第071話 好機の予感
「……時間になった。これにて本日の会議は終了とする」
スクアードの低い声が、静まり返った会議室に落とされた。
重苦しい空気を払うように、メリッサが立ち上がる。
きっちりと折り目のついたスカートが揺れ、扇子を一度、ぱちんと閉じた。
「今日も、何も進展がなかったわね」
吐き捨てるように言い残すと、ナミュールと共に音もなく部屋を後にする。
扉が閉まる音はやけに大きく響いた。
室内には、スクアードとヴィエナだけが残された。
壁にはめ込まれた重厚な書棚、堅牢な木製の机、わずかに開かれた窓から差し込む陽の光……どれもが静けさを強調する。
(……空気が、重い)
今すぐにでもこの場を立ち去りたかった。
だが、無言のまま退出するのも不自然だと分かっていた。
ヴィエナは椅子の上で膝に手を置き、姿勢を正した。
「……かなり大変な状況ですね。代替案も出せず、申し訳ありません」
静かにそう告げると、スクアードが小さく首を振った。
「いや、気にしないでくれ。今日が君の初めての会議なんだから」
視線を落としたまま、彼は額を押さえるように手を添えた。
「それに……君の意見は、間違っていなかった。農民の生活を守ることも、我々の責務だ」
その声には、悔しさが滲んでいた。
ヴィエナは目を伏せた。国の未来を背負う者の責任の重さ。スクアードが感じているものが、少しだけ分かる気がした。
「……スクアード様の悔しい気持ち、すごく伝わってきます」
ぽつりと、そう口にした。
沈黙が落ちる。だがそれは先ほどのような重苦しいものではなく、どこか人の温度を帯びていた。
「私は今後、共に国の政治をする者として、スクアード様のことをもっと知りたいです。……失礼でなければ、何故縁談を断られたのか、お聞きしてもいいでしょうか?」
少しの間、彼はヴィエナを見つめていた。
その瞳は、王太子としての威厳を保ちつつも、どこか迷子のような影を宿していた。
「……あぁ。あれは、半年ほど前の話だ。縁談の話が来たのは、ちょうど母が……亡くなる直前だった」
スクアードは、遠くを見つめるように語り出す。
「そんな余裕なんて、俺にはなかった。ナミュールもだ。俺たちは……母の看病に、ただ必死だった」
その言葉が、部屋の空気を震わせる。
「……今は、ナミュール様との関係は悪いのですか?」
「……まあ、良くはないな」
言葉を選びながら、スクアードは静かに頷いた。
「母が生きていた頃は、俺たちは兄弟として、もっと素直に言葉を交わせていた。……でも、母がいなくなってから、ナミュールは変わった。いや……俺が変わってしまったのかもしれない」
ヴィエナは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
(きっと、お母様の存在が……この国の安定を支えていたんだ)
母、王妃オルレア。
聡明で慈愛に満ちた女性だったと聞く。彼女が生きていた頃、王国の政治は円滑に進んでいたという。
そして、誰よりも母に懐いていたのがナミュールだった。
だからこそ、母の死後に国が混乱するのを黙って見ていられなかったのだろう。
縁談を断り、外交を拗らせた兄に対しても、怒りを覚えているのだ。
(……それでも、感情だけで動いているわけじゃない)
ヴィエナは、ナミュールの理知的な言動の裏に、強い責任感を見ていた。
「今さらこちらから縁談を再度持ちかけることは、サルヴァドール陛下の顔に泥を塗る行為だ。屈辱を与えた相手から求められる縁談なんて、彼は受け入れるはずもない」
スクアードの言葉は、現実を直視したものだった。
「……それでも、もし……アルメリア王国との関係が良くなるのなら、俺は……俺は、何だってする」
その瞬間――ヴィエナの瞳が輝いた。
「……今、何だってするって、言いました?」
スクアードは一瞬きょとんとし、そして小さく頷いた。
「あぁ」
ヴィエナは勢いよく立ち上がる。
「なら――私に考えがあります!」
新しい風が、重く淀んでいた会議室に吹き込んだようだった。




