第072話 スクアードとナミュール
ヴィエナは、小さく息を吸った。
(――やっぱり、このままじゃだめ)
ヴィエナはスクアードに名案があると伝えて会議室を後にしていた。先ほど感じたスクアードの痛み。
あの悔しそうな表情。
そのままにしておくことは、国の未来を考える彼に対して、あまりに不誠実だ。
(私の考えを実現するには……この人の協力が絶対必要)
ヴィエナはまっすぐに歩を進め、王城の一角、ナミュール第二王子の私室へと向かった。
美しい装飾の廊下を進みながら、少しずつ緊張が募っていく。
あの不穏な空気の会議以来だと思うと、妙に気まずくて、心がもぞもぞする。
(会議では殆ど私と会話を交わさなかったけど……)
不安を飲み込んで、扉の前に立つ。
「……コンコン」
扉を叩いた瞬間、空気が変わった。
言葉にできないような、重く張り詰めた気配。
まるで部屋の中に別の世界があるかのようだった。
「……はい」
内側から響いたのは、ナミュールの低い声だった。
「失礼します」
扉を開けて中へ入ると、書斎と寝室が一体になったような広い空間。壁には地図や文献が並び、中央の机の上には乱雑に資料が積み重なっている。
ナミュールは窓際で水盆に向かっていた。
手にした布で顔を拭いながら、振り返りもせずに言った。
「……なんだ、君か。どうした?」
「……あ、あの、ナミュール様って……スクアード様のこと、嫌いなんですか?」
思わず口にしてしまった言葉に、自分でも「やっちゃった……」と思う。もっとまわりくどく聞くべきだった。
ナミュールの動きが止まる。
だが、その背中はほんの一瞬ピクリとしただけで、すぐにまた淡々と顔を拭い始めた。
「くだらない質問だ。国の政治に関わる話でないなら、出て行ってくれ」
冷たい声音に、室内の空気がさらに冷え込んだ気がした。
けれど、ヴィエナは引き下がらなかった。
「……スクアード様、とても悲しい顔をしておられました」
その一言に、ナミュールの手が再び止まる。
そのまま無言で顔を拭き続けるが、肩の緊張が、確かに伝わってきた。
「……だからなんだ。王太子が、小さいことで落ち込むもんだな」
その言葉に棘があるのはわかっている。けれど、それは感情を抑えるための防壁なのだろう。
「……なら、仲直りは無理ですかぁ……」
ヴィエナはその場の判断でわざとらしく、肩を落とし残念そうに眉尻を下げ、演技がかった声で続けた。
「せっかく……アルメリア帝国との関係を良くする方法、思いついたんですが……」
ナミュールがふっとこちらを向いた。
「――本当か? 聞かせてくれ」
その瞬間、彼の動きは雷光のように速かった。
気がつくと、ナミュールは目の前にいて、両肩をぐっと掴まれていた。
「本当だろうな?無駄な冗談だったら許さんぞ!」
目の奥に、明らかな焦りと期待が揺れている。
普段は感情を抑えたような男の、あまりに真っ直ぐな反応に、ヴィエナは思わず口元を緩めた。
「冗談ではありません!でも、その方法を実行するには……まず、スクアード様とナミュール様が仲良くならないと、無理なんです」
ナミュールの表情が、ぴたりと止まる。
「……な、なんだって……?」
まるで彫像のように硬直し、掴んでいたヴィエナの肩からも手が離れた。
ヴィエナは一歩下がり、静かに微笑んだ。
「お二人が本当に協力し合えば、きっとこの国は強くなります。アルメリアとの関係も、きっと変わる。――私は、そう信じています」
ナミュールは、何かを言おうとして、言葉を呑み込んだ。
視線が宙をさまよう。苦い記憶が頭をよぎったのだろう。
けれど、彼の瞳の奥には確かに――揺らぎがあった。
それが迷いなのか、希望なのか。
今のヴィエナには、まだ読み切れない。
だが、確かに風向きは変わり始めている。
この兄弟の絆を取り戻せたなら――ヴィエナの見出した希望の道は、きっと、現実のものになる。




