第065話 スクアード
「――ヴィエナ、とんでもない話になったぞ」
ガイゼルの声は、いつもよりわずかに張り詰めていた。広間の奥に立つ彼の背中が、珍しく緊張しているように見えた。
「……とんでもない話?」
ヴィエナは困惑しながら父に視線を向ける。何がそんなに大事なのか、王太子の登場だけでも十分すぎるほどの衝撃だったのに、それ以上の何かがあるというのだろうか。
その時だった。
「私がご説明いたします」
そう穏やかに口を開いたのは、他でもないスクアード・オルクラウド王太子だった。
整った姿勢で一歩前に出ると、その深い瞳が真っ直ぐにヴィエナをとらえる。
「エムリット伯爵家の躍進ぶりは、近頃しばしば耳に届いております。真珠の養殖事業の成功、そして“スキルシェアリングサービス”の導入により、多くの市民が安定した生活を送れるようになったと伺っております」
「お褒めに預かり、光栄です」
「恐縮です、殿下」
父ガイゼルとヴィエナが並んで頭を下げる。
スクアードはゆっくりと頷いた。
「……しかしながら、もはや今のエムリット家の規模と影響力は、伯爵家の枠には収まりません」
彼の口調に、場の空気が一瞬張り詰める。
「結論から申し上げます。本日をもって、エムリット伯爵家を公爵家へと任命する勅命を持ってまいりました」
その言葉に、広間が静まり返った。
ヴィエナは、思わず息を呑む。思ってもいなかった方向から飛び出した王太子の言葉に、理解が追いつかない。
「身に余る光栄です。今後はより一層の責任を持って、領地運営に邁進いたします」
父ガイゼルは、静かに、しかし確かな決意を込めて頭を垂れる。
「……あ、ありがとうございます……」
ヴィエナの声は、か細く震えていた。口は動いても、胸の奥に渦巻く感情はまだ整理できていなかった。
(とは言ったものの……突然、公爵家に任命なんて――)
信じられなかった。
彼女がこの領地の経営に本格的に関わるようになって、まだ一年にも満たない。真珠養殖、商業の立て直し、スキルサービスの導入と、できる限りのことをしてきたつもりだ。だが、それが“公爵”という新たな階段を登るだけの成果だったとは、考えてもいなかった。
(私は、この先……どうすればいいの……?)
かつて、蔑まれ、傷物と嘲られた自分が、いまや誰にも陰口を叩かれない存在となった。それどころか、エムリット家は公爵家の中でも最大級の税収を誇るようになり、誰もが一目置く存在に変わっていた。
かつて彼女を貶めたアイクには、すでに報いを与えた。
周囲の令嬢たちも、もう彼女を侮る者はいない。
(……けれど、私の中にあった熱は――もう、どこかに消えてしまった)
目の前に広がるこの道の先が、見えなくなっていた。
やるべきことを失った心には、空白だけが広がる。
(公爵家になると、今後もっと頑張らないといけない……でも復讐心も、野望もない……)
その時だった。
「――そして、もう一つご相談がございます」
再びスクアード王太子が口を開いた。
「……ご相談?」
ヴィエナが顔を上げると、スクアードは静かに頭を垂れた。
「ヴィエナ嬢を、一定期間、私の屋敷へお借りできないでしょうか。――王族として、そして一人の人間として、貴嬢に商業の在り方を学ばせて頂きたいのです」
その瞬間、広間の空気が一変した。
「え、えええぇっ!? 王太子様が、頭を下げた!?」
「うそでしょ……?」
「ヴィエナ様に“教えてほしい”って……!?」
使用人や領民たちのざわめきが、一気に広がる。
「――あの……私、で……?」
ヴィエナの声は、戸惑いに満ちていた。
それでも、彼の言葉には誠実さと本気がこもっていた。
「あなたから直接、学びたいのです。これは、私の本心です」
深々と頭を垂れるスクアード。
まるで、自分の足元に新しい道が生まれたような感覚があった。王太子が、学びたいと望んでくれる未来が、彼女の前に広がっていた。
ヴィエナは、ゆっくりとまぶたを閉じ、そして、開いた。
かつては傷を抱え、俯いていた少女が、今や一人の“公爵令嬢”として、新たな未来へと足を踏み出そうとしていた。




