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90 日記

 ……この日記は、今までずっと琴音と二人で書き綴ってきました。それが今では残されたわたしひとりだけ……。日記の続きをわたしが書き出したのは、自分という存在が再び明るみに出る、その心の整理のためです。


 しかし、わたしとは誰のことなのか、わたし自身にも今まではっきりとは分かりませんでした。鞠奈という少女は十五年前、確かに生き延びていた。それでも、その時に精神は死んだのです。それからのわたしは決して鞠奈ではなかったと思います。鞠奈という人間は、この十五年の間、どこにもおりませんでした。鞠奈という名前は、琴音がわたしを鞠奈と呼ぶ時、あるいは、父がわたしを鞠奈と呼ぶ時、わたしはそれを空虚な番号のように思っていました。なぜならば、わたしはその言葉の内側に、確かな「わたし」というものを発見することができなかったからです……。


 だからわたしは、琴音として生きる中で、悲しみを感じた時も、喜びを感じた時も、怒りを感じた時も、そこに確かな自分というものを感じることができませんでした。わたしに向けられた愛情は、本当はすべて琴音に向けられたもので、わたしの感情もそれに対する反応にすぎなかったのですから。すべては、琴音に成り切っているわたしの表面的な偽りの感情に過ぎませんでした。わたしの感情であっても、鞠奈から自然と生まれてきた感情ではない、琴音を演じる偽りのわたしから生まれてきた感情に過ぎませんでした。だから、わたしはその意味でずっと琴音の影法師だったのです。


 その為に、わたしはいつしか「影」というものを恐れるようになりました。なぜならば、わたし自身が、琴音に差し込む明かりの反対側にできた影のひとつに過ぎなかったからです。そして、真実の自分というものは、ずっとどこかわたしの胸の底に沈んだまま、自分でさえも見つけ出すことができないほどになっていたのです。


 わたしが鞠奈として本当にこの世に蘇れるとしたら、そのきっかけは何だろうと、そのきっかけはいつ訪れるのだろうとずっと思いをめぐらしていました。


 そのひとつの機会は琴音が首を吊って死んだ時でした。わたしは、琴音が死んだ時に、琴音という拠りどころを失って、否が応でも真実のわたしというものを復活させなければならなくなりました。つまりは、鞠奈という存在をこの世に再生させなければなりませんでした。ところが、わたしはこの時も結局、鞠奈にはなれませんでした。わたしは代わりに琴音として生き続けました。ここでもまた、わたしは真実のわたしを手放してしまったのです。


 わたしは、琴音が殺された責任が自分にあると思っていました。琴音が誰かに殺されたことは知っておりました。でも、それはただの表面的な事実です。もっと精神的で、本質的な部分で、わたしは琴音を死へと追い込んでしまったのです。 


 なぜならば、わたしは隼人さんとの駆け落ちの約束を琴音に話さなかったのです。その約束を独り占めしたかった。彼女はただ絶望の中、その事実を一度として聞かされることなく、可哀想に死んでしまったのです。わたしは偽りの存在でありながら、本物の琴音から、隼人さんの愛を奪ってしまったのです。


 わたしは、その責任から、鞠奈という自己を完全に捨て去ることにしました。なぜならば、わたしはそれまで琴音の名を借りて、隼人さんと愛し合っていました。そして琴音の死んだ後も、隼人さんの記憶の中では、琴音がずっと生き続けていたのです。


 ところが、もしもわたしが鞠奈としてこの世に蘇り、これから滝川鞠奈として隼人さんと愛し合ってゆくことになれば、隼人さんにとっては、鞠奈こそが真実で、今度は琴音が偽りのものになってしまう。そうなれば、死んだ琴音との楽しい思い出は、隼人さんの記憶からいつしか偽りのものとして消えてゆくことになるでしょう。今はそうでなくても、いずれ必ずそうなるでしょう。


 ……それこそが、琴音が本当に死ぬ時だと思います。


 ところがやはり真実は、偽りの存在こそ鞠奈の方であって、やはり死んでしまった琴音こそ真実の存在だったのです。だから、わたしは鞠奈ではなく琴音となって、彼女の代わりにこれからも生きなければならないと思ったのです。彼女を演じ続けなければならないと思ったのです。隼人さんの記憶の中の琴音をこれからも生かし続ける為に……。死んでいった琴音の記憶を殺さない為に……。


 ……それでも、わたしはもう琴音としては生きてゆけない。真実のわたしを見つけなくてはならないと、そう思うのです。滝川鞠奈として生きなければいけないのだ、とそう思うのです。

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