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【連載版始めました】五年間尽くした公爵家を静かに出ていきます。お義母様の薬も領地の収穫も私が回していたと気づく頃には、辺境伯様の隣で笑っていますので

作者: 秋月 もみじ
掲載日:2026/02/11

【お知らせ】

連載版始めました!こちらは短編になりますので、

長編は下記リンクか作者ページからお願いします!


https://ncode.syosetu.com/n4088lu/


公爵家を出る朝、私は五年間磨き続けた銀食器を棚に戻し、義母様の薬を調合して寝室の枕元に置き、裏口から静かに馬車に乗った。


冬の朝靄が白く庭園を覆っている。


私が手入れを続けたあの薔薇園も、今日からは誰が世話をするのだろう。


……いいえ、もう考えなくていい。


荷物は革の旅行鞄がひとつだけ。五年間この家で積み上げたものは多かったけれど、持ち出せるものは驚くほど少なかった。


離縁状と、五年分の業務引き継ぎ書は、夫の書斎の机に置いてある。


あの人が読むかどうかは、もう私の問題ではない。


馬車が動き出す。

車輪が砂利を噛む音だけが、冬の静寂に響いた。


振り返らなかった。


——ただ一度、義母様の部屋の窓が視界の端をよぎった時だけ、指先がかすかに震えた。


 



 


三日前のことだった。


 


「セラフィーナ、紹介しよう。リゼットだ」


夫の——ヴァーレンシュタイン公爵、ヴィクトルの声が応接間に響いた。


蜂蜜色の巻き髪に翡翠の瞳。フォンターナ男爵家の次女リゼットは、社交界で「小さな宝石」と呼ばれているらしい。確かに人形のように整った顔立ちだった。


その宝石が、私の夫の腕にしなだれかかっている。


「今日から、この屋敷で暮らす」


ヴィクトルはそう言った。


まるで明日の天気の話でもするように、何でもないことのように。


隣のリゼットが、花のような笑みを浮かべたまま私を見た。


勝ち誇っている——というよりは、もう勝負がついた後の余裕。最初から自分が選ばれる側だとわかっていた女の、無邪気な残酷さ。


「はじめまして、セラフィーナ様。よろしくお願いいたしますわ」


私はその笑顔を見つめ返して、一拍だけ間を置いた。


「……左様ですか」


それだけ言って、頭を下げた。


怒りは、あった。

けれどそれは、裏切られたという類の怒りではなかった。


五年間、私は何を守っていたのだろう。


その問いがただ静かに、胸の底に沈んでいった。


 



 


五年前。伯爵家の長女だった私は、ヴァーレンシュタイン公爵家に嫁いだ。


政略結婚だった。愛がないことは最初からわかっていた。それでも、嫁いだからにはこの家を支えよう——その覚悟だけは本物だったと思う。


 


嫁いで最初にしたのは、帳簿を開くことだった。


公爵家の財務状況は壊滅的だった。先代の放漫経営のつけが溜まり、商会との取引は不利な条件ばかり。税収の記録すら年度がずれている。


「少しだけ、お任せいただけますか」


そう言って私が帳簿を整理し直し、商会との再交渉に乗り出した時、ヴィクトルは「好きにしろ」とだけ言った。


興味がなかったのだ。最初から。


私は実家の伯爵家で父から経営の手ほどきを受けていた。商会の相手が何を求め、どこで折れるかを見極める術は心得ている。


半年で取引条件を刷新し、公爵家の収支を黒字に戻した。


ヴィクトルはそれを知らなかった。いや、知ろうとしなかった。


 


二年目。義母のマルグリット様が倒れた。


肺の持病が悪化し、通常の薬では症状を抑えきれなくなった。


公爵家の侍医は「これ以上は難しい」と首を振った。けれど私は諦めなかった。伯爵家時代に学んだ薬草学の知識を頼りに、遠方の薬草師を何人も訪ね歩き、ようやく希少な高山薬草の取引ルートを開拓した。


調合の比率は微妙で、季節ごとに薬草の質が変わるから、そのつど私が自分の手で調整する必要があった。


この取引先を知っているのは、私だけ。

調合の比率を体で覚えているのも、私だけ。


義母様の容態は安定した。

あの方だけが、毎朝薬を受け取る時に「ありがとう、セラフィーナ」と言ってくださった。


五年間で、この屋敷で私に感謝の言葉をくれたのは義母様だけだった。


 


