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第1話『織田の犬』

 天正九年、安土城の裏手に佇む茶室。土壁と竹で組まれた小さな空間に、夕刻の光が障子を透かして差し込む。その光は、備前焼の茶碗の歪みに深い影を落としていた。


 宣教師ルイス・フロイスは、香炉から立ち上る線香の煙を見つめながら、向かいに座る男の存在を意識していた。この十年以上の日本滞在で、彼は多くの武将や高僧に会ってきた。しかし、目の前の男ほど不可思議な存在を見たことはない。


 男は、礼装の着物を着こなし、その作法は実に優美である。茶筅を操る手つきは柔らかく、茶碗を差し出す仕草にも乱れはない。


 しかし、その腰の刀だけが、茶室の調和を乱していた。

 茶室に刀を帯びて入ることは、この国の作法に反するはずだ。それでも誰一人、男の刀を咎めようとはしない。むしろ、茶室の主人である利休までもが、それを自然なことのように受け入れているように見えた。


 フロイスには、その理由が分かっていた。織田信長が、この男をどれほど重用しているか。ヨーロッパに送る報告の中で、フロイスは既にこの男のことを書き記していた。「織田の意志を体現する犬」として。


 やがて茶事も終わりに近づき、フロイスは本題を切り出した。儀礼的な会話の後、慎重に言葉を選びながら、キリスト教布教に関する提案を始める。


「骸殿」フロイスは慎重に言葉を選んだ。「信長様の寛容なお心により、私どもは布教の自由を得ております。さらなる協力関係の深化を望んでおりますが」


 その言葉が落ちる前に、フロイスは既に自分の過ちを悟っていた。茶室の空気が、目に見えるように凍り付いていく。

 利休の手元で、茶碗を拭う布の音が、一瞬途切れた。骸は静かに茶碗を置き、初めてフロイスの目を直視した。その眼差しには、底知れぬ何かが潜んでいた。


「寛容と、仰いましたか?」骸の声は静かに響く。「信長様があなた方の布教を許しているのは、政策の一部。決して、『受け入れられた』などとは思わぬように」


 その声は穏やかでありながら、フロイスの背筋を凍らせるに十分だった。自分の認識の甘さ、思い上がりを完全に見抜かれている。


「いやはや、あなた様には理解の及ばぬことかもしれませんが。この世では、生かされているという事実すら、時として危うい幻のようなもの。それを『寛容』などと取り違えてしまうところに、あなた方の限界が見えるのです」


「申し訳ございません。私の言葉が不適切でしたか。どうか——」


「身と心は切っても切り離せないものでして、いやぁ気に入らないと思えば、刀を握る手が勝手に動いてしまうのでございます」


 骸の姿には何の変化もない。しかし、その存在そのものが、突如として鋭い刃物のように感じられた。フロイスは冷や汗を流しながら、必死に言葉を紡ぐ。


 茶室に再び沈黙が訪れる。利休が襖を開け、夕暮れの光が差し込んできた。茜色に染まる空の下、骸は静かに立ち上がった。茶室の静寂の中で、その動きだけが異様な存在感を放っている。


「宣教師との対話は、これにて十分でしょう」


 その声には、もはや先ほどまでの殺気は感じられなかった。しかし、フロイスは理解していた。この男の穏やかさこそが、最も恐ろしいものなのだと。


 茶会の後、骸は、いつもの道を辿っていた。足音を立てぬよう、石畳の隙間を選びながら歩く。しかし、その存在を完全に隠すことはできない。道行く人々は、骸の姿を認めると慌てて道を開ける。


 かつて、この道には多くの弟子たちが行き交っていた。無心流道場は、この通りの奥まったところにある。今でも建物は残っているが、もはやそこで刀を振るう者はいない。


「骸さまッ」


 呼び止める声に、骸は足を止めた。振り返ると、道場の庭掃除をしていた老人の姿があった。元々この道場の世話をしていた清吉である。今は、ただ一人でこの場所を守り続けている。


「これは、清吉殿」


「先ほどは、外国からのお客と対面なさったとか」


 清吉は、骸がまだ一介の剣士だった頃から、その成長を見守ってきた数少ない生き証人の一人だ。二人の自然な会話の間が、長年の信頼関係を表していた。


「はい。茶会にて」


「茶会とは、まあ優雅な。織田さまに仕えてからは、骸さまも随分とお変わりで」


 その言葉に、微かな皮肉が混じっているのを骸は聞き逃さなかった。その目には、今の骸の姿が、どのように映っているのだろう。


「まあ、お幸せそうで何よりですよ。織田さまの庇護の下、心安らかにお過ごしで」


 清吉の言葉には、深い失望が滲んでいた。骸は、静かに目を伏せた。


「害虫のように人目を忍んで生きる者にとっては、心安らかにという文句を一日中繰り返し、絶望に溺れることが最大の至福なのでございます」


 その言葉に、清吉は息を呑んだ。それは、骸が抱え続けてきた深い痛みの告白だった。


「骸さま......」


「清吉殿。道場の手入れ、いつもありがとうございます」


 骸は丁寧に一礼すると、そのまま歩き出した。清吉は、その後ろ姿を見つめながら、胸に去来する複雑な思いを抑えることができなかった。骸の背中は、以前と変わらず真っ直ぐだ。しかし、その真っ直ぐさの意味が、大きく変質してしまったことを、清吉は痛いほど理解していた。

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