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ガイアの鼓動 〜42分間の地球旅行〜

 量子コンピュータの普及により、人類は新たな時代を迎えた。シミュレーションによって、これまで自然界には存在しなかった物質の合成が可能になったのだ。

 高圧環境下で六千度を超える温度にも耐える新素材。この革新的な素材を用い、『ガイアリンク』と呼ばれる画期的な交通手段が実現した。


 沖縄のガイアリンクステーション。未来的な建物の中で、私はゴンドラ乗車口に向かっていた。だが、初めての旅に、私は心の中に微かな緊張を抱えている。


「これほどの技術、若い頃には想像もできんかった……」


 隣に立つ杖をついた高齢の老人が目を輝かせながら呟いた。彼もガイアリンクを利用するのだろうか。

 ゴンドラがブラジルから戻ってきた。大きな窓を備えた未来的なカプセルが滑らかに到着し、扉が静かに開く。

 降りてくる乗客たちの笑顔を目にして、私は少し気が楽になった。そして、入れ替わりにゴンドラに乗り込む。


 ガイアリンクを利用すれば、日本からブラジルまでの旅路はたったの42分だ。飛行機で33時間以上かかる道のりと比べると、その速さは驚異的と言える。

 しかも、移動のための燃料はほとんど必要としない。

 ただし、今現在はゴンドラのサイズ上、一度に運べる乗客の数が限られている。

 今回乗り込んだのは私を含めて6人。先ほどの老人が隣に腰を下ろし、その隣には7、8歳くらいの男の子が座っている。

 私の向かいには、旅行中らしい若い夫婦の姿。新婚旅行だろうか、楽しそうに笑い合っている。

 その隣には、ブラジル人らしき長身の男性。その男性は何度も深呼吸を繰り返し、明らかに緊張している。


「もうすぐじゃ……」


 老人が椅子から身を乗り出し、目を輝かせている。新婚の夫婦も楽しげに談笑している。


「これ、究極のフリーフォールだよね!」

「私たちの旅行の目玉!」


 彼らの声には期待感が満ち溢れている。遊園地のアトラクションにでも乗るような感覚なのだろう。

 しかし、そんな賑やかな声とは対照的に、幼い男の子は窓の外をじっと見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「……怒るよ……こんな掘って……」


 その言葉はどこか不気味な響きを持っていた。私は思わず男の子に目を向ける。細い肩を落として座るその姿には、大人びた冷静さが漂っていた。

 私はふと違和感を感じる。どうやらこの男の子は、向かいの若い夫婦の子供ではないようだ。他にこの子供の親らしき人物は見当たらない。


「君、一人で乗ってるの?」

「そうだよ。大丈夫、帰るだけだから」


 彼は興味なさそうにそう答え、視線を再び窓に戻した。ブラジルに家があるのだろうか。それにしても、この年齢の子供の一人旅には違和感を感じる。

 さらに問いかけたい気持ちはあったが、彼の落ち着いた態度がそれをためらわせた。


 もう一人の乗客はどうだろう。ふと長身の男性を見ると、彼は目をぎゅっと閉じ、座席にしがみついている。震える手が彼の恐怖を物語っていた。


「大丈夫ですか?」


 私はそっと声をかけた。


「アー、サンキュー。ダイジョウブ。でもオレ……高いとこ苦手で……飛行機とか苦手。でも、親がキトク。急ぎ帰らんとです……」


 たどたどしかったが、彼は日本語で返してくれた。しかし、彼は明らかに不安に満ちており、震えた声で言葉を続けた。


「まさか、コレ、落ちたりしないよね?」


 ーーいえ、落ちるんです。


 これから、このゴンドラは地球の中心に向かって落下するのだから。しかし、私はその言葉を飲み込んだ。

 今彼の不安を煽っても仕方ない。私は穏やかに微笑むことで返事とした。

 このガイアリンクは、地球を貫通した真空のトンネルの中を進む。このゴンドラは重力に任せて地球のコアまで加速し、その勢いを利用して、地球の反対側まで到達するという仕組みだ。


「それでは出発します。皆様、シートベルトがきちんと締まっているか、再度ご確認ください」


 落ち着いたアナウンスが響き、ゴンドラが静かに動き始めた。乗客たちは思わず息を飲み、車内は一瞬、静寂に包まれる。

 さすがにいきなりフリーフォール状態にはならない。最初はエレベーターがゆっくりと下降するような感覚だ。


「これよりゴンドラは、沖縄から地球の反対側、ブラジルのパト・ブランコへと移動します。快適な地中の旅をお楽しみください」


 アナウンスが終わると、ゴンドラの動きは徐々に早くなっていった。

 ゴンドラの窓からはライトで照らされた地層が見え、その模様がゆっくりと流れていく。何千年、何万年もかけて積み重ねられた地球の記憶が、目の前を通り過ぎていくようだった。


