第068話 やめた
(なんで私が、こんなこと言われなきゃいけないのよ)
胸の奥に、ひやりと冷たいものが張りついている。ナミュールの言葉が、ずっと頭の中で反響していた。
「兄さんが呼んだ、エムリット領の女が優秀なわけないだろ!」
強く否定されたというよりも、初めから信じてもらっていなかった。いや、それどころか「女」であること、「エムリットの出」であること、それ自体を嘲るような声音。
ヴィエナは静かにその場を離れ、自室へ戻った。扉を閉めると同時に、張りつめていた糸がぷつりと切れたように、背中がずるりと壁にもたれかかる。
(私が……一体、何をしたの?)
自ら志願して王宮に来たわけじゃない。
スクアード殿下から声がかかっただけなのに。
「貴女の知恵と行動力を、国の運営に活かしてほしい」
そう言われて、恐れ多いと思いながらも、誰かの役に立てるならと決心して来た。それだけだったのに。
(どうして、こんな目に遭わなきゃならないの)
内心で問いかけても、答えは返ってこない。ただ、自分がここで場違いな存在だと、痛感させられるだけだった。
(もういいわ……)
革張りの予定表に視線を落としながら、ヴィエナはため息をつく。
(今日はもう、適当に出席して……明日の朝一で馬車に乗って、エムリット領に帰ろう)
無理をしてまで、ここにいる必要はない。
今の王宮の空気は重く、冷たかった。
だがその時――再び、あの部屋の中から声が聞こえてきた。
「ヴィエナ嬢は腕の立つ女性だ。彼女なら、必ずこの国を前に進めてくれると私は信じている」
スクアード王太子の真っ直ぐな声だった。迷いも、飾り気もなく、ただ真実を語るような響きがあった。
それを聞いたヴィエナは思わず足を止める。
胸の内に、何かがじわりと広がる。
(……王太子殿下は、私を信じてくれているのね)
「だが、隣国のアルメリア帝国との関係は日々悪化している。このままでは、交易路を完全に閉ざされる危険すらあるんだぞ」
ナミュール第二王子の低い声が返ってきた。
内容は現実的で、確かに憂慮すべき問題だ。
「だからこそ、ヴィエナ嬢の力を借りようとしているんだ。彼女の知見と実績が必要なんだよ、ナミュール」
スクアード王太子の声には、揺るぎない信念があった。
誰かに言い訳をしているのではない。ただ、信じるもののために、まっすぐに言葉を重ねている。
「何度も言ってるが、彼女に何ができるって言うんだ。田舎でちょっと成功した程度で、国家を動かせると思っているのか?」
ナミュールの言葉には、冷ややかな侮蔑が混じっていた。
その瞬間、ヴィエナは静かに拳を握りしめた。
(田舎で“ちょっと”成功……?)
エムリット領では、誰もが苦しい中で手を取り合い、腐敗した商会と戦い、ようやく再建の道を歩み始めた。その中で、何度も挫けそうになりながら、涙を飲んで立ち上がってきた。
それを――「ちょっと」と言うのか。
ぎゅっと握った拳に、爪が食い込む。
(……やっぱり)
視線を上げると、ヴィエナの瞳には、もう迷いはなかった。
(朝に帰るのは、やめだわ)
傷ついた。悔しかった。情けなかった。でも、それ以上に――負けたくなかった。
(舐められっぱなしは、私の性分に合わないの)
彼女はふっと笑った。自嘲ではなく、確かな闘志を灯すように。
(あのナミュール様に、一泡吹かせて――それから、堂々とエムリットに帰ってやるわ)
言葉にはしないが、決意は確かに彼女の中で形を成していた。
足取りはもう、弱々しいものではなかった。王宮の重い空気の中を、彼女はまっすぐに歩き出す。
たとえ信じてくれない者がいても、たとえ侮られても、彼女の中には確かに、譲れぬ誇りと意思があった。
――彼女の反撃は、ここから始まる。
最近更新頻度が悪くて申し訳ありません。
絶対に完結させます。




