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75 稲山執事と早苗夫人

 祐介と英治が玄関ホールに戻ってくると稲山執事のケヤキの枯葉のような後ろ姿が見えた。稲山はぼんやりと考えごとをしているように突っ立っている。それはまるで一本の爪楊枝のようでもあった。

「稲山さん……」

 稲山は振り返った。今度の騒動で相当疲労が溜まっているらしく、十歳は年を取ったようであった。

「はい。なんでしょうか……」

「稲山さん。お尋ねしたいことがあるのですが、よいでしょうか」

「ええ。なんでしょうか……」

「ここだと人の目がありますから、どこか別の場所で……」

「それならわたしの部屋に行きましょうか……」


 稲山に連れられて、祐介と英治のふたりは屋敷の裏口に近いところにある角部屋に向かった。この部屋は、まったく装飾らしきものがないひどく地味なところだった。祐介は心理的な探偵法を得意としているから、稲山の性格が分かるものを目で探った。すると本棚に備前焼のぐい飲みが飾られていると、海釣りの本が一冊斜めになっているのを発見したくらいだった。

 稲山は疲れた様子で椅子に座った。

「失礼します。このところ調子が悪くなることばかりで……」


「どうか無理をなさらず。それではあまり長居しても迷惑でしょうから、簡潔にゆきましょう。わたしがお尋ねしたいのは、稲山さんはこの赤沼家で執事を始める以前は、どこで何をされていたのかということです……」

「赤沼家の執事になる前は、栃木の鬼怒川の近くのとある地主の方のお宅で執事をしておりました」

「赤沼家とはまったく関係がなかったのですか?」

「その頃は、そうですね。正直、名前も存じておりませんでした。ただ、その地主の方が亡くなられて、後継ぎの息子さんがもうわたしを必要としていなかったので、それで知り合いに赤沼重五郎さんを紹介してもらったんです」

 本当のことを言っているのだろうか、祐介は稲山の視線の変化を探ろうとする。しかし稲山は疲労している、焦点の定まらない目つきで窓の外を眺めているだけであった。


「なるほど。それとですね。村上隼人さんが赤沼家に訪れて、村上さんが琴音さんの仏壇にお線香をあげるという話になった時、あなたが村上さんの手提げ鞄を一時的に預かっていたと思うのですが、村上さんが帰るまでの間、あれはどこかに置いておいたのですか?」

「いえ。どこにも。人様から預かった貴重品でございますから、執事という職業柄、わたしはずっと手に持っておりました。しかしわたしも執事である前に人間ですから、一度、トイレに行きたいと思ったら我慢するということは難しい。応接間のソファーの上に置いておくのも無用心で礼儀に反するという気が致しましたもので、トイレの中に持ち込みました。その後、村上様が琴音様の仏壇にお線香をあげられて、もうお帰りになるというお話になったので、玄関ホールでお返ししたのです」

 稲山はそう言うと、次は何を尋ねられるのだろうという表情で不安げに祐介の顔を見つめた。


 祐介はまた何か考え始めたらしく、しきりに頷きながら黙っていた。


 祐介と英治はその部屋を後にすると、再び稲山執事の案内のもと、早苗夫人の寝室に向かうことになった。早苗夫人はぐったりとベッドの上で休んでいた。祐介は、早苗夫人のような高貴な未亡人に接したことがないので、どう語りかけてよいものか思案しながら、

「少しお話をお聞きしてもよろしいですか?」

 と尋ねた。

「ええ、どうぞ……。まったく理解のできないことが起こりましたわ」

「琴音さんのことですか?」

「ええ。わたしには理解できないことで……」

「………」

「琴音は生きている。でも、蓮三は……」

 早苗夫人は愛していた息子の蓮三のことを思い出しているらしく、ぶつぶつとなにか呟いている。そして顔がくしゃくしゃに潰れたようになり、悲鳴のような声を短く叫んで、ベッドに突っ伏した。


 祐介は英治と顔を見合わせた。早苗夫人の心理状況を想像すると、事情を聴取する順番を変えて後まわしにしてもよかったが、早苗夫人自身が起き上がり、顔をハンカチで拭うと、

「失礼いたしました。なんでも……聞いてください」

 と言ったので、祐介は罪悪感に苛まれながらこう尋ねた。

「事件が発生する以前に、最後にアトリエに行かれたのはいつのことですか?」


「事件の起こる前日の夜のことですわ……」

 早苗夫人は、遠い昔を思い返しているような表情をしている。

「それは何時ごろのことでしたか?」

「午後十時頃だったかしら……」

「なぜアトリエへ?」

「重五郎さんが、アトリエに忘れてきた本を取ってきてほしいと言ったからです……」

「それは何の本でしたか?」

「セザンヌの、画集でしたわ……」

 祐介は口の中で「セザンヌ」という言葉を繰り返した。確かに根来の話によれば、アトリエには印象派を真似したような絵画が並んでいたらしい。セザンヌの絵画に似せた作品もあったという。こうした点からも重五郎がセザンヌの作品が好きだったことは、ごくごく自然なこととして理解できるのである。


「なるほど。セザンヌの画集でしたか。早苗さんはその翌日、事件のあった日は朝からお出かけになったそうですね」

「そうですね。朝六時頃にここを出て、高崎の方へ行きましたわ。知り合いのご婦人とそこのレストランでお食事をして、夕方六時にはここに帰って参りましたわ」

 そう言いながら、早苗夫人はしばらく幻を見ているような目つきをしていた。

「そうですか……」

「その後、あの人は誰かに……」

 早苗夫人は突然、怯えたような口調でそう呟いた。祐介は早苗夫人の瞳の中をちらりと見る。


「あまり、そのことをお考えになってはいけませんよ……」

「そうですね……」

「ところで、怪人の絵は本当に心当たりございませんか……」

「わたしは嘘はつきませんよ……。そのようなものは知りません」

 早苗夫人はそう不満げに言うと、また「蓮三」と呟いて涙を流したのだった。それは到底演技とは思えなかったので、祐介は気の毒に思いながら、このあたりでと断って英治を連れて、部屋を後にしたのだった。


「なんとか救いようがないものだろうか……」

 廊下には稲山が立っていた。それに構わずに英治がそう祐介に訴えるように言った。

「亡くなった人は二度と戻ってこない。琴音さんは不死鳥のように生き返ってきたように見えるけれど、実際には、鞠奈さんが亡くなっているんだ。世の中には取り返しのつかないことがあるものさ……」

 祐介がそう言うのを聞いて、英治は祐介がひどく冷淡な人間であるように感じられた。

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