先生の理科室-3-
寝坊したと思って慌てたら日曜日だった、とでもいうような間の抜けた顔をした神崎は、数秒間動きが止まり、そのままひろかが恥ずかしそうに隠している胸に目をやり、そして笑った。
「ふふっ」
「な、何笑ってんのー失礼だよ先生」
「だってお前」
神崎は堪えていたが、失笑した。しまいには腹を抱えて笑っている。
意味の分からないひろかは、赤面しつつもぽかんとして説明を待った。
「だってなあ、散々子供の駄々みたいに付き合ってくれの一点張りだったお前が、今度は色仕掛けか?」
「だ、だって先生、年上だから、もっと大人っぽくて色気のある人が好きかと思って」
「そういうところがお子ちゃまなんだよ」
ひろかはむくれた。
ただ、笑っている神崎を見るのは満更でもない。まさに固まっていた石膏像が動き出したかのような感動さえ覚える。凛として涼しげな眼が初めて柔らかく細められた瞬間であり、心のアルバムに仕舞っておこうなどと幼稚なことをひろかは思った。
しかしひとしきり笑った神崎は一呼吸おいてから、いつもの石膏像に戻る。
そしてひろかの肩に手をおいた。
「いいか。生徒と教師が付き合うっていうのは、教育的にも世間的にも良くないことなんだ。教える側と教わる側はそれ以上の関係にはなってはいけない。それはお前も分かるだろう?」
「わかる」
「生徒に手を出して捕まった教師は大勢いる。ばれる原因は大抵、生徒だ。友達に言った、ネットに書き込んだ、親に知られた。浮かれて言いたくなる気持ちもわかるが、人に知られちゃいけないことをわざわざ言うのは子供だからだ。そしてばれても生徒側には責任が生じない。なぜなら未成年で、被害者になるからだ。そういった諸々を含めて高校生は子供だと俺は言っている」
「うん」
心なしかひろかは落ち込んでいる。
次に振られればさすがの彼女でも応えるかもしれない。
「お前は大人になれるか?」
「え?」
ひろかは神崎の声が聞こえたが、言葉が鼓膜を通った後脳に届かずにどこかへ行ってしまったため、慌てて聞き返した。
「お前は、人に言わずにいられるのか?」
「そ、それって」
肩におかれた手があたたかい。先生も人間なんだ、と当然のことを再認識する。
「できれば平穏に教師生活を続けて行きたいし、一人の生徒と密な関係にはなりたくない。万が一ばれてクビになるのは嫌だっていうのが正直なところだが――」
そこで言葉を区切って、神崎はひろかをじっと見つめた。
ひろかは石になってしまいそうな気持ちを抑える。
「俺はお前を信じる」
「先生」
「お前と付き合ってみるよ」
肩に置かれた手が頭の上に移動した。
これは夢なのではないだろうかと思った。
見ればひろかは、また泣いていた。
「おい、どうしたんだ」
「だって、先生と、付き合えるなんて、嬉しくって」
向かいに腰をおろした神崎の胸に頭突きをするような、不格好な体勢で顔を埋め、ひろかは歓喜の涙をぼろぼろこぼした。そんな彼女の頭をぽんぽんと神崎は撫でてくれる。
「本当に、本当に、ひろかと付き合ってくれるの?」
「なんだ、今さらやっぱりなしはダメだからな」
「言わないよう。先生が、付き合ってくれるなんて、夢じゃないよね」
頭に乗っていた手が頬に移動し、神崎の指先がひろかの涙を拭った。赤子のような頬にはうっすらと涙のあとがついている。
「これでようやく、お前のうるさい告白も止むな」
「うるさいって、言わないで」
泣きながら笑っているひろかの顔はこの上なく不細工だったが、神崎も笑っていた。
その後ひろかが落ち着くまで神崎は待っていてくれた。外はすっかり暗くなり、屋外の部活動も終わったのか静かである。
「もう帰らないと、家の人が心配するだろ」
「うん」
「送っていくか?」
「大丈夫。幸ちゃんと帰るから」
幸ちゃんを知らない神崎は、そうかと返事をして、窓の戸締まりを確認した。
「俺は職員室に寄ってから出るから」
「うん、先生、ありがとう、バイバイ」
ひろかは上機嫌に両手で手を振り、理科準備室を出ていった。