三年目。領地の農業に手をつけた。


ヴァーレンシュタイン公爵領の南側は肥沃な土地だが、水利が悪く収穫にむらがあった。


私は地形図を取り寄せ、自分で灌漑路を設計した。水源からの勾配を計算し、季節ごとの水量変化に合わせた水門の配置を考え、半年がかりで完成させた。


収穫量は翌年から倍になった。


この時、隣接する北方の辺境伯領との間で農産物の取引話が持ち上がった。


ヴォルフハイム辺境伯、ライナルト。


取引交渉のために初めて書簡を交わした時の印象は、「寡黙な人だな」というものだった。


書面は簡潔で、無駄がなく、しかし要点を外さない。商会の人間のような愛想はない代わりに、嘘がない文章だった。


取引は順調にまとまった。

そしてその後も、定例の報告書のやり取りは続いた。


ライナルト様は毎回、取引の書面の末尾に一行だけ私信を添えていた。


『灌漑路の設計、見事です』

『薬草園の土壌改良案、参考にいたしました』

『今年の収穫データ、北方にも転用できそうです。感謝します』


いつも、私の仕事そのものを見ている言葉だった。


「綺麗ですね」でも「素敵な奥方ですね」でもなく。


あなたの設計した水路は見事だ、と。

あなたの改良した土壌案は役に立つ、と。


それが何を意味するのか、当時の私にはわからなかった。

ただ、その一行を読むたびに、少しだけ背筋が伸びたのは覚えている。


 


四年目。


社交界で「ヴァーレンシュタイン公爵領は近年見違えるほどよくなった」と噂が立つようになった。


夜会でそう褒められたヴィクトルは、満足げに頷いていた。


私の名前は一度も出なかった。


……別によかった。名誉が欲しくてやっていたわけではない。


でも。


「いやあ、領地経営は当主の資質に尽きますからな」


ヴィクトルがそう応じた時、グラスを持つ指先が少しだけ冷たくなったのは、本当のことだ。


 


五年目。


ヴィクトルがリゼットに入れ込み始めたのは、春頃からだった。


家政費が月を追うごとに目減りしていく。使途不明金の先を辿れば、宝石商や仕立屋の請求書に行き当たった。


すべて、彼女への贈り物。


限られた予算の中で領地の運営と義母様の治療を維持するのは、針の穴に糸を通すような作業だった。


そして、三日前。


愛人が屋敷に来た。


 



 


あの夜、寝室で天蓋を見上げながら、私は静かに考えた。


怒りでも悲しみでもなく、ただ透明な思考だけがあった。


この五年間、私はこの家に必要な人間だった。

けれどこの家の人間に、必要とされたことは一度もなかった。


義母様だけが例外だったけれど、あの方にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。


翌朝、私はライナルト様に一通だけ手紙を送った。


『受け入れ先はございますか』


返事は翌日届いた。短い一行。


『いつでも』


それだけで、十分だった。


私は二日間をかけて、五年分の業務引き継ぎ書を作成した。帳簿の仕組み、商会との契約内容、灌漑路の維持管理手順、使用人の配置、義母様の薬の調合比率——すべてを、一冊の書類にまとめた。


核心的な情報を隠すつもりはなかった。

ただ誠実に、後任者が読めばわかるように書いた。


それを、夫の書斎の机に置いた。


 


そして——義母様の部屋に向かった。


まだ夜明け前。あの方はまだ眠っていた。


枕元に、三ヶ月分の薬を置いた。本当は一週間分のつもりだったけれど、気がつけば手が止まらなくなっていた。


小さな手紙を添える。


『お義母様。五年間、ありがとうございました』


義母様の穏やかな寝顔を見下ろした時、視界がにじんだ。


五年間、泣かなかった。


泣いても何も変わらないと知っていたし、泣く暇があるなら帳簿を一行でも進めた方がましだった。


だから今も、泣かない。


目元を指先で拭い、背を向ける。


……足が、止まった。


ほんの一瞬。


振り返りたい気持ちを噛みしめるように、奥歯を噛んだ。


それから歩き出した。もう止まらなかった。


 



