先生の理科室-2-
「ないよ」
ひろかはほとんど考えないで答えた。
答える気がないのかと思えば、その根拠を説明しはじめる。
「宇宙っていうのは、現在進行形で広がってるの。だから今っていうものがないの。広がり続けているから今の広さを求める意味なんかないの。これからどのくらいまで広がるのかも分からないし、宇宙を見てもいない人が考えた公式なんて信用できないし、そもそもひろかだって宇宙を見たことがないから、あってもないのと一緒なの。だからひろかの答えは、ない。もしくは無限!」
「お前な、屁理屈やとんちを言えって言ったんじゃないぞ。それは答えになっていない」
「先生こそ、文系のひろかにそんなクイズだして意地悪だよ。そんなにひろかと付き合いたくないなら、ひろかの納得できる理由で断ってよ」
「納得できる理由ってなんだよ」
「あたしのこと嫌いって、言えば良いんだよ」
神崎はなぜか戸惑った。
「生徒のお前に嫌いなんて言えるわけないだろう」
「じゃあ、付き合ってよ」
「嫌いじゃなければ誰とでも付き合うのかお前は?だめと言ったらだめなんだ。何回言ったらわかるんだ」
「どうしてひろかのこと好きになってくれないの?」
あまりのしつこさに、神崎はため息を一つついて、石膏像のような顔を強張らせて今まで以上にはっきりと言った。
「じゃあ逆に聞くが、お前はなぜ同じ年頃の男を好きにならないんだ?ここは共学校だぞ、男子生徒なら腐るほどいる。お前と付き合ってくれる奴だって大勢いるんじゃないのか?その中でよりによってなぜ俺なんだ。俺は教師で、お前は生徒だぞ。生徒を恋愛対象として見ることなんかないし、お前のことだって一緒だ。好きにはならない。お前はただ先生というものに憧れているだけだろう」
言い切った神崎はひろかを見た。
ひろかは――――ただ茫然としていた。
怒られたことにショックを受けた、というわけではないらしい。厚い割に小さな唇をゆっくりと開き、何を言われたのか理解ができないという風な顔で小さな声を発した。
「だって」
眉根を寄せ、よく見れば眼に一杯の涙をためている。
「だって、好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃん」
そして、泣き出した。
すすり泣きというものではない。それはひどい泣き方だった。子供が駄々をこねるように、まさに大泣きであった。わんわんという効果音が聞こえてきそうである。
神崎は驚き、狼狽し、一歩後ろに下がると机にぶつかって教科書を落とし、そのあと廊下の方を気にして静かにしろと言った。しかしひろかの泣き声はやまず、ますます大きくなる一方だ。
「ど、どうしたんだ渋沢。おい、泣いてるだけでは分からないだろう。聞いてるのか。俺が何か言ったか?き、傷つけるようなことを言ったのなら謝る、悪かった。誰かが聞きつけるとまずいから、し、静かにしなさい」
「ひ、人を好きになるのに理由なんかないんだよう」
神崎はひとまずひろかを椅子に座らせた。
しかし泣き止まない。
「あたしだって、先生のことなんか好きになりたくなかったよう。でも、好きになっちゃったんだから仕方ないじゃん。そ、それを、なんで俺なんだって、聞かれても、あたしだって知りたいよ。それを聞くなんて、ひ、ひどいよーう」
ひろかはさらに大声で泣いた。
こんな泣き方をする高校生がこの世にいるとは思えないが、実際いるのだから受け入れるしかない。神崎はそれはもうひどい冷や汗をかいて、部屋に置いてあったタオルでひろかの涙を拭うついでにさりげなく口をふさいだ。それでもひろかは泣き止まない。ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、みるみるタオルが濡れていく。
「渋沢」
神崎に名を呼ばれ、ふとひろかが顔を上げた瞬間、
