第067話 穏やかな日だと思ってた
「こちら、昼食の茸と若鶏のクリーム煮込みでございます」
銀の蓋が静かに持ち上げられると、立ちのぼる湯気と共に、芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。香草のほのかな香りに混じるバターのコク。それだけで食欲をそそられる。
従者は恭しく身をかがめたまま、続けた。
「お口に合わない場合は、温野菜のテリーヌや果物もございますので、ご遠慮なくお声がけください」
「ありがとうございます」
ヴィエナは慌てて背筋を伸ばし、微笑んで礼を述べた。
豪華な一人前の昼食が並べられたテーブルを前に、彼女はふと困ったように視線を落とす。
(……なんか、客人みたい)
いかにも“王宮に招かれた特別なお客様”といった扱いに、思わず肩がこそばゆくなる。こんなおもてなしは、生まれてこのかた初めてだった。
(エムリット領じゃ、炊き込み粥をみんなで囲んでたのに……)
スプーンを手にしながら、しばし懐かしさに浸った。だが、すぐに気を取り直し、脇に置かれた革張りの予定表に視線を落とす。
(確か今日の予定は……)
紙の上には整然とした文字が並び、彼女の一日の流れが記されていた。
(十五時から会議。夜には親睦会……ふむふむ)
今日から本格的に始まる「王宮での仕事」。その初日としては、比較的緩やかなスケジュールだ。けれど、それでも気は抜けない。
(それにしても、この屋敷……広すぎる)
部屋の扉を見やりながら、ヴィエナは内心で苦笑した。
(後で迷子にならないように、王宮の中を少し見てまわっておこう)
彼女は軽く頷き、小さく気合を入れるように声を出した。
「よし!」
昼食を食べ終え、椅子から立ち上がる。ふわりとしたスカートを持ち上げながら、重厚な扉を開けて廊下へと出た。
大理石の床に、窓から差し込む陽光がまばゆい光を落としている。静寂に包まれた宮廷の中、彼女の足音だけが規則的に響いた。
――と、ふいに。
「兄さん! なんだよ、それは!」
遠くから、若い男性の声が届いた。
(……何か、騒がしいわね)
立ち止まり、声の方へと首を傾げる。程なくして、廊下の右手にある扉の向こうから声が続く。
(あの部屋かしら……?)
そっと歩を進め、扉に耳を近づけた。まさか覗き聞きするつもりではなかった。けれど、あまりにも声が大きく、自然と内容が耳に入ってくる。
「僕たちだけで充分だろ、兄さん!」
押し殺したような叫び声。感情が高ぶっているのがわかる。
「……我々だけでは力不足なんだ。今のままでは、国を動かすには心許ない」
冷静で落ち着いた声が返ってくる。だが、その声音には譲れぬ信念が滲んでいた。
(この声……ナミュール様と、スクアード様)
ヴィエナは目を見開いた。まさか、自分が来たばかりの王宮で、いきなり王族の兄弟喧嘩に出くわすとは思っていなかった。
「兄さんが呼んだ、エムリット領の女が優秀なわけないだろ!」
――心臓が、ぎゅっと痛んだ。
まるで、刃物のような言葉だった。否定されただけではなく、「女」として、そして「エムリットの者」として、まとめて価値を貶されたような気がした。
息を呑むヴィエナ。体の芯がひやりと冷たくなる。
(……ナミュール様が、そんなふうに思っていたなんて)