 


——一週間後。


ヴァーレンシュタイン公爵邸。


 


「……辞める、だと?」


ヴィクトルは使用人の長、老執事のハインツが差し出した辞表を見て眉を寄せた。


「左様でございます。私だけではなく、厨房のマルタ、庭師のフリッツ、侍女のカタリーナも同様に」


「なぜだ」


「……前の奥様がいらした頃とは、屋敷の在り方が変わりましたので」


ハインツはそれだけ言って口を閉ざした。それ以上は語らない忠義が、かえって雄弁だった。


台所が回らない。献立の管理、食材の発注、保存庫の在庫管理——それらすべてを取り仕切っていたのが誰だったのか、いなくなって初めて穴の大きさがわかる。


リゼットが廊下の向こうから声を上げた。


「ねえヴィクトル様、今朝のお茶がまだ来ないのだけれど。それに暖炉の薪も足りないし、この屋敷ってこんなに不便だったかしら?」


ヴィクトルは答えなかった。


苛立ちだけが、胸の底でくすぶっていた。


 



 


——二週間後。


 


「申し上げにくいのですが、公爵家様との取引実績はございません」


商会の主が、丁寧に、しかし明確にそう告げた。


「何を言っている。五年間取引をしてきただろう」


「いいえ。あくまでメルヴィス伯爵令嬢セラフィーナ様との個人契約でございます。契約書にも公爵家の名義はございません。セラフィーナ様がいらっしゃらない以上、我々がお取引を継続する根拠がないのです」


書類を突きつけられ、ヴィクトルは絶句した。


確かにそこには、妻の——元妻の署名しかなかった。


公爵家の帳簿を立て直した商取引。利益の源泉。それらすべてが、彼女個人の信用の上に成り立っていたのだと、ヴィクトルはこの時初めて知った。


……いや。


知ろうとしなかっただけだ。


 



 


——三週間後。


 


春が来た。


雪解け水が増え、灌漑路の水門を調整する時期だった。


しかし、誰もやり方を知らなかった。


「水門の開閉比率は季節と水量で変わるのですが、前の奥様が毎年ご自身で……」


領地管理官の報告を聞きながら、ヴィクトルは初めて灌漑路の現場に足を運んだ。


水は溢れていた。


設計自体は精緻だった。水源からの勾配、分岐の角度、すべてが計算されている。


ただ、季節ごとの微調整——それは設計図には載らない、運用者の経験と勘でしか補えない部分だった。


農地が冠水し、春蒔きの種が流された。


領民から、初めて苦情の声が上がった。


「去年までは何の問題もなかったのに」


「前の奥方様がいらした時は」


何度も、何度も繰り返されるその言葉が、棘のように突き刺さる。


 



 


——一ヶ月後。


 


マルグリットの薬が残りわずかになっていた。


侍医を呼び、調合を依頼したが、首を横に振られた。


「比率がわかりません。高山薬草は品質が毎回異なりますので、そのつど調整が必要なのですが……前の奥様はそれをご自身の感覚で」


「では薬草の仕入先は」


「それも……前の奥様が独自に取引されていた先でして、我々は存じ上げません」


ヴィクトルの顔から血の気が引いた。


セラフィーナが残していった薬は三ヶ月分あった。それを知った時、初めて彼女の優しさと、その優しさがもう二度と向けられないという事実を同時に理解した。


母の病室を訪れた。


マルグリットは窓辺の椅子に座り、穏やかな顔で外を見ていた。冠水した農地が遠くに見える。


「母上……」


「五年間、この家を回していたのは誰だったか」


マルグリットの声は静かだった。咎めるでもなく、嘆くでもなく、ただ事実を述べるように。


「帳簿も、商会も、灌漑路も、私の薬も。あの子がひとりで守っていたのよ、ヴィクトル」


「……」


「あの子がいなくなったのは、当然のことよ」


息子は何も言えなかった。


その沈黙の向こうで、リゼットの声が廊下から聞こえてきた。


「ねえ、もう私帰るわ。こんな不便な暮らし、耐えられませんもの」


荷造りの音。使用人を呼びつける甲高い声。


真実の愛は、不便の前に三週間も持たなかったらしい。


 