「恐竜の化石とか、見えたりしないかな……」


 夫婦の男性が呟く声が聞こえた。加速が増すにつれ、体が浮き上がる感覚を覚える。


「ホワット!? これ……おちてね? おちてるよな!?」


 長身の男性が目を見開き、声を上げ始めた。だがもちろんゴンドラは止まらない。加速度は上がり続け、次第にそれは自由落下そのものに近づいていく。


「おーきたきた! これこれ、この感覚!」

「本当に遊園地のアトラクションみたい!」


 新婚の夫婦は嬉々として声を上げた。互いに笑顔を交わしながら、フリーフォール状態を楽しんでいる。

 しかし、それとは対照的に、長身の男性は真っ青になりながら叫び続ける。


「アー、ヘルプミー! タスケロー!」


 そんな彼を見て、何だか可哀想に感じる。きっと、ガイアリンクの仕組みをよく知らずに乗ってしまったのだ。

 やがて、下向きの重力と、落下の加速度によって生じる上向きの慣性力が完全に打ち消し合い、ゴンドラ内部は無重力状態になった。


「皆様、シートベルトを外しても構いません。しばらく、無重力状態をお楽しみください」


 穏やかなアナウンスが再び流れる。


「ようやくこの時が来た!」


 老人は待ちきれない様子でシートベルトを外し、浮遊し始めた。腰を伸ばし、腕を広げて歓喜する。


「腰も首も全然痛くない。体がこんなに軽いなんて……30年若返った気分じゃ!」


 その声には心からの喜びがあふれていた。少年のような笑顔で、ゴンドラ内を自由に飛び回っている。

 夫婦は、楽しげにボールを投げ合って遊んでいた。ボールが空中をゆっくりと移動し、無重力ならではの不思議な挙動を見せる。そのたびに二人は笑い声をあげ無邪気に遊んでいる。

 一方で、長身の男性はシートベルトを握りしめたまま、口を開けて上を向き、硬直していた。どうやら落下に耐えきれずに気を失ってしまったようだ。これを「果てしない落下」と捉えるか、「無重力状態」と捉えるかで恐怖心は大きく異なるだろう。

 フリーフォール状態になってから約1分半が経過した頃、窓の外の景色が赤一色に染まった。マグマの層だ。地球のマントル部分に到達したのだ。

 車内が少し静まり返る。炎のように赤く揺れる光景が続いている。これからしばらく、この赤い世界が続くのだと理解しつつも、私はこの景色の神秘さに息をのんだ。

 男の子はその景色をじっと見つめたまま、小さな声でつぶやいた。


「人間の技術力の進歩って本当にすごいよね。でも、そのたびに地球をどんどん壊していく。まあ……僕も簡単に帰れるようになって便利といえば便利なんだけどさ……」


 その言葉には、大人びた冷静さと、どこか諦めたような響きがあった。私はその発言に少し戸惑いを覚えながらも、優しく声をかけた。


「でもね、ガイアリンクは飛行機と違ってエネルギーをほとんど使わないから、地球にやさしい乗り物なんだよ」


 すると、男の子はわずかに首を傾げながら、ため息混じりに返事をした。


「エネルギーを使うとか使わないとか、そんなの地球には関係ないんじゃないかな?」


 予想外の返答に私は戸惑ってしまった。彼は私の反応を気にすることなく、さらに続けた。


「二酸化炭素が増えるとか温暖化とか……それって結局、人間が住みやすい環境かどうかの話でしょ?」


 男の子の返しはその通りだ。地球に優しい、というのは普通、私たちの生活が持続できるように、人間環境に優しいという意味だろう。彼は何を言いたいのだろうか。

 男の子は不満げな表情を浮かべたまま、言葉では説明しきれない複雑な感情がにじんでいるように見えた。


 その後も、皆思い思いに無重力状態を楽しんでいた。夫婦は笑顔でボールを浮かせ合いながら、はしゃぎ続けている。


「これ最高の体験だよね。まるで宇宙旅行みたい!」

「これ、旅行よりも移動の方が楽しかったりして」


 二人のご機嫌な声がゴンドラ内に響き渡っている。

 一方、気を失っていた長身の男性も、ようやく目を覚ましたらしい。彼の表情はまだ青ざめていたが、窓の外は一面の赤で、もはや上下がどちらかも分からなくなり、彼は少しずつこの非日常的な環境に慣れ始めたようだった。


