Yellow Signal 2
1
坂下美代子が新潟から三鷹に戻って一週間が経った。しかしあの新潟での城之川研治との嵐のような一夜のことがずーっと美代子の頭から離れない。家事をしている時も工場でパートの仕事をしている時もあの夜の二人の行動を思い返して、ボーっとしてしまうことがある。パートの同僚からは「どうしたの、坂下さん。新潟から帰ってから変よ。何かあったの」と聞かれた。
「ううん、なんでもない、ちょっと旅行の疲れが出たのかも……」とお茶をにごす。
(いけない、いけない、他人に何かあったと悟られるようじゃ)と仕事に集中する。
しかし、(もう一度研治兄さんに逢いたい)という気持ちは日々募る一方だ。(こんな還暦間近の年になってまるで初めて恋に目覚めた小娘のようだ)と自分でも思うがなんと言われてもいい、幼いころ子供心に好きだった研治兄さんをいい年をしたオバサンになった今、大人の熟年となって改めて好きになってしまった。「恋人」ではなく「愛人」と呼んだ方が自分としてはぴったりする。でもこれはあたしが勝手に舞い上がっていることで研治兄さんはどう思っているかは知らない。
あの夜、研治兄さんに「また会えるか」と聞いたら研治兄さんは「やめた方がいい。地獄に落ちる」とにべもなかった。それはわかる。会えば先夜のようにまた抱いて欲しくなるに決まっている。確かにそんな状況になったら地獄だ。研治兄さんの言っていることは正しい。
奥さんは施設で別々に暮らしているとは言え、研治兄さんはれっきとした妻帯者だ。自分が思いを寄せるのは勝手としても、研治兄さんにこっちを向いて欲しいと望むのは許されないことだろう。あんなことがあって研治兄さんはあたしのことをどう思っているだろう。一時の「あやまち」として忘れようとしているのだろうか。こっちの一方的な思いで研治兄さんをドロドロした不倫地獄に引きずり込みたくはない。研治兄さんに迷惑がられて嫌われるのだけは避けたい。
でも、(先日はありがとうございました。楽しかったです)というくらいの電話はしてもバチは当たらないのではないか、と美代子は思う。帰りの新幹線の中でも考えたことだ。電話するにしてもあまり間を置きすぎても間が抜ける。お礼のあいさつならせいぜい一週間以内だろう。
美代子と研治の40年以上ぶりの再会は偶然に偶然を重ねた、あり得ない確率で起こった。再会は必然で神様の思し召しにちがいないとあの時美代子は思った。神様は亡くなった新潟の友達かも知れないとも思った。せっかく神様がつないでくれた研治兄さんとの縁、電話もせずに立ち切ってしまうのは神様の意志に背くことだ、と美代子は思い定めた。
新潟から三鷹に戻った日の夜から今日までに何回、美代子は自分のスマホに残った研治の電話番号に電話しようと思ったことか。在宅しているであろう夜のそんなに遅くはない時間に発信ボタンを押しかけたことは何度もある。しかしそのたびに美代子は思いとどまった。(まだ早すぎる、ガツガツしていると思われたくない)そう思って我慢してきた。
しかし今日は帰ってから一週間目。もういいだろうと美代子は決心し、それでも長い間逡巡し、やっと覚悟を決めて発信ボタンを押す。
2
城之川研治はこの日仕事の帰りに駅前のスーパーで総菜を買って帰宅した。先週、新潟での滞在を一日延ばしたため出勤できなかった日の分を今日出勤したのだ。自宅で過ごす日は家で簡単な食事を作ることもあるが、出勤日は外でおかずを買って帰って夕食とすることが多い。夕食のおかずというよりは晩酌のビールの肴だ。
日中は忘れているがアルコールが入るとあの新潟での美代子との一夜のことがしきりに思い出される。成り行きで二人の気持が自然発生的に昂ったとはいえ、なんとも思い切った所業に及んでしまったものだと思う。結婚して以来、妻以外の女を抱いたのは、つまり浮気したのは初めてである。しかし後悔しているわけではない。あれは必然的な出会いで必然的な行動だったと研治は思っている。あそこで躊躇するのは男でない、と。美代子も同じ気持ちだったはずだ、と。
