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第6話『骨の茶碗』

 安土城の茶室。

 梅雨の晴れ間を縫って差し込む陽光が、畳の目に細い影を落としていた。空気は重く、湿気を帯びている。


 骸は、主催者である織田信長の正面に座していた。明智光秀も同席している。三人だけの茶会。それは異様なまでに緊迫した空間を作り出していた。


 信長の手元には、一つの茶碗が置かれていた。白く磨き上げられた骨。その曲線は、明らかに人の頭蓋骨を思わせる。しかし、それだけではなかった。茶室の調度品の随所に、人骨が加工された形跡があった。茶入れを支える台座、茶筅を置く受け皿、さらには床の間に飾られた花瓶まで。それらは全て、かつて生きていた人間の一部だった。


「越後の柴田からの報せは芳しくない」

 信長は茶を点てながら、静かに語り始めた。

「上杉景勝、なかなかの手練れよ。秀吉には毛利の対応を任せた。残るは…」


 信長の目が、一瞬光秀を捉える。

「光秀、お前には中国攻めの応援を頼む。秀吉の軍を支援せよ」


「御意に従い」

 光秀の声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。しかし、その指先が、わずかに震えているのを骸は見逃さなかった。


「天下統一も、いよいよ最終段階」

 信長は続ける。その声には、どこか陶酔めいた響きがあった。

「反逆者どもの首を、一つずつ刈り取っていく」


 その言葉に、光秀の表情が一瞬翳る。茶室の空気が、さらに重くなっていく。


 茶会が終わり、骸が立ち去ろうとした時、光秀が後を追うように声をかけた。城の廊下で二人きりになる。


「信長様の御様子に、お気づきではありませんか」

 光秀の声は、ささやくように低い。

「天下統一という大義は、もはや狂気の口実に成り果てているのです。茶室の様子をご覧になられましたでしょう。あれは、もはや政策ではありません」


 骸は静かに頷く。光秀の言葉には、確かな重みがあった。


「具体的な計画をお話しいたします」

 光秀は更に声を落とす。

「私は中国への出立を命じられました。その途上、京に立ち寄ることになっています。六月朔日、本能寺に信長様はお独りとなられる。私はその時を狙おうと思います」


「柴田殿は越後で足止めを食らい、秀吉殿は毛利との戦いに向かっている」

 骸の言葉を、光秀は肯定的に受け止める。


「その通りです。信長様の手足となる武将たちは、全て遠方にいる。このような機会は、もう二度と訪れないでしょう」


 光秀は一歩、骸に近づく。


「骸殿。あなたにも、信長様への深い想いがあることは承知しています」

 光秀の声は、ささやくように低く、しかし確信に満ちていた。

「世の中が動き出すとき、その場所にあなたもいらっしゃる。そう確信しています」


 骸は、長い間黙っていた。その沈黙の中で、様々な思いが交錯する。


「光秀殿。私からこの話を信長様にお伝えすることはいたしません」

 骸の声は、静かながらも確固としていた。


 光秀は深く頷く。その表情には、理解と、どこか運命を見据えたような色が浮かんでいた。骸の参加について敢えて問わない。それは、すでに答えを知っているかのようだった。


「そうですか。では、その時が来るまで」


 二人は無言で見つめ合う。その沈黙の中に、互いの意図が確かに交わされていた。


 茶会の帰路、骸は無心流道場の跡地に立っていた。夕暮れが近づき、空は茜色に染まりつつある。かつて、この場所で花世と空を見上げた日々が、まるで昨日のことのように思い出される。


「まさか、骸様がお立ち寄りになるとは」


 清吉の声に、骸は振り返る。老人は相変わらず、荒れた庭の手入れをしていた。落ち葉を掃く音が、懐かしい稽古の風景を思い浮かばせる。


「最近は、お顔を見せることも少なくなられて」

 清吉は箒を手に、穏やかに微笑む。

「世は大きく動いているようですな。織田様の天下統一も、いよいよ佳境に」


「ええ」

 骸は庭の苔を見つめる。

「しかし、その先に待つものは、果たして何なのでしょう」


 清吉の手が、一瞬止まる。

「新しい世になれば、また道場も再開できるのでしょうか」

「いいえ」

 骸は静かに首を振った。

「織田様の描く世界に、無心流の存在する余地はありません。強さだけが、全てを支配する世界なのです」


 静寂が流れる。夕陽が道場の廃墟に長い影を落としていく。この場所で、どれほどの時を過ごしただろう。朝の稽古、昼下がりの読経、夕暮れの瞑想。そして、花世との語らい。全ては、遠い過去のように感じられた。


「無心とは、ただ一つを想うこと」

 骸の声が、静かに響く。

「そう、花世は言っていました」


 清吉の手が、再び止まる。その言葉の持つ重みを、老人は瞬時に理解した。骸の生き様が、一つの光のように、清吉の目の前に浮かび上がる。


 これまで、骸はただ一つのことだけを見つめて生きてきた。それは復讐という名の道。花世の言葉を、そうして自らの血肉としてきたのだ。


「もう、お立ち寄りにはならないのですね」

 清吉の声には、深い理解が滲んでいた。


 骸は黙って頷く。その背中には、もはや迷いは見えなかった。かつて、この庭で学んだ全てのことが、今、一つの道へと収束していくように感じられた。


 夕闇が、静かに道場の跡地を包み込んでいく。遠くで、寺の鐘が響き始めた。

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