第063話 学園が変わった?
「……また、憂鬱ねぇ」
馬車の窓から差し込む柔らかな朝日をぼんやりと眺めながら、ヴィエナはため息をついた。周囲の景色は徐々に街並みから石造りの校舎と塔がそびえる学園へと変わっていく。
今日は、卒業までにあと数回しか残されていない登校日。
新たにアルバート家の農村を取り込み、エムリット領は一気に飛躍を遂げた。
誰もがその名を知る領地へと成長し、かつては「傷物」と蔑まれた自分も、今では商才ある令嬢として知られる存在になった。
けれど――
(この学園だけは、やっぱり慣れないわ)
心の中で、ヴィエナは苦笑する。城に呼ばれ、商人と談判するのはもう怖くない。
けれど、この学園で交わされる視線と沈黙、陰口だけは、いまだに彼女の胸を重たくさせるのだった。
馬車が止まり、扉が開く。
石畳の上に足を下ろすと、通りすがりの一人の貴族令嬢がふと振り返った。目が合ったが、すぐに視線を逸らされる。
(……何あれ)
視線だけで人を値踏みするようなあの空気。昔から変わらないものだと感じながら、彼女は歩き出した。
しかし――
(おかしいわね)
これまで自分をあからさまに嘲笑い、皮肉を投げつけてきたマテリウス公爵家・アルセイン伯爵家の令嬢たち。
が、今日は妙に静かだ。蔑むどころか、陰口すら聞こえない。
(むしろ……避けられてる?)
不意に、背後からひそひそとした声が耳に届いた。
「ねぇ、知ってる?ヴィエナ嬢が王太子様に呼ばれてるんですって」
「え……あの婚約者を亡くした王太子様?」
「うそ、まさか縁談じゃないでしょうね……」
一瞬、時が止まったように感じた。
(……はい?)
ヴィエナは自分の耳を疑った。思わず首を傾げて自分の思考を整理しようとするが、頭の中は噂話で埋め尽くされていく。
(いやいやいや、聞き間違いよね?王太子って……あの、王太子よ?)
彼女は思わず自分のこめかみを押さえた。
(まさか……今さら私に縁談なんて。ないないない!)
首を左右にぶんぶんと振る。頭からそのありえない想像を振り払おうとするも、心はざわざわと不安で揺れ続けていた。
そんな時だった。
「――あ、ヴィエナ」
その声に反射的に顔を上げる。見ると、通路の先から歩いてくるのはエドガーだった。制服の上から軽くマントを羽織り、落ち着いた笑みを浮かべている。
「エドガー様……」
思わず声が和らぐ。彼の姿を見ると、無意識に安堵してしまう自分がいる。
「何やら君のこと、噂になってるぞ」
「……え?」
「王太子から、王宮に呼び出されているらしいじゃないか」
(ああ、やっぱり本当に言ってる……)
背中に冷たいものが流れるような感覚に包まれた。
「いえ、そんな……聞いてません。何かの間違いでは……」
「君が知らないのなら、そうかもしれない。ただ、僕の耳にも入ってきているのだから、あながち嘘とも思えなくてね」
エドガーは眉を寄せた。まるで、心配そうに様子をうかがうように。
「でも、どうして……私が?」
思わずこぼれた言葉は、問いというより戸惑いだった。
自分は確かに名を上げた。領地を再建し、商会も軌道に乗り、エムリット伯爵家の存在感は確かなものになった。
けれど――
(でも、だからといって王太子様に呼ばれるなんて……)
思考の迷路に迷い込むヴィエナの肩を、エドガーがそっと軽く叩いた。
「大丈夫だよ。君なら、どんな相手が出てきたって、ちゃんと渡り合える」
柔らかく微笑むその瞳に、ヴィエナは少しだけ気持ちを落ち着けた。
けれど胸の奥にはまだ、静かに膨らんでいく不安があった。
この噂が本当だとしたら――
王太子は、一体なぜ自分を呼ぶのだろう?
(まさか、……あるわけないわよね?)
しかしその疑問は、確実に彼女を王宮へと導いていく。