ベッドの中で美代子は「東京に戻ってからも会いたいか」と聞いてきた。質問の形をとっているが(会いたい)という意思表示であることは明白だ。それに対して自分は「やめた方がいい。続けるとろくなことにならない」とにべもない返事をした。なんとデリカシーのない言い草だ、と今にして思う。
しかし「会おう会おう」と美代子に迎合するのではなく、「それは良くない」と大人の対応を見せるのも熟年の男の分別であることも確かだ。建前と言っていいかもしれない。建前の裏には本音がある。本音では研治もこのあと美代子との関係をなにがしかの形で保ちたいという気持ちが全くなかったと言えばうそになる。せめて時々電話でしゃべるくらいはいいのではないか。
帰りの新幹線の中で研治は昨夜のにべもない拒絶を後悔した。拒絶した以上美代子から電話がかかってくることはないかもしれないが、二週間くらい経ったらこちらから電話してみようと思っている。自分から拒絶しておいて電話を掛けるのもカッコ悪いがそんなことを言っている場合ではない。この一週間の間に頭の中で美代子の存在がだんだん大きくなってくるのを感じる。
二本目の缶ビールを取りに腰を上げかけた時、スマホに電話がかかって来た。発信者は「美代子」と表示されている。
3
「…もしもし」
「…美代子です」
「…うん」
「…今、電話、いいですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「よかった。………研治兄さん、先日は…ありがとうございました」
「…いや…こちらこそお世話になった」
「お世話だなんて………研治兄さんにはああ言われたけど…あたし、我慢できずに電話しちゃった。……お元気ですか?あ、一週間前に会ったばかりなのにあたしったら間抜けな質問」
「ああ、……相変わらず元気だ。美代子も元気そうだな」
「もちろん元気よ」
美代子からすると元気なことは元気だけど、あたしは今、研治兄さんへの「恋の病」にとりつかれているのだ。
「それは何よりだ。………あのな………」
「なに?」
「……新潟でのことだけど……」
「………はい………」
「………俺は…美代子に申し訳ないことをしてしまったんじゃないかと思って……」
「ホテルの部屋でのこと?」
「うん」
「そんなことない。あの時、研治兄さん言ってたじゃない、しいて言うなら二人とも悪いし、二人とも悪くないって」
「うん、それに違いはないけど」
「だったら気にすることなんてないじゃない。あたしはとってもうれしかったんだし」
「そうか」
「ただね」
「ん?」
「寝た子を起こしたのは研治兄さんの罪かも知れない」
「寝た子?」
「そう、あたしも還暦が近くなって更年期も経験し、女としてはこのまま穏やかに齢をとって火が消えて行くんだろうなあって思っていたわけ」
「なるほど」
「それがあの一夜の出来事で、長い事ご無沙汰していた女の性を思いがけず体験してあたしはまだまだいけるって思っちゃった。おとなしく眠っていた私の中の『女』が目を覚ましたっていうのかな、残り火が燃えてきちゃったの」
「そういう罪なら確かにあるな。でもそれはこちらも同じだ。十何年ぶりで美代子と…したことで俺も男としての自信を取り戻した気がする。今後活躍の場があるかどうかわからないが」
「ほら、あたしたちにとっては決して悪い事じゃない」
(せっかくの復活、あたしは再度、研治兄さんと……)口には出さず言葉を飲み込む。
「そう前向きに捉えよう」
「でもあたしたちって、一日佐渡観光をして、夜、食事を始めたころまではまさかホテルであんなことになろうなんて思ってもいなかったんじゃない?」
