第058話 人々の声
街の空気は、どこまでも澄んでいた。
柔らかな春の日差しが石畳を照らし、人々の足取りを軽くさせていた。笑顔が交わり、声が弾むこの場所に、一つの転機が訪れようとしていた。
だがその空気の中で、緊張をまとっていた者たちがいた。
ヴィエナとエドガー。そして、彼らを支える仲間たちだ。
約束の十日が経過し──今日がその最終日だった。
ウェルナー家の門前に立つと、一人の青年が深く帽子を脱いで頭を下げた。
「エドガーさん……この講習、続けてくれますか? もちろん、今度はちゃんと払います。……ここまで来たら、途中でやめたくないんです」
真っ直ぐな目に、迷いはなかった。
その言葉が合図だったかのように、各々の街からも次々と声が上がる。
「私もです! アヌビス様の占い、ぜひ続けていただきたい!」
「ラビアさんの料理……一週間であんなに変われるなんて。今度は娘も連れてきます!」
「ソフィア先生のピアノ、毎日が楽しみになったんです! 来週も、来られますか?」
人々は、それぞれの思いと希望を胸に口を開いた。
彼らの声は、決して「試しに来てみた」という軽さではなかった。
感謝と尊敬が、言葉の端々に滲んでいた。
「期間が終わっても、来ていいのですよね?」
若い女性がミランダに尋ねる。
「もちろんですわ。その代わり、これからは正規の契約書をご用意いたしますね」
ミランダが誇らしげに答える。
ラビアも同様の反応を人々から掴んでいた。
「さすがに食材費はタダじゃないのよ。だから、ちょっぴり払ってもらうけど……それでもいい?」
「もちろんです! あの味があるなら、安いもんだ!」
小さな笑い声が、教室に響く。
ヴィエナは人知れず目を伏せ、胸に手を当てた。
(ありがとう……皆さん)
そのとき、隣にいたエドガーがそっと彼女の背を押した。
言葉はなかった。だが、その手の温もりが何よりも雄弁だった。
──そして、契約の時間が始まった。
屋敷の広間には長机が並び、仲間たちが順に案内していく。
契約書を前にした人々は、一様に真剣な面持ちでペンを取り、名前を書き入れていった。
「お金も、持って来たわ」
年配の婦人がそう言って、布袋から銀貨を丁寧に取り出す。
「ありがとうございます」
ヴィエナが一礼すると、婦人はにっこりと笑って答えた。
「こちらこそ。あなたたちが始めたこの商業……私たちの希望なのよ」
その言葉に、ヴィエナは胸が熱くなるのを感じた。
静かに契約書の列を見守る彼女の目に、安堵と感謝が浮かぶ。
だがその頃──
アルバート公爵領・公爵邸
「おい!どうなっているんだ、これは!」
ゴードン公は机を激しく叩いた。
彼の前には、膨大な報告書と、街で契約が成立したという報せが並んでいる。
「スキルシェアリング……完全に立て直されたと……?」
その声には、怒りと焦燥が滲んでいた。
部屋の隅に立つアイクとリリアが、膝をついて頭を垂れる。
「申し訳ありません、お父様……。ビラの一件で一度は信用を失わせましたが……」
「だが、それでも民は戻ってきました。予想以上に……」
「言い訳は聞き飽きた!」
ゴードンの怒声が部屋に響き渡る。
「まだ勝負は終わっていない。……最後は“獣”のようになって勝ってこい。情も、外聞も捨てろ。……徹底的に、奴らの希望を潰せ」
ゴードンの瞳には、炎のような執念が宿っていた。
それは、家の名誉と領地の支配を守るという執着。自らの権威を揺るがす存在を、決して許さないという強い意志だった。
「獣のようになって……勝ってこい」
その低い声に、アイクとリリアはただ無言で頷くしかなかった。
白い結婚と言ったのは王子のあなたですよ?
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