 


同じ頃。


北方辺境伯領。


 


冬の残り香がまだ空気に漂う辺境の地に、私は降り立った。


馬車を降りると、冷たい風が頬を刺す。王都の穏やかな気候とはまるで違う、骨まで透るような北風。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


目の前に、一頭の馬が止まっていた。


その上から降りてきたのは、長身の男性だった。暗い銀色の髪を無造作に束ね、灰青の瞳は凪いだ湖のように静かだった。


ライナルト・ヴォルフハイム辺境伯。


三年間、書面でしかやり取りをしたことがなかった人。


「……長旅でしたね」


それだけ言って、自分の外套を外し、私の肩にかけた。


飾り気のない、実直な仕草だった。


ああ、この人は書面の通りの人だ。無駄がなくて、嘘がなくて、でも必要なことはちゃんとしてくれる。


「ありがとうございます、ライナルト様」


「屋敷まで少し距離があります。馬車で向かいましょう」


会話はそれだけだった。


それだけで、五年ぶりに肩の力が抜けた気がした。


 



 


辺境伯の屋敷は、公爵邸に比べれば質素だった。


華美な装飾はなく、石造りの壁は無骨で、廊下の窓からは雪をかぶった山脈が見える。


けれど、隅々まで手入れが行き届いていた。床は磨かれ、暖炉には適切な量の薪がくべられ、窓枠に埃ひとつない。


この人は自分の領地を、自分の手で守っているのだ。


それがわかるだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「……こちらです。書斎をお見せしたい」


ライナルト様に案内されるまま、二階の書斎に足を踏み入れた。


大きな樫の机。整然と並んだ書架。北方の領地経営に関する書類が几帳面に分類されている。


そして——壁に目が留まった。


額装された一枚の図面。


見覚えがあった。


見覚えがある、どころではない。


私が設計した灌漑路の図面だった。


三年前、定例取引の資料として送ったもの。技術的な参考資料として添付したにすぎない、実務的な図面のはずだった。


それが、額に入れられて、書斎の壁にかけてある。


「……これ」


声がかすれた。


ライナルト様が隣に立ち、壁の図面を見上げた。


「あなたが公爵領のために引いた灌漑路の設計図を見た時から」


静かな声だった。


「——ずっと、あなたの隣に空席を用意していました」


息が止まった。


五年間、聞きたかった言葉は、こういう形をしていたのだと思った。


『綺麗ですね』でも『かわいそうに』でもなく。


あなたの仕事を見ていた。あなたの価値を知っている。あなたの隣にいたい。


……目の奥が、熱くなった。


五年間、泣かなかった。


帳簿が合わない夜も。義母様の薬が見つからなくて眠れない夜も。夫が愛人に贈り物をした領収書を見つけた夜も。


一度も泣かなかった。


なのに今、一筋だけ涙が頬を伝った。


ライナルト様は何も言わなかった。


ただ懐から手巾を取り出して、黙って差し出してくれた。


その手巾は、北方の麻布で織られた飾り気のないもので、けれどとても清潔で、ほんの少しだけ日向の匂いがした。


 



 


——それから数日後。


ヴィクトルが使者を送ってきたらしい。


らしい、というのは、私がそれを知ったのはずっと後のことだからだ。


使者が持ち帰ったのは、ライナルト様の一文だったという。


『当家の客人に御用はございません』


それだけ。


あの人らしい簡潔さだと思った。


 



 


同じ頃、公爵邸では。


リゼットはとうに出ていた。


残されたヴィクトルは、崩壊した帳簿と冠水した農地と、薬の切れかけた母を前に、初めて書斎の机に向かった。


そこに、一冊の引き継ぎ書がある。


セラフィーナが出ていく朝に置いていったもの。一ヶ月以上、開かれることなくそこにあった。


ヴィクトルは、ようやくその表紙をめくった。


帳簿の仕組み。商会の連絡先と交渉履歴。灌漑路の水門調整マニュアル。薬草の仕入先と調合比率。使用人の配置と役割分担。


すべてが書かれていた。


核心的な情報も、取引先も、調合の数値も。何ひとつ隠されていなかった。


最後のページに、一行だけ。


『五年間のすべてをここに記しました。あなたが読んでくださるなら、きっと間に合います。——ただし、読んでくださるのなら』


ヴィクトルの手が震えた。


彼女は、恨みで情報を隠したのではなかった。

復讐のために核心を伏せたのでもなかった。


最初から、すべてを残していた。


ただ、自分が一度も読まなかっただけだ。


「たかが帳簿をつけていた程度の女だ。代わりなどいくらでもいる」


かつて自分が吐いた言葉が、今になって喉元に突き刺さる。


代わりなど、どこにもいなかった。


そして彼女は、もう二度と戻らない。


 