「その通りだ。俺は夕食後は美代子を宿まで送っておとなしく家に帰るつもりだった」
「あたしも研治兄さんとはホテルの前かロビーでさよならを言うつもりだったのよ」
「空気が変わったのは美代子が初恋を打ち明けた時かな」
「だって子供の時からずーっと好きだったんだもの。この歳になっても好きなことを本人にぶつける最初で最後のチャンスだと思ったのよ」
「…正直に言うと、再会して大人になった女としての美代子も、一般的に、客観的にだよ、いい女になったなあ、とは思っていたけど、アルコールのせいもあったか、あの告白を聞いた瞬間から…性愛の…性行為の対象として意識するようになった、ごめん」
「ううん還暦近いあたしにそこまで言ってもらってうれしい」
「小さい時のあのチビがこんないい女になるとはね」
「褒めすぎよ」
「いや、本心だ」
「ところで研治兄さん、新潟から戻って、奥さんに会った?」
「いや会ってない。3日後に家に一泊しに戻ってくる予定になっている」
「そう、ちゃんと奥さんの顔を見てね。堂々と」
「わかった」
「女って意外に敏感よ」
「気をつけよう」
研治が時計を見るともう1時間近くも電話が続いている。長すぎる。美代子はまだまだ話していたそうだったが、毎週日曜日の夜8時に美代子が研治に電話をかけてくることを取り決めてこの夜は通話を終えた。
4
毎週日曜日、美代子からの定期的な電話が入るようになって2ヶ月目に入り季節は初夏となった。研治も毎週の電話を心待ちにするようになっていた。美代子は3、4回目の電話の頃から、逢って顔を見て話がしたいと言い出すようになった。最初研治は会うことによってズルズルと二人の関係が深みにはまり込んでいく行く恐れがあるので「まだ早い」と押しとどめていた。6月の何回目かの電話の時、美代子はとっておきの切り札を切ってきた。
「7月11日は私の58歳の誕生日なの。ここ何年も誰にも祝ってもらってないから、今年はどうしても研治兄さんにお祝いしてもらいたいの。ダメ?」と断れない状況で攻めてきた。
「あまり大げさにはしたくはないからランチにしようと思うの。あたしはその日は空けてあるけど研治兄さんの都合が悪ければ近くの他の日でもいいからつき合って。お願い」ときた。
研治がカレンダーを調べるとその日は平日だが、出勤日にはなっていない日であった。こうなったら覚悟を決めるしかない。ランチくらいなら構わないだろう、と心を決めた。
「わかった。バースデーランチを一緒にしよう。行きたいところの希望はあるかな?」
「和食でも中華でもフレンチでもイタリアンでもあたしは何でもいいです。研治兄さんにお任せします」
「わかった。適当なお店を予約しておく。お酒も少しは頂こう」
「うれしい。楽しみにしてる」
ということで新潟以来二ヶ月ぶりに研治と美代子は顔を合わせることになった。
研治が選んだ店は日比谷のビルの中にあるイタリアンレストランで、夜は予約が取りにくいことで知られている店である。しかしランチなら比較的予約は取りやすい。研治は予約の際に個室を頼み、〝妻〟の58歳の誕生日のランチであることを店に伝えておいた。サービスでバースデーケーキを用意してくれるらしい。研治は美代子を〝妻〟と偽ることに後ろめたさを覚えたがこうしておくのが一番いいのだ、と自分を納得させた。
当日美代子は待ち合わせ場所にシックな装いで現れた。上は刺繍の入ったTシャツの上からグレー薄手の夏ジャケットを羽織り、下は薄いブラウンのプリーツスカートという組み合わせだ。精一杯めかし込んできたのだろう、40代と言われても納得だ。研治は糊のきいたドレスシャツ、夏用ジャケットに替えズボン、ノーネクタイである。
料理はコースであらかじめ頼んでおいたので運ばれてきたものを順に片付けて行くだけである。美代子は初めて口にするものもあって「おいしい、おいしい」と夢中で食べている。