 ゴンドラは地球のコアに向かって加速を続けている。周囲のマントルの温度もどんどん上がっているのだろう。


「ヒャッホー! わしも、まだまだいける気がしてきたぞ!」


 老人が宙を漂いながら声を張り上げた。体の軽さが彼の内面の活力をも呼び覚ましたのだろう。

 一方で、男の子は窓の外をじっと見つめたまま、小さな声でブツブツと呟いている。


「地上も地下も我が物顔で、自分の権利ばっかり主張して、好き放題……。こんな中まで荒らされてどんな気持ちかとか、そろそろ分からせてやるしかないか……」


「オー、アイワナゴーホーム……オウチ、カエリテェ」


 長身の男は相変わらず座席に座り、シートベルトをしっかり握りしめたまま力なく呟いた。

 そのとき、再びアナウンスが流れる。


「間もなく、地球の中心に到達し、ゴンドラの速度はマッハ22.7になります。その後減速を開始し、徐々に重力が戻ってきますのでご注意ください」


 出発から21分。ゴンドラは最高速度、時速28,000キロメートルに達し、地球の中心部を通過しようとしていた。これはロケットの飛行速度に匹敵する。そしてその勢いを利用して、地球の反対側まで突き抜けるのだ。これは振り子の仕組みと同じで、この旅にはエネルギーの消耗は必要ない。ゴンドラはただ重力に身を委ねているだけだ。

 地球のコア。温度は約6,000度――太陽の表面に匹敵する灼熱の世界。

 量子コンピュータによるシミュレーションにより生まれた、この温度にも耐えうる新素材が使われているからこそ、ガイアリンクは実現できた。

 また、トンネル内が真空であることにも、二つの理由がある。一つは、空気抵抗をなくし、ここまで加速できること。もう一つは、地球中心部の熱を遮断し、ゴンドラに伝えないことだ。

 地球の中心部で、私たちは眩しい光に包まれ、太陽の中を進んでいるような感覚にもなる。

 そこで私はふと気づいた。地球のコアは周期的に、わずかに明滅しているように思える。まるで心臓の鼓動のように……。


 地球のコアを通り過ぎると、身体に微妙な変化が現れ始めた。アナウンスの通り、重力が徐々に戻り始めたのだ。確かに、体が少しずつ床に向かっていく。

 そう言えば、地球の中心を越えたことで、重力は反転して、今は上下が入れ替わっているはずだが、ゴンドラ内ではそれがわからない。どうやらゴンドラは、無重力状態の間にゆっくりと回転し、内部の上下もいつのまにか反転していたようだ。


「皆様、席に戻り、シートベルトをお締めください」


 アナウンスが流れると、ボール遊びをしていた夫婦も、宙を飛び回っていた老人も、名残惜しそうに動きを止め、仕方なく自分の席に戻った。


「やれやれ、また体が重くなるのか……」


 老人は大きく息をつきながらシートに腰を下ろす。つい先ほどまで、無重力の中で少年のようにはしゃいでいた姿とはまるで別人のように見える。軽やかだった体と心が、再び重力に引き戻されていく感覚に、急に30歳ほど老け込んだように見えた。(実際は元に戻っただけだが)

 徐々に無重力の浮遊感は消えていき、体がシートに沈んでいく。最初はかすかな圧力だったが、時間とともにそれは強まり、明確な重力の感覚が戻ってきた。

 ゴンドラも減速を始めているので、重力と同じ方向に慣性力も働き、最終的には通常の2倍の重力がかかっている状態になった。


「おおっ、この圧も悪くないぞ!」


 夫婦の男性が楽しそうに声を上げる。両手をぐっと握りしめ、全身にかかる圧力を面白がるような様子だ。


「これ、もし修行とかに使ったら、短期間でめちゃくちゃ強くなれそうじゃない?」

「もう、何言ってるのよ」


 隣に座る女性は呆れたように笑っている。


 最終的にゴンドラの減速も徐々に緩やかになり、完全に停止したところで固定された。無事にブラジルのステーションに到着したのだ。

 車内が明るく照らされると、長身の男が真っ先に立ち上がり、逃げるように出ていった。だが、彼の表現には少し自信が表れているようにも感じた。他の乗客たちも順に席を立つ。

 私もシートベルトを外し、立ち上がろうとしたたき、あることに気が付いた。一緒に乗っていたはずの、あの男の子の姿が見当たらないのだ。


「あれ、男の子がいませんでしたか?」


 私はゴンドラの外で待機していた係員に尋ねた。しかし、彼は持っている機材で確認すると首を傾げ、少し困惑した表情を浮かべながら答えた。


「男の子?……申し訳ありませんが、そのような方の搭乗記録はないようです」


 その答えに、私は思わず言葉を失った。そんなはずはない。あの子とはいくつか会話も交わした。

 不安を抑えきれず、他の乗客にも尋ねてみる。すると、夫婦の男性が思い出したように言った。


「ああ、あの子ね。そういえば、地球の中心を過ぎた頃から見かけなくなったな……」

「でも、あのゴンドラの中って、どこにも行けないはずだよね?」


 隣にいた妻が首をかしげる。その言葉に、全員が同じように顔を見合わせた。ゴンドラの構造上、途中で外に出られるような場所など存在しない。それは明白だ。

 私の脳裏に、あの男の子の言葉の幾つかが蘇った。

連載している作品もありますので、よろしければどうぞ。

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