抱きすくめられた。
驚きと圧迫感でひろかの泣き声は一瞬にして止んだ。大きな眼をさらに大きく見開き、理科室に閉じこもっているくせにミルクのように甘い香りのする神崎の肩越しに窓の外を眺め、そして一言、せんせい、と問いかけた。
「渋沢、悪かった」
「せんせい」
「傷つけるようなことを言った、すまん」
「もう、いいよ」
「高校生の考えることなど俺には分からないんだ」
神崎は先ほどまでの相手を威圧するような口調をやめ、ぽつりぽつりと語るように話し始めた。ひろかの小さな頭はまだその胸の中に抱いたままである。
「子供っていうのは、大人に憧れるものなんだ。先生って存在が特別に見えるときがある。ただそれは自分で作り上げた虚像であって、大人だって失敗もするし格好悪いことだってする。子供が思ってるほど格好良いものじゃないんだ。憧れのまま終われば良いが、大人のイメージが崩れた時のショックは意外とでかい。それに、高校生の感情なんて一時のものなんだ。今はそうやって好きだ好きだと言っていても、明日には別な人間を好きになるかもしれない。不安定なんだよ。憧れと恋愛感情を一緒にすると、あとできっと後悔する。憧れのままにしておけば良かったといつか思う。だから俺はお前とは付き合わない。お前の申し入れは、悪いが受け入れられない」
神崎の腕の中で、ひろかは今度こそ本当の失恋を迎えた。
なぜ、こんなにしてまで思いが通じないのかひろかには理解ができない。幼子並みの頭では理解が追い付かない。思ったようにことが運ばないことの理由が分からず、ひろかは泣いた。思っていればばいつか相手も好いてくれるだろうという持論を、粉々に打ち砕かれてしまった。
どれほど好きでも相手は好きになってくれない。
もどかしい、悔しい、悲しい。
「また振られちゃった」
ひろかは笑って、今度はほろりと泣いた。
湿ったようなすすり泣きの声が室内によく聞こえる。ほとんどの生徒は下校した後だ。廊下もしんと静まり、窓のでは部活動が終わりかけている。
何の音もしない。
ひろかの涙があふれる音だけがする。
そうしてしばらくひろかは泣き続けた。神崎は黙って涙を拭ってやった。
ひろかの頭が動いた、と思った瞬間、ひろかは立ち上がった。
「あっ!」
「な、なんだ」
「先生、今あたしのこと、好きって言った」
「はあ?」
「あたしのこと、好きだって、言った!」
狂人でも見るような眼で神崎はひろかを見やり、逆にひろかは涙で少し輝かせた瞳を神崎に向けた。全くと言っていいほど気持ちは通じ合っていない。
「俺はお前とは付き合えないと言ったんだぞ、聞いていたのか?」
「だって先生、子供は大人に憧れるけど現実を見ると幻滅するって言いたいんでしょ?」
「そうだが」
「つまり、先生はひろかに格好悪いところ見せたくないんだ!ひろかに嫌われたくないんだ!ってことはひろかが好きなんだ!」
神崎は卒倒しそうに眼を白黒させた。
ここまで前向きな解釈ができるとは予想外だったらしい。これでは嫌よ嫌よも好きのうちなどと言いだしそうな雰囲気である。
「自己解釈するな、俺はだな」
「もう先生、難しいこと言うのはなしだよ。ひろかと付き合おう!」
「付き合わないと何度言ったらわかるんだ!俺は教師でお前は」
「生徒だって関係ないの、あたしは先生が好きなの。そして先生もひろかのことが好きなの!」
「お前が好きだなんて一言も言ってない!第一、好きなだけじゃ恋愛は成り立たないんだよ」
ひろかはカーディガンの長い袖をひらひらとさせて、きょとんとした。
「好き以外に、何が必要なの?」
「子供には分からないさ」
「子供扱いしないで!ひろかはこれでももう高校生なの。それに」
珍しく言いよどむ。
柔らかそうな頬がほんのりと赤い。
「それに?」
「それに、ひろかはこれでもFカップあるんだから、先生なんかイチコロだもん!」