アルコールは二人で赤ワインのボトル1本を空けた。ややもの足りないくらいでいいのだ。
デザートの時間となった。美代子にとってはサプライズのバースデーケーキが運ばれて来てケーキに「MIYOKO」の文字を見つけた美代子は狂喜した。つい「ありがとう、研治兄さん」という言葉が美代子の口から出た。食事中もスタッフの前では口に出すのを自粛していた言葉だ。しかしケーキを運んできた店のスタッフも何のことかわからなかっただろう。
研治はバースデーケーキを頼んだ時、美代子へ他にもバースデープレゼントをあげようかと考えた。しかし妻のいる自分の立場を考え、そうすべきではないと思い直した。こうして一緒に食事をすることが最大のプレゼントなんだと。
支払を済ませてレストランを出たのは午後2時を回っていた。その後美代子のたっての希望で二人は日比谷で映画を見た。映画館では美代子は研治の手をずっと握っていた。終映後、二人は帰途についたが美代子はもっと一緒にいたかったようであった。
*
バースデーランチの後も毎週の美代子からの定期電話は続いた。しかし昼とはいえ一回顔を合わせてランチを一緒にした以上、美代子は強気に出て「また逢いたい」と言い出した。
そこで月に一回ランチを一緒にすることにした。特に予約もしない、ごくざっくばらんなカジュアルな食事である。昼から開いてるそば屋でも居酒屋でも焼き鳥屋でもいいのだ。ランチの後は映画、観劇、寄席等に二人で行った。こちらの方がメインかもしれない。しかし昼ではアルコールを充分いただけないので、夜にしようと美代子が言い出した。アルコールのせいであの夜のようなことにならないようにという研治の予防策を充分に尊重した上での美代子の提案である。夜ということになれば当然「飲みに行く」ということになる。夜ならお店の選択肢は広い。店を探す、選ぶということではこっちの方が楽である。結局10月の会食(いや飲み会か)から会うのは夜、ということになった。新潟での再会から半年が経っていた。
研治にとっても夜飲みに行くだけなら許容範囲内である。ひと処に長い時間腰を落ち着けていられる。映画などランチ後に行くイベントを探す必要もない。こうして月に一度の研治と美代子の逢瀬は続いていった。美代子から月に一度では寂しいから半月に一回にしたいと言われたても研治は首を縦に振らなかった。月に一度にとどめ、新潟での出来事は別としてプラトニックな関係を保つことが妻に対するせめてもの礼儀だと思ったからである。
5
そういった研治と美代子の関係の転機は突然訪れた。研治の妻、加奈子が施設で急死したのである。
12月上旬の小春日和の暖かい日、加奈子は施設のスタッフに車椅子を押してもらいながら施設の周囲を散歩に出た。施設の垣根の角を曲がった時、加奈子が突然喉に手を当てて苦しみだした。スタッフはすぐに喉に痰が詰まったと判断し、急いで施設に引き返した。施設には痰の吸引器がある。職員も研修を受けていた。施設に戻って吸引を始めるまで3分とかからなかっただろう。しかし間に合わなかった。死因は痰が喉につまった窒息死と診断された。
関係機関の調査が一通り済んで事故と認められた後、施設長と担当スタッフが研治の家に謝罪に訪れた。施設側に大きな過失はなかったと判断した研治は謝罪を受け入れた。
加奈子の死を電話で美代子に伝えると美代子は絶句し、「あたしのせいだ」と言い出した。
「あたしたちが好き勝手していたから」と涙声になる。
「そんなことはない。一番悪いのは俺だ」と研治はなだめる。葬儀が終わったらこちらから連絡すると言うと、
「わかった。研治兄さんいろいろ大変だと思うけどちゃんとやって上げてください。お香典でも差し上げたいけど、そんなことが出来る立場でもないし、あたしは今回の葬儀に関しては何もしません」と冷静な美代子に戻っていた。
