第十七章 義理子先輩の不在
17.1 義理子先輩の不在
第一回戦第八試合が終了し、静寂がアラトの部屋を支配する。
昨日、アラトは冗談でギリコを怒らせてしまった。失望させてしまった。そして、ギリコは朝からいっさい姿を見せていない。連絡もいっさいない。
アラトは魂の抜け殻のごとく呆然としていた。当然、吸血鬼と鬼の対戦も頭に残っていない。
ただ時だけが流れていく。
アラトがこのホテルに軟禁されてから、今日は9日目になる。
少しは慣れたかもしれないが、人恋しいという感情は拭いきれない。現実世界にある神奈川のワンルームアパートに帰りたい。両親のいる実家でもいい。そして正常な世界で関わってきた正常な人々、友人と会って平和な現実を味わいたい。
アラトにだって学生時代に交際相手はいた。人生で初めてお付き合いした女性だ。テニスサークルを通じて知り合った2歳年下の女の子。おとなしい雰囲気の女性だが、アラトにとっては一緒にいて和やかに過ごすことができる心のオアシスのような存在だった。
二人は同時に大学と短大を卒業する年齢だったが、彼女の就職が決まり、アラトの就職浪人が決定した時点で二人は別れることになった。彼女は関西方面への就職だったので、二人とも遺恨の無いすっきりとした形で別れることができた。
とどのつまり、アラトは大人の階段を登って女性経験がある。そして今は独り身なのだから非常に寂しい、というのは男としてごく普通の正常な感情ではなかろうか。
そんなわけで、アラトの胸の奥底には、正常で健康的な若い男性が抱く悶々とした感情が無いわけでもなかった。
そしてギリコは女性型アンドロイドだ。しかも超絶美人ときたもんだ。だからといって、仮にアラトの胸中に煩悩が渦巻いていたとしても、はっきりと否定できる。女性型アンドロイドを人間の女性として捉えていないぞ、と。
例えば、実在するアイドルのコンサートに行って、はしゃぐだけはしゃいだとしても、その場限りのこと。アラトにとってアイドルは所詮偶像にすぎない。
例えば、アニメの推しヒロインを見て『かわいい』と感じるかもしれないが、アニメが最終回を迎えれば、そこでドラマは終了と思うだけのこと。アラトにとってアニメの登場人物は所詮虚像にすぎない。
要するにだ、アラトにとって所詮ロボットはロボット、なのだ。至極まっとうな感覚ではなかろうか。
さて、アラトは究極的に想像を絶する環境下にある。誰かに助けを請いたい。ロボットにすがってもいいのか? ロボットを信じていいものなのか? いや、猜疑心を完全には払いきれない。
それなのに目の前にいないと寂しい。これって何? どうすればいい?
これまでのアラトの人生経験、関わった人物、目にしてきたさまざまな物体、何と比較しようとも、あまりにもギリコは特殊なのだ。アラトにとってギリコの存在が何なのかさっぱり定義できない。
そしてアラトの脳内に残る感覚は、不安、憂慮、懸念、危惧といった言葉だけが連なる。もしかしたら本当に見捨てられて、彼女はどこかに行ってしまったんじゃないのだろうか……。
ギリコの部屋を訪ねようと考えもしたが、結局止めた。ギリコがいるのかいないのか、事実を確認すること自体が怖い。
グルグルと同じことを考えすぎて頭が変になりそうになったアラトは、むしろ思考を放棄することに集中した。
しばらくのあいだ、身体をベッドに預け静かにしていると、部屋に常設してある廉価版のお掃除ロボが、ウィーンと起動し勝手に部屋の掃除を始めた。
上半身人型下半身車両の小柄な汎用清掃マシン。裾が足先まである長いスカート形状のプラスチックボディの下から四輪駆動のタイヤを覗かせる。
頭部に人形のようなプラスチック製の女性の顔がある。冷たい印象の表情だが、フィギュアのように手の込んだ造りだったりする。
そんなわけで、アラトが『リナコ』と勝手に命名しているのだ。
