波検査を使って針で採取してもらったモノ。
「鎮静剤無しで、大動脈の真横のリンパ腺(そのサイズ約0.8ミリ)から針採取するとかスッゲー」と感心していたら、「こっちの寿命が縮むようなケースを満面の笑顔で持ち込んでくるのは和泉先生だけです」と言われた。
ひとつの核の中に複数の核小体がある (=デカイ赤紫の丸に中に小さな青い丸がいっぱい)、核分裂を起こしている細胞の数 (=上の二枚目の写真で4時の方向にある細胞。核が丸じゃなくて幾つにも分裂して新しい細胞を作る準備をしている)、ひとつの細胞の中に複数の核がある (三枚目、左側の細胞)、核や細胞のサイズにバリエーションがあり過ぎる等は癌細胞に多い特徴。
脂肪腫ふわふわ。脂肪腫を染色液に漬けると、液の表面にタンカーで汚染された海のような脂がモワ〜ッと浮きます。
マスト細胞腫。マスト細胞、またの名を肥満細胞……と言っても肥満の原因になる細胞と言うわけではなく、炎症や免疫反応の為の細胞だ。単にぷっくりと膨らんだ細胞の姿が太っているように見えるから付いた名らしい。
犬の皮膚癌として現れることが多い。もしも、普段は静かなのにイジると急に怒り狂ったように大きくなったり、時々消えたりする(でもしばらくするとまた現れる)デキモノを見つけたら、獣医に診て貰うことをお勧めする。放っておくと肝臓や脾臓に転移するかも知れないので。細胞内のピンクのツブツブが特徴。
ちなみに我が同僚ラフィーは私をマスト細胞腫と呼ぶ。ピンクのツブツブの愛らしさにちなんだアダ名だと思っている。
甲状腺癌。細胞質が見えにくく、なぜか細胞の中心にある核だけが並んでいるように見えることが多く、『ハダカ細胞』などと呼ばれる (二枚目の写真)。
肺癌イロイロ。
犬の歯茎に出来た悪性黒色腫。メラニン色素を作る細胞の癌。下の写真でスライド全体に広がっているブルーグレーのツブツブがメラニン。メラニンを作らないメラノーマもあるので要注意。
骨髄液の中は不思議で楽しい細胞(あくまで私にとっては)が一杯。花のような奇妙な核を持つ巨大細胞は、血小板の工場。
顕微鏡を覗いたらエイリアンと目が合った。
ミニオン……じゃなくてポワポワの繊毛が愛らしい、繊毛円柱上皮細胞という鼻の細胞。鼻毛ではありません。
ちなみに鼻の奥にできたカビの塊を内視鏡で採取している内科の大御所B先生を見物していた時のこと。
「その内視鏡、もうちょっと奥まで突っ込んだら脳細胞採取できますね(鼻の奥と脳を分ける骨は薄いので、下手すると器具が骨を突き破ったりする)」と何気なく呟いたところ、B先生がぎょっとした顔で振り返った。
「そ、それは和泉先生らしいというか、非常に斬新な採取方法ですね……内科医にとっては悪夢のような事故ですが」と引きつった笑いを浮かべたB先生。
「え〜、でも脳だけは中々生検の機会がないじゃないですか〜」などと爽やかに微笑み返しつつ、和泉先生らしいって、ワタシは一体どんなニンゲンだと思われているのだろうと僅かな疑問が残った。
ところで内視鏡を使った生検方法のひとつに、食道に内視鏡を入れて、ここぞと思う所で食道の壁に生検用の鉗子がようやく通るくらいの小さな穴を開けて、壁の向こう側にある腫瘍等を採取するというモノがある。この穴を通るのは鉗子だけで内視鏡は通れない……つまりナニを採取しているのか目で確かめることは出来ない。勘だけが頼りなのだ。
そうして採取したモノを病理科に送って三日後。病理リポートの結びに「腫瘍・感染等の証拠なし。普通の『心筋』」の文字を見て自分が心臓発作を起こしかけたと言うのがB先生の若かりし頃のホラーストーリー。
ワタシは鼻の細胞が可愛すぎて悶えるような人畜無害なニンゲンです。