葬儀が済み、二週間ぶりに加奈子に電話をし、葬儀の報告をし、会うのは当面自粛することにした。美代子も素直に同意した。しかし日曜の美代子からの定期便は継続する事にし、頻度は2週間に一回にすることになった。
その後四十九日、納骨とこなし、一周忌を済ませた翌週の夜、研治と美代子は久しぶりに会うことにした。一年以上の間を置いた再会であった。予約しておいた小料理屋の個室に落ち着くと二人はまず、盃を掲げて加奈子に献杯した。
「研治兄さん、この一年ご苦労様でした」
「うん、あっという間だったよ」
「亡くなってまだ一年しか経ってないのにあたしが研治兄さんとこのように楽しくお食事なんかしていていいのかしら」
「なあに、加奈子ももう温かく見守ってくれていると思うよ。もう自分が出来ないことを美代子にしてもらってね、という気持ちで」
「そうだといいけど」
「美代子」
「ん?」
「最近思うんだけど、別居していた妻であってもいざ死なれてみると寂しいもんだね。美代子は経験済みのことだろうけど。一人暮らしは以前と変わらないけれど、もう二度と加奈子が家に帰ってくることはない。加奈子の物も家にそのまま残っている。一人になった寂しさをつくづくと感じるようになった」
「そう、寂しいわよね、よくわかる」
「うん」
「でも、こんなふうにも考えられない?こんなこと言っちゃ不謹慎だと言われることは百も承知で言っちゃうけど、……研治兄さんも連れ合いを亡くして、あたしと研治兄さんは寡婦と寡夫のやもめ同士。こうして会うのに何の遠慮もいらなくなったんじゃない?私たちって」
「そういうことになるかもしれない。ただ、加奈子生存中から関係があったというのがいささか引っかかる所かもしれない」
「それは言わないの」
「そうだな」
「あたしの方が奥さんより研治兄さんとの付き合いは古いの。子どもの時からだもの」
*
8時を過ぎ、勘定を済ませて店の外に出た。美代子は自然に研治の腕に手を絡ませてくる。
駅へと向かう二人の足取りは緩やかである。
「………研治兄さん」
「………ん?」
「あたし……うれしい」
美代子の心の内は研治には痛いほどわかっている。自分も同じ気持ちだからだ。
美代子はこの夜は抱かれるつもりで来ているし、自分も抱くつもりである。ここは美代子に言わせてはならない。こちらから言い出すべきだ。
「………このまま帰りたくないな…美代子…」
「あたしも……どこか二人だけになれるところへ行きたい」
二人はあまり大げさではないが品のあるビジネスホテルの一室に落ち着き、新潟でのあの夜以来約一年半ぶり二度目の性愛のひと時を過ごした。研治は64歳、美代子は59歳になっていた。
*
この日を境に二人の逢瀬は再開され。誰に気を遣うこともなく、「不倫」という重しが取れた二人はのびのびと月に1、2度の逢瀬を楽しんだ。日中に会うこともあれば、夜に飲みに出かけることもあった。研治の家か美代子のマンションで会うことはなかった。彼らなりのけじめである。
食事のあとはほぼ毎回のようにホテルの一室で陸み合った。お互いにすでに若くはないことを実感し、まだ性の交歓が出来る今のうちにせいいっぱい楽しんでおきたい、と二人とも思っていた。
ある逢瀬の時のベッドでの寝物語で美代子が語ったことがある。
「あたし、実はこどものころ、研治兄さんとは大人になっても縁がつながっていくって予感がしていたの。まったく根拠のない予感だけど」
「ほう、そうなのか」
「大人になってからは忘れていたんだけど、死んだ主人と結婚する時、なぜか一瞬そのことを思い出したの。マリッジブルーというのかしら、これでいいのかと感傷的になった時に思い出したのね」
「嫁に行く時、俺を思い出したてもらったのか、これは責任重大だ」
「私が勝手に思っていたことだから気にしないで」
「しかし、かなり年数はかかったけど、美代子の予感は現実のものとなった」