アラトが無言で立ち上がりリナコの正面に立つと、お掃除ロボは清掃作業を中断した。両膝をついてしゃがみ、急にリナコの胴体部分にしがみついて苦悩を訴えた。
「寂しいよぉ~、帰りたいよぉ~、みんなに会いたいよぉ~」
おもちゃの顔は無言でピクリとも反応しない。当然、会話する機能はいっさい無い。
「義理子先輩怒らせちゃったよ。ねぇ、どうしたらいいのかな? もう会ってくれないのかな?」
アラトは涙目でリナコに語り続けた。お掃除ロボはホテルのお客様に怪我が無いように、ただジッとしているだけなのだが。
海で遭難して無人島にたどり着き、そのあともたった一人でサバイバルしないといけないという気持ちになってしまっている。それは究極の孤独感。
話し相手が一人もいなければ、岩に顔でも描いてブツブツと語りかけるかもしれない。海岸で拾ったボロボロのバレーボールに名前を付け、家族のように一緒に過ごすかもしれない。
アラトも、それくらいに精神が崩壊しそうになっている。
そんな理由で、お掃除ロボ『リナコ』の存在はアラトにとっていい精神安定剤になった。
◆ ◆ ◆
フェイク太陽が沈みかけ、ホテルが夕日でオレンジ色に照らされる。アラトはようやく起き上がり、新鮮な空気を求め外に出た。
心ここにあらずのまま、ホテルの通路を歩く。誰かとすれ違ったが、そちらに意識をいっさい向けない。
「そこの少年」
すれ違った人物が、アラトに声を掛けてきた。
アラトは、まさか自分が『少年』と呼ばれるとは想定していないので、自分が呼び止められたとは思っていない。
「あんたのことじゃ、少年よ。お前さん、この大会出場者なんかのう?」
アラトは緩慢な動作で振り向く。
そこにはチャイナドレスを着た美女が立っていた。女性らしい体のS字ラインが美しく強調され、両サイドに腰までスリットが入った紫色のチャイナドレス。スリットから覗いている黒のサイハイストッキングと生足が女の色気を醸し出す。アジア系のルックスに黒髪を結い上げている。
脳が空白状態になっているアラトは、目の前に美女が存在していることを認識はできているが、会話のキャッチボールができない。ただ、ボォーっと美女の顔を眺めた。
「大丈夫か、少年。」
「……」
「大丈夫ではなさそうじゃな。まぁよい。またどっかで顔を合わせたら、この大会のことを教えてくれんかの。よろしく頼むぞ」
訛りの強い美女は、そう言って立ち去ろうとしたが、ひとこと付け加えた。
「おう、そうじゃった。少年よ、おなごが一人で汗を流し練習に励んでいるところをこっそり見るもんじゃない。あんたも一緒に汗を流したければ、声を掛けるがよい。わしはこれでも武術の心得があるもんでの。特別に教えてやってもよいぞ。
それじゃのぉ。ヤケを起こすなよ、少年」
アジア系美女は雑な言葉遣いではあるが、人物の優しさを察することができる。
アラトは無心で、アジア系美女が姿を消すまで眺めていた。
夜になってようやくアラトは、そのアジア系美女が第七試合で忍者と戦った麗倫という女性であることに気づいた。
§ § §
17.2 大会九日目の朝 アラトの部屋
アラトはベッドの中で目が覚めた。体内時計のせいで、いつもどおりの時間に目覚めてしまう。
アラトのアゴには無精髭が生えていた。パワードジャケットは部屋の隅っこに転がったままだ。
結局、一昨日のパワードジャケット試着時にギリコを怒らせてしまって以来、ギリコとは会えていない。
そして今日もギリコが来ないような予感がした。
顔も洗わず、ルーチンワークのように観戦モニターをオンにする。
案の定、9時になってもギリコは姿を見せなかった。
【ポイント評価のお願い】
数ある作品群から選んでいただき、そして継続して読んでいただいていることに、心から感謝申し上げます。
誠に図々しいお願いとなりますが、お手間でなければ、ポイント評価をお願い申し上げます。
どうも有難うございました。