第066話 王宮
「ヴィエナ!王太子様からのご指名だ。力になってあげなさい」
父ガイゼルの声は、普段と変わらず穏やかだったが、その目には確かな決意が宿っていた。
突然の申し出に戸惑っていたヴィエナは、父の言葉を聞いて思わず目を見開き、硬直していた。
「気が進まないかな?」
柔らかく問いかけてきたのは、スクアード王太子。
まっすぐに見つめてくるその瞳に、やましさも、打算も感じられない。ただ、誠実な問いかけだけがそこにあった。
「い、いえ……」
ヴィエナはすぐに首を横に振った。けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
ヴィエナの内心は、王宮に行くのが嫌なのではなかった。大好きなエムリット領の人たちと、離れてしまうのが嫌ということだった。
何度も笑い、共に汗を流してきた人たち。何よりも守ってあげたい人たち。心ない言葉に沈んだときも、再び立ち上がる力をくれた彼らと、これから離れなければならないと思うと、胸が締めつけられるようだった。
「心配することはない。エムリット領の人々は、強い。逆境の中でも踏ん張り、何度でも立ち上がる力がある」
父の声は、静かで、力強かった。
「それに、私がいる。お前が安心して国を見てこられるよう、領地は私が守るよ」
その一言に、ヴィエナの胸の奥で、じわりと温かいものが広がった。
(……父の言う通り。あの人たちなら、大丈夫。私がいなくても、きっと――)
彼女の視線が、改めてスクアードに向けられた。
王太子は、ゆっくりと口を開く。
「先にお伝えしておきますが、私はあなたを“ひとりの女性”として王宮にお招きするわけではありません」
その声には縁談の一文字もなく、真剣さだけがあった。
「私はこの国を前に進め、発展させるための“政治的な戦力”として、あなたをお呼びしたいのです」
一呼吸置いてから、彼はさらに続けた。
「それに、途中で辞めたくなったら、いつでも帰って頂いて問題ありません。あなたの意思を尊重します」
その真摯な言葉に、ヴィエナは心の中のもやが晴れていくのを感じた。
「……そのお話、お受け致します」
彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
(少し複雑だけど……国という大きな存在を動かす経験ができるなら……)
(成長して、もっと大きくなって、胸を張ってエムリット領に帰ってきたい)
彼女の言葉に、父は微笑み、スクアードは静かにうなずいた。
――――翌週――――
(とは言ったものの……新しい環境って、やっぱり不安)
ヴィエナは馬車の中で頭を抱えていた。窓の外には整備された王都の石畳が広がり、次第に王宮の影が近づいてくる。
(エムリット領と違って、人も多いし、きっと勝手も違う。緊張するなあ……)
扉が開けられ、馬車が止まると、衛兵の声が響いた。
「ヴィエナ様が到着されたぞ! 案内まいれ!」
馬車を降りると、そこには数十人の衛兵たちが整列していた。彼らは一糸乱れぬ動きで敬礼し、左右に道を作る。
(こ、こんな歓迎のされ方……恥ずかしいわ)
ヴィエナは顔を赤らめながら、そっと視線を逸らした。
案内に導かれ、重厚な扉が開かれる。
その奥にいたのは、一人の青年だった。
「貴女がヴィエナ嬢ですね。お待ちしておりました。私、第二王子のナミュール・アルクラウドと申します」
「本日よりお世話になります。ヴィエナ・エムリットです」
(この方は……王太子様の弟)
ナミュールは、王太子スクアードとはまったく違う雰囲気を纏っていた。
(王太子様が冷静で風格を備えていたのに対し、この方は……どこか柔らかく、優雅で、まるで春風のような印象)
その立ち姿もどこか遊び心があり、眼差しもどこか人懐っこい。
(同じ王族でも、こんなに雰囲気が違うのね……)
ナミュールは優雅な仕草で手を差し出しながら微笑む。
「まずは屋敷の中をご案内いたします。遠路お疲れでしょうが、どうぞお付き合いください」
中へと足を踏み入れたヴィエナは、思わず息を呑んだ。
(な、なんて豪華……)
屋敷の中は、絢爛という言葉がそのまま形になったようだった。天井は高く、壁には金の縁取りと精巧な彫刻。
絨毯は絹のような手触りで、窓から差し込む光が室内のクリスタルに反射し、きらきらと輝いていた。
(とんでもなく広くて……そして静か。どこもかしこも洗練されていて、庶民の暮らしとはまるで別世界)
「こちらが、あなたのお部屋になります」
ナミュールが示した扉の向こうにあったのは、まるで姫君のために用意されたような一室だった。
花を模した天蓋付きのベッドに、淡い藤色の壁紙。暖炉の上には繊細な装飾が施され、窓辺には読書用のソファまで置かれていた。
「わ、私……こんなところで生活するの?」
ヴィエナは思わずつぶやいた。
新連載、更新できておらず申し訳ありません。




