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76 淳一と吟二

 祐介と英治が稲山の案内のもと、次に訪れたのは淳一の部屋であった。淳一は安楽椅子に座って文学作品を静かに読んでいたらしい。冷徹な人間であるとの周囲の噂に反して、ゾラの「居酒屋」という情緒豊かな小説を好んでいるらしかった。祐介は、人間とは自分の欠けている部分をどこかで補おうとするものかもしれない、と思った。妻の姿はなかった。


「小説を読まれているのですか」

 と祐介が尋ねると、

「いえ、くだらないものです」

 と淳一は言下に言い切るのだった。くだらないと思うなら読まなければいいのに、と祐介は思った。くだらないと否定しながらも隠れて小説を読んでいるところに淳一の心の不安定さが見え隠れしているようだった。父や弟が芸術や文学に励んでいることを否定しながらも、内心ではそうしたものに憧れを持っているようでもある。


「淳一さん。あなたが事件が発生する以前、最後にアトリエに訪れたのはいつのことでしょうか」

「アトリエですか。確か事件当日の午後一時頃でしたね。わたしは、少し散歩しようと思って手袋をつけ、玄関ホールから出たのですが、元気のない父のことが少し心配になって、アトリエに行ってみたんです。父は、アトリエの中でカーテンを閉め、部屋を暗くして、仮眠を取っているようでした。わたしはアトリエに入り、電灯をつけて、少し父と喋ってから外に出ました」

 この時点で、重五郎は仮眠を取っていたのだ。絵を描くと称して、実際は何もしていなかったのである。それとも、まだ絵の構想が出来上がらなかったのだろうか。しかし祐介は、これが事実であれば面白い具合に辻褄が合う、と思っていた。


「その時はどうでしたか。重五郎さんのご様子は……」

「特に……。でも何かひどく思いつめている様子ではありました」

「そうですか……。絵は描いていましたか?」

「さあ……そこまでアトリエの内部を注意して見なかったもので」

「分かりました」

 祐介は静かに頷いた。淳一に礼を言うと、祐介は英治と共に部屋を後にした。


            *


 次に祐介と英治が稲山の案内のもと、向かったのは吟二の部屋であった。吟二は、さまざまな問題に対する気持ちがおさまらないらしく、そのあたりの山道をしばらくランニングしていたらしい。ちょうど彼が玄関ホールに戻ってきたので、四人は雑談をするようにして、自然な成り行きで吟二の部屋に集合した。その実、祐介は吟二に指の怪我について是非とも聞いておきたかったのである。吟二は部屋に入ると天然水の入ったペットボトルを円形のテーブルの上に置いて、どかっと椅子に座った。


「琴音が生きて返ってきたことはなによりも嬉しかった。ただ父を殺した犯人だなんていうのはとても信じられませんね。同時に母は今にも自殺しそうな勢いだし……。赤沼家はもうぐちゃぐちゃですよ」

 吟二はランニングをしてきたが、あまり気持ちは晴れ晴れとしていないようである。


「事件当日、人差し指を怪我されたそうですね」

 と祐介は本題に移した。

「ええ。人差し指を怪我したのは事件のあった日の朝の、そうですね、午前九時頃のことです。古いギターを弾こうとしたら弦が切れましてね。その時に指の腹を傷つけてしまったんです。昼まで絆創膏をつけていましたが、昼をすぎたら絆創膏が嫌になってすっかり外してしまいました。血も止まっていましたし、絵を描くのに、絆創膏がついていると何かと不自由なので……もっとも、その日は結局、絵は描きませんでしたが……」

 祐介は、その言葉にぴくりとする。英治はふたりがなんのことを話しているのか、よく分からなかった。


「あなたは事件が発生した日、アトリエに二回以上、訪れていますね……?」

「よくご存知ですね。刑事さんから聞いたんですか。一度目は、事件当日の朝の午前八時頃のことですよ。父がどんな絵を描いているか気になりましてね。ひとりでアトリエに行ってみたんです。そうしたら、父は部屋を暗くして寝ていましたね」

「その時はスイッチは押さなかったのですか?」

「何のスイッチですか?」

「電灯の、です」

「押しましたよ、じゃなきゃ分厚いカーテンのせいでアトリエは真っ暗なままですよ」

「人差し指で……?」

「そうです」

「手袋はなさっていましたか?」

「いえ……」

 祐介はその話に、少し満足そうに頷くと、さらに質問を続ける。


「分かりました、次にアトリエに訪れたのは何時頃のことですか?」

「確か午後三時頃です……。アトリエに行くと父はカーテンを閉め切って、やはり仮眠を取っていて、わたしが電灯をつけると、ゆっくりと起き上がってきました。特に大したことは喋りませんでしたが……」

「その時、重五郎さんは何か絵を描いていましたか?」

「見当たりませんでした。わたしもそれは不思議に思ったのですが、その後になにか描き始めたのではないですか?」

 祐介はそれを聞いて静かに頷いた。


 それから祐介と英治は、吟二の部屋を後にすると、ずっと付き添ってくれた稲山執事にお礼を言って、民宿の近くの和菓子屋で購入した茶饅頭をふたつ渡した。玄関ホールから出ると、祐介は城のような赤沼家本邸をぐるりと一周し、アトリエの外見を観察して、それから道の傍らに停めていた車に戻った。


「聞きたいことはすべて聞いたかい?」

 と運転席に座るなり尋ねてくる英治に、祐介は助手席でしばらく返答せずに、なにか考えている様子だった。

「あとひとり、事情を聞きなきゃいけない人がいる。それで事件の真相はすべて明らかになることだろう……」

「それは一体、誰だ……?」

 祐介は、しばらく幻を見ているように山道を眺めていたが、

「赤沼琴音さんだよ……」

 と呟くように言うと彼は眉をひそめ、息を吐くと腕組みをした。

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