8 琴音の一周忌
先ほど、赤沼家の菩提寺である補陀落山金剛寺で、琴音の一回忌の法事が終わり、赤沼家の人々は、住職のありがたいのかどうかよくわからない法話を聞いてから、座敷に移動して、そこで食事と酒を酌み交わすこととなった。
金剛寺は、切り立った崖の上に建てられた苔むした寺で、風が吹けば奈落の底に落ちて、今にも無くなってしまいそうな印象を受けた。
崖から見下ろすとそこにあるのは、白い霧がかかっていて、天狗でも住んでいそうな、ぞっと肝が冷たくなる深い深い谷底であった。
赤沼家の本邸のあるこの地域は、かつて観音信仰が特別に根深かったところで、そのせいで補陀落山などという山号をもつ寺が出来たのだとかいう。補陀落とは、観音浄土のことである。
赤沼家の人々には、そんなことをしみじみと語る住職の法話はまったくと言っていいほど心に響かなかったらしい。
法話といえば、檀家の為になるようなことを語ればいいところを、寺の成り立ちを語ったにすぎず、そんなことは赤沼家の人々には元より関心のない話であった。
この法事の為に、赤沼家の長男淳一と次男吟二が妻を連れて、すでに帰省していた。
三男の蓮三は、仕事の都合で、法事には出席せずに、年が明けてから帰省し、線香を供えるということであった。
この長男淳一と次男吟二は、一年前の琴音の自殺以後、その死の原因をめぐって、対立を起こしていた。
長男の淳一は、ビールや日本酒を飲み、大トロの握り寿司を箸でつまみ、飲み込むように平らげていた。
赤沼淳一は、重五郎の会社に勤めていて、次期社長候補といったところであるが、まだ三十五歳の若さである。
重五郎はかねてより、淳一の性格が人間に対して冷淡すぎて、将来、部下が離れていくのではないかと心配していた。
しかし大企業を経営するのであれば、重五郎のような人情家、時として感情的になりすぎるきらいがある人物よりも、淳一のようなシステマティックで淡々とした人間の方が適任なのかもしれなかった。
その淳一の食事の様子を、向かい側の席から怪訝な表情で見つめる男がいた。次男の赤沼吟二である。
赤沼吟二は、赤沼家の家名や伝統といった重圧に抵抗して、ほとんど家族と縁を切って、画家として日本中を旅したり、好き勝手な生活をしていた。
そんな吟二の将来を重五郎は心配している。また重五郎の心配していたことには、彼には、すぐに他人に喧嘩をふっかける血気盛んなところがあった。
赤沼麗華は、羽黒探偵事務所で相談をした後であったので、その進捗状況を絶えず気にしていた。
あの日から数日が経ったが、羽黒祐介からの連絡はまだない。
麗華は、座敷に座ってアジの寿司を食べたところだった。
(あれ、いない……)
二人の兄がいつの間にか退室して、どこかへ消えてしまっていた。
(何か揉め事が起こってるんじゃ……)
と麗華は気になって立ち上がった。
麗華が少し寺の中を探すと、果たして、禅寺風な枯山水を拵えた庭の端で、二人が向かい合って立っているところを見つけた。
「どうした? さっきから不満がありそうな目でこっちを見てばかりいたな。言いたいことがあるなら言ってみろ」
淳一は、吟二の視線に気づいていて、それを咎めようとしている口ぶりであった。怒りの感情の混じった冷やかな響きであった。
吟二も、じっと淳一を睨みつけたまま、しばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。
「兄さん、今日は、琴音の法事というのに、ずいぶん平然としているじゃないか。それが不満で仕方ないんだよ」
「平然と飯を食って何が悪い。もう琴音が死んでから一年にもなるんだぞ」
「兄さんは、一年やそこらで、あの出来事のことをすっかり忘れてしまったようだな」
「何を忘れたっていうんだ、覚えているからこうして法事に来たんだろ」
「覚えているだって……」
吟二は、いかにも腹立たしげに呟いたと思うと、壊れたラジオのように突然、笑い声を上げた。
麗華は、寺の縁側に立って、その様子を肝を冷やしながら見ていた。実はこうなることはうすうす分かっていたのだが、止める術はなかった。それどころか、こんなことはまだまだ諍いの序の口にすぎないと思われた。
「琴音は、隼人君と一緒になれば、さぞ幸せだったことだろうな」
吟二は、皮肉をたっぷり込めてそう呟いた。
「またそれか。もういいだろう。そのことは」
「兄さんにはわからないのさ、赤沼家の檻に閉じ込められたこの苦しみが」
「俺だって赤沼家の人間だ。この家の重圧も理解しているつもりだ。だが、あの男は、うちには合わなかったよ」
「兄さんが、そういうことを言って、例の名家の息子とやらを連れてきたのが、そもそも良くなかったのさ」
麗華には、吟二が何のことを言っているのか思い当たる節があった。麗華は、一年前のある騒動のことを思い出していた。
琴音には、深く愛していた村上隼人という青年がいた。その恋はついに赤沼家の人々に許されなかった。そしてその後、琴音が絶望に打ちひしがれ、死の直前も、憔悴しきった表情を浮かべていたことが、麗華の脳裏にまざまざと蘇ってきたのである。
「お前はそれしか言えないのか。好きな男と結ばれないからって、わざわざ死ぬやつはいないだろう。お前は、琴音が村上という男と結ばれなかったから自殺したと本気で思っているのか」
「それ以外に何があるって言うんだ。あの騒動の一週間後に、琴音は自殺したんだぞ!」
「そんなにあの男と結婚したけりゃ、あいつは駆け落ちでも何でもしただろうよ。それぐらいのことで自殺するのは、ただ本人の意思が弱かっただけのことさ」
「本気で言ってるのか、兄さん」
今にも殴りかかりそうな血走った鋭い目つきで吟二は、淳一を睨みつけた。
「勿論、俺は、琴音があのことで死んだとは思っていない。琴音もそれほどの馬鹿ではなかったろう」
「馬鹿とか、そういう話じゃないだろう」
吟二は、琴音をおとしめる発言だけは許せなかったらしく、苦々しく呟いた。
「とにかく、一族が集まる場では、俺のことを睨むな。お前はもっと周りをみろ。叔父さんや叔母さんも来ているんだぞ」
淳一はそう言うと、この様子を誰かに見られることを心配したのか、踵を返して、庭をさっさと歩き、ついに見えなくなった。座敷に向かったのだろう。
一人残された吟二は、何かを考えているらしく、眉をひそめて、枯山水の規則的な波紋をじっと見下ろしていた。