 


北方辺境伯領に、遅い春が訪れようとしていた。


雪解けの水が小川を満たし、枯れ色だった山肌にわずかな緑が芽吹いている。


この土地の春は短い。だからこそ、貴重なのだとライナルト様は言っていた。


「セラフィーナ殿」


「はい」


「……その、先日の農政顧問の件なのだが」


ライナルト様は真面目な顔で切り出した。


数日前、私は「客人としてではなく、この土地のために働きたい」と申し出ていた。五年間の経験を、今度は正当に評価してくれる場所で使いたかった。


「顧問として正式に雇用契約を結びたいと考えている」


「……ありがとうございます」


「ただ」


ライナルト様の灰青の瞳が、わずかに揺れた。


こんな表情を見るのは初めてだった。いつも凪いでいるこの人の目が、かすかに波立っている。


「……できれば、もっと近い立場で」


そう言って、視線を逸らした。


耳の端が、うっすらと赤い。


この寡黙な辺境伯が、これほど不器用に言葉を探す姿を見るのは初めてだった。三年間、取引の書面で一行だけの私信を添え続けた人。灌漑路の図面を額装して書斎に飾っていた人。


その人が今、「近い立場」という不器用すぎる言い回しで何を伝えようとしているのか、わからないほど鈍くはない。


でも、今はまだ答えない。


代わりに、私は別のことを尋ねた。


「ライナルト様。少し、お庭を見てもよろしいですか」


「……ええ、もちろん」


屋敷の裏手に出ると、まだ雪の残る庭の一角に、小さな薬草園があった。


北方の厳しい気候に耐えうる品種が、ぽつぽつと植えられている。まだ芽吹いたばかりで、頼りない緑色だった。


「去年から試験的に始めたのだが、なかなか上手くいかなくてな」


「……あの高山薬草も植えていらっしゃるんですか?」


「ああ。あなたの改良案を参考にした」


私は膝をついて、小さな芽をそっと指先で触れた。


冷たい土の下で、確かに命が息づいている。


ここで、やり直せる。


五年間、誰かの家を守るために費やした知識と技術を、今度は——自分の居場所を作るために使える。


夜になって、ライナルト様と並んで庭に出た。


北方の空は嘘のように澄んでいて、星が近かった。公爵邸の庭からは見えなかった星たちが、手を伸ばせば届きそうなほど頭上に広がっている。


ライナルト様が不器用に外套をかけ直してくれた。二度目の外套。この人はいつも、言葉より先に行動で気遣う。


「ここの冬は長いが」


低い声が、白い息と一緒に夜空に溶けた。


「来年の春には、あなたに見せたい薬草園がある」


来年の春。


その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。


五年間、来年の春を楽しみだと思ったことは一度もなかった。春が来れば水門を調整し、夏が来れば収穫を管理し、秋が来れば帳簿を締め、冬が来れば薬を調合する。それだけの繰り返しだった。


でも今、初めて。


来年の春が楽しみだった。


冷たい空気を吸い込んで、私は口を開いた。


「ライナルト様。……その薬草園、私も一緒に設計してよろしいですか?」


寡黙な辺境伯の耳が、冬の夜空の下で、ほんのわずかに赤く染まった。

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― 新着の感想 ―
仮にヴィクトルがまともでも早晩崩壊していたんじゃないかしら…
不倫女が都合よく逃げおおせてるのがな癪に障る。 義母様は寝込んでしまってろくに対処もできない状況だったのでしょうが、亡くなっては欲しくないし主人公の重い影になってもしまいそうなので、是非公爵ぼっちゃん…
全てを担っていた人が居なくなると全てが崩壊する体制が本当に良くないですね
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