「そう、不思議。しかもただ再会しただけでなく、こんな関係になった」
「恐ろしきは女の一念かな、だ」
「そうよ、女って怖いのよ」
「考えてみれば昨前の新潟での再会からして不思議な巡り合わせだったな」
「神様の意志が働いているとしかあたしには思えないの」
「便利に使われる神様もたまったもんじゃない」
「ふふ」
*
「美代子」
「ん?」
「こうして時々美代子とベッドでこんなことをするたびに思うんだけど………」
「……何?」
「俺たちの相性は心も身体もピッタリと合っていると思わないか」
「ほんとにそう。運命の相手なのね、あたしたち」
「そうとしか思えない」
「それはそうとして、若い頃の行為に比べて、今は勢いや激しさなんかもあの頃のパワーはない」
「そう?」
「だけど今の方が穏やかに丁寧に時間をかけて……楽しめていると思うんだ」
「うん、あたしもそんな気がしてる」
「若い頃はするんだ、してやるんだっていう義務感みたいなものが前面に出て、しゃにむにがんばっていたような気がする。挿入だけが目的って言うのか、ゴールだと思っていた」
「そうかも。それが一番直接的に大きな快楽を自分が得られ、相手にも与えられる行為だと思っていたわ、あたしも」
「でも今思うのは、性を楽しむって言うのは何も挿入だけじゃない、と思うんだ」
「うん」
「相手を愛しいと思いながら全身を愛撫するとか、肌を触れ合わせるとか、結局はそういう身体全体のコミュニケーションじゃないかって。たとえ挿入に行きつかなくても」
「その通りだと思うわ。若い頃のパワーがなくなったからこそそういう性の楽しみ方が見えてくるのね」
「自分にはよくわからないけど、同性同士の性行為ってこういうことなんじゃないかって思うよ」
「そうかあ、そうかも」
「つまり俺が言いたいことはこういうことだ。今のおれたちのやり方は若い頃の体力も性感も強かった時とは違うけれど、年齢を重ねた男と女のゆったりとした営みだ。かえって今この時が人生最高の性を味わえているんじゃないかって」
「あたしも同感。今が、これまでの人生の中で一番性を楽しんでる。相手が研治兄さんだってこともあるけど」
「年齢によって楽しみ方も満足の仕方も違ってくるということかな」
「そうね。若者には若者の、熟年には熟年の楽しみ方があるってことね。あたしたちは若い頃の激しい行為よりもゆったりとした今のやり方のほうが合ってるのよ」
「そういうことだな。新潟で美代子に再会するまでは、もう自分の男としての性生活は終わったと思っていた。あとは穏やかに朽ちて行くだけだと」
「あたしも。閉経し更年期が来て女を終え、後は一人で寂しく歳を取って行くだけだと思ってた」
「それが美代子という相手を得て、男として復活することになった」
「あたしも女の喜びを取り戻した」
「…前にも美代子とこんな話をしたことがなかったっけ?」
「覚えてる。新潟から帰って初めて研治兄さんに電話した時」
「そうだったな。それほどこの歳になってからの性の復活はおれたちにとって大きな出来事だということだな」
「そう、熟年の性、万歳よ。今の50代60代はまだまだ若いのよ、心も体も。男盛り、女盛りよ」
「ああ、その通りだ。楽しめるだけ楽しみたいものだな、美代子」
「賛成、研治兄さん}
*
二人の仲は片方が死ぬまで続いていくのだろうか。性的な触れ合いはいつまで可能だろうか。二人とも配偶者に先立たれたやもめ同士、再婚するのには問題ないはずだが果たしてそういう成り行きになるのか、再婚は視野には入っているが二人の気持はまだ定まってはいない。今の関係が「地獄に落ちた」状態だと言うならばそれでも良い。今の二人には亡くなった配偶者の顔も離れて暮らしている子供たちの顔も浮かんでこない。運命的な相手と今を精一杯楽しむだけだと思